「これは、お前なんかの髪を飾る為のカンザシじゃない」
「自分の身を飾り立てる為に人を殺す様な女の癖に」

そうしてカンザシはようやく、「ヨシ」の手に戻った。

完全に山賊をこの土地から追い出す為にゾロと「ヨシ」は彼らのアジトに
火を着けた。燃え落ちる古びた建物を「ヨシ」はじっと身じろきもせずに
見つめている。その手には、もうあの大ぶりな刀ではなく、しっかりと
「カンザシ」が握られていた。

「これからどうする」とゾロは尋ねなかった。
そう尋ねたら、「ヨシ」は迷うだろう。
既にこの世の者ではなく、肉体は恋人が見も知らぬ他人で、会ったところで、
「ヨシ」だなどと信じてもらえる筈も無く、また、自分が恋人との約束を
守れなかった日からどれほどの時間が経過しているかも判らない。

もしかしたら、もう違う男と所帯を持って、幸せに暮らしているかもしれない。
迷う要因の方がずっと多く、それでも会いたいと思う勇気を振り絞るには
自分一人では無理に違い無いとゾロは思った。

(もしも、俺がこいつと同じなら)とゾロは考えた。
そして、(きっと俺だって迷う)と思った。
「ヨシ」が生きている人間で、時間が有り余っているのなら、迷うのも
悪い事ではない。けれど、「ヨシ」がサンジの体に留まれるのは、
サンジの魂がもとの力を取り戻し、眠りから醒めるまでの間だけだ。
迷っている時間は無い。それなら、誰かが迷う要因や言い訳を一切否定して、
強引にでも背中を押してやるべきだ、とゾロは答えを出して、

「村はどこだ」と「ヨシ」に言った。
「村?」と「ヨシ」は我に返った様にゾロに聞き返す。

「そのカンザシを渡す相手が住んでる村に行く」とゾロは断定的に言い切った。
「案内してくれ」

強引な口調で、「ヨシ」に決して「でも、」と言わせない為に。

山賊のアジトから山を下って、1時間ほど歩いた。
その道端には、やはり、曼珠朱華が群生している。
金木犀の薫りがどこからともなくただよって来る。

「あそこだ」と「ヨシ」が指差したのは粗末な木造の建物が、こじんまりと寄せ集まった小さな村だった。
幼い子供が賑やかに笑いながら走りまわっているのが見え、道端に自分達が育てた
野菜などを広げてそれを丁寧に紐で括ったり、泥をこそげ落したりしながら
談笑する女達の姿も見える。

平和で穏やかで長閑でささやかな幸せが詰まった様な場所だった。

「ヨシ」は立ち止まってカンザシを見つめている。
サンジの細く、華奢な手首に握られているそのカンザシは細い金細工で、
小さな花の形に細工された朱色の珊瑚が細く連なっていて、髪に挿せば、
女性が頭を揺らす度にそれも可憐に揺れる、夕日の中に見る「金木犀」の花を
模した物だとゾロはやっと判った。

会いたい。
名乗れなくても、一目だけでも。

そう思っている「ヨシ」の気持ちが何も言わなくても、そのカンザシを強く握り締めた
拳とそれを見つめて唇を噛み締めた「サンジ」の表情でゾロには判る。
そして、魂が空井戸の底にこびり付くまで恋焦がれた恋人に会えると言うのに、
喜びと期待よりも様々な事柄への迷いの方がずっと強いと言う事も。

忘れられていやしないか。
恨まれているのではないか。
幸せでいてくれたのか。

何より、今でも生きているのだろうか。

「すまない。行こう」「ヨシ」は足を踏み出さねば絶対にそんな迷いを振り切れないと
悟ったのか、数分立ち止まってから、ゾロに黙って待たせてしまった事を詫びて、
やっと歩き出した。

村に入ると、なにやら、金木犀の匂いだけではなく、美味そうな料理の匂いが
仄かに香って、一軒の家の玄関先に大勢の人がにこやかに酒を汲みかわしているのが
「ヨシ」とゾロの眼に入った。

「ミヤビの家だ」と「ヨシ」は忘我の面持ちでそう呟いた。
「ミヤビ?恋人の名前か」とゾロは尋ね、そのどことなく華やいだ雰囲気の家に
視線を映した。

結婚式、と言う程仰々しい雰囲気は無い。
子供が生まれた、とか、長年連れ添った夫婦の祝いと言った感じだった。

村に来訪者が来るのは珍しい事なのだろう。
ゾロと「ヨシ」に体を貸している「サンジ」を村人は少し、遠巻きに見ていたが、
ちょうど、空島で出会った「コニス」と同じくらいの年頃の女性が一人、
おそる、おそる、と言った風情で二人に

