ゾロは、二人に背を向けた。
無関係だから、無関心だから、背を向けたのではない。

「ヨシ」と「ミヤビ」の哀しみと言う感情が今、この場所の空気の中に色濃く混じって、
ただ、眺めているだけなのに、息が詰まって苦しくなる。

自分の事でもなく、まして、自分の身内の事でもないのに、目の奥が熱くて
痛くなる。だから、背を向けた。何も聞かず、夕焼け空を見上げ、朱色に染まった雲を
目で追うことに意識を集中する。

金木犀の木の枝が夕暮れの風に揺れる。

「ヨシ」はミヤビを抱き締めた。
なんて、小さくて、頼りない体なのだろう。
真っ黒で豊かだった髪も細く、まばらになって地肌が白髪に透けて見えるほどだ。
それでも、愛しいと思った。
「金木犀の下で待っていて欲しい」と約束した日がつい、昨日の様に思える。

今、ミヤビを抱き締めているのが、「ヨシ」なのだと言えたら、
どれだけ幸せだろうと思うのに、「ヨシ」にはそれが出来ない。

白く、滑らかな肌のミヤビ。
黒い髪と黒い瞳が美しかったミヤビ。
春の日の木漏れ日のような誰よりも優しく微笑んだミヤビ。
野鹿の様に溌剌と自分の後を追い駆けて来たミヤビ。
その面影はどこにもない。

愛し合った頃とは程遠い、そんな老いさらばえた自分の姿を見られたくはないだろう。
そして、今、「サンジ」の腕の中で泣くミヤビは、自分以外の男と所帯を持ち、子供を持った自分を責めていた。

「幸せでいてくれたのならそれでいい」とさえ「ヨシ」は言ってやれない。

泣き崩れるミヤビの背中を「ヨシ」はサンジの手で撫でた。
自分の手と違う、薄く、細い指で息が苦しくならない様に、ミヤビの丸い背を
擦る様に忙しく撫でた。かつて、些細な事で喧嘩をし、泣かせた時にそうして
慰めた様に。

「・・・ヨシ、」涙で濡れた、深く皺の刻まれた顔のミヤビが恐る恐る顔をあげる。
目の前にぼんやり見えるのは、初めて見る金色の髪、蒼い瞳の若い男の顔。
けれども、背中を擦る手の温もり、自分を同情ではなく、憐れみでもない
温かな、それでも切ない眼差しは誰の物か、ミヤビは悟った。

涙に濡れた白濁した瞳と涙が溢れそうな蒼い瞳はお互いをじっと見つめた。

「ヨシ、なのでしょう」
「あなたは、ヨシなのでしょう」

乾いた、硬い皮膚のミヤビの手が「サンジ」の頬を包んだ。
蒼い瞳の奥を懸命に覗き込み、震える声でミヤビは言う。
「ここにいるのでしょう?」

「サンジ」の頬に涙が伝った。
「ヨシ」が堪えようとしたのに、まるでミヤビの問い掛けへの答えの様に目頭から涙が零れ落ちて行く。

「夫は20年前に死にました」
「40年も連れ添ったけれど、私はあなたの事を1日だって忘れた事はありません」

約束が果たされる日を待てずに、所帯を持った事をあなたに知られて、
責められる夢を何度見た事か。
それでも、その夢を見る度に正夢になる事を祈って、この金木犀の木の下で
朝までずっとあなたを待っていた。

そう言って、ミヤビは泣いた。

「幸せだったか」と「ヨシ」は「ヨシ」の言葉でミヤビに尋ねた。
ミヤビは小さく頷く。
「幸せだったのなら、それでいい」幸せでいたけれども、それでも
自分を忘れずに、ずっと心の底で想っていてくれた事が判っただけで
「ヨシ」はもうなにも思い残す事はないと思った。
なのに、魂にこびり付く切なさは消えない。
その思いが切実な呟きになり、「サンジ」の口から零れて行く。

「ただ、」
「私は」
「ミヤビと一緒に歳をとりたかった」

声を詰まらせつつそう言いながら、「ヨシ」はそっとミヤビの手からカンザシを取って、
白髪の頭に優しく、昔と何も変わらない仕草で挿した。

「会いたかった。」
「ミヤビに会いたくて」
「私はどこにも行けずに」

もっと言いたい言葉があるのに、「ヨシ」はサンジの体から押し出される様にして
その体から抜け出た。
思い残す事