「あの、お二人はどなたでしょうか」と声を掛けてきた。
「おばあ様のお知り合いですの?」

「ッミヤビ」
「ヨシ」が小さく口の中で叫んだ。驚きのあまり声を上げそうになったのを
どうにか堪えたが、その声は女性に聞き取られてしまう。

「ミヤビ?ミヤビは私の祖母ですわ。」
「今日で80になるんです。皆でそのお祝いをしているんですよ。」
「お知り合いなんでしたら、おばあ様のところへご案内します」と
その女性はにっこりと笑った。

「ミヤビさんに金木犀の木の下で待っている、と伝えてください」と
「ヨシ」は震える、「サンジ」の声でそう言った。

「世話を掛けっぱなしで済まないが」

「ヨシ」は村外れの金木犀の木の下まで無言のまま歩きつづけ、
ゾロはその背中に何故か引き摺られる様に、付き添った。

「ここでミヤビにこれを渡せば私の魂は多分、この体から抜け出るだろう」
「そうしたら、サンジの体は眠ったままになる」
「私が抜け出ても、もう死ぬ事はないが、こんなところでぶっ倒れていたら、」
「色々と困るだろうから後の事は」と言い募る「ヨシ」をゾロはただ、

「判った」とだけ言って黙らせた。

80歳の老婆になった恋人を前に、人は変わらない愛情を持ち続けられるのか。
綺麗ごとなら「応」と言える。だが、実際、「ヨシ」は二十歳過ぎのままの
「ミヤビ」の姿しか知らないのに、姿形の変わった恋人を前にして、
それでも、「愛している」と言えるのだろうか。

「あの盗賊の娘も孫娘だったんだろうな」とゾロは巨木とも言えるほど
大きく育った金木犀を見上げてそう独り言の様に呟いた。

「確かに村から奪ったモノじゃなかった筈だ」と「ヨシ」は俯き、自虐的に
薄く笑った。

枯葉を踏み締めて、ゆっくりと歩く、小さな足音が聞こえて、徐々に近付いて来る。
杖をついているのか、時折、カツン、カツン、と乾いた音も聞こえる。
足取りも、その緩やかさも老婆のものだ。

「ヨシ」がゆっくりと振り向く。空には鱗のような薄い雲が朱鷺色に染まりつつあった。
金木犀の匂いとその金色の花びらがほの寒い秋の夕暮れの風に舞った。

「旅の方、私がミヤビですが」

真っ白な髪。屈んだまま、丸くなった背中。
杖を握った皺だらけの腕、白濁した瞳、それでも、凛と品格のある老女が
優しげに二人に自分の名を名乗った。

「はじめまして」と「ヨシ」は言った。
その頬には笑顔が浮かんでいる。

(?!)ゾロは二人の視界に入らない場所で事の成り行きを見つめている。
「はじめまして」と言った言葉は、一瞬、ゾロに
「ヨシ」の魂が既に抜けて、サンジの意識が戻ったのかと思わせたが、

サンジの顔に浮かんだ笑みはいつもの、女性に対する美辞麗句を吐いて
笑うサンジの顔ではない。

うっすらと夕日が映る蒼い瞳にさざなみの様な憂いが零れそうになっていた。
それを堪えて、微笑んでいた。

「この土地に来て、私は幽霊に会いまして」
「幽霊?」と「ヨシ」の言葉にミヤビは怪訝な顔をする。

「約束を守れなかった御詫びにこれを渡してほしい、と」と「ヨシ」は
そっとミヤビの前に「カンザシ」を差し出した。
「カンザシ」を受取った途端、老いの穏やかさしかなかったミヤビの
白く濁った瞳に見る見るうちに激情が込み上げてくる。

「その人は」
「その人はヨシ、と言いませんでしたか」とミヤビはサンジに取り縋るように
そう言った。

「ええ」とサンジの声は答える。
「ああ、」

ミヤビは杖を地面に投げだして、両手でカンザシを握り締めて
膝を折り、胸にしっかりとそのカンザシを抱き締めた。

「あなた、こんなに長い間、私との約束を忘れずに」
後の言葉はゾロは聞き取れなかった。嗚咽の中に混じる様々な後悔の言葉と
ヨシの名前を何度も呼ぶミヤビの声は聞き取る事が出来ない言葉なのに、
止めど無い哀しみはゾロの胸にまで迫ってくる。

ミヤビが泣き崩れた事、会いたいと思い続けた二人がようやく会えたのに、
「ヨシ」は自分が「ヨシ」だと名乗らず、地面に崩れ落ちて泣く、
小さな、皺だらけのミヤビを包む様にサンジの手で柔らかく抱いて、
ただ、目を伏せていた事だけがゾロが見た全てだった。


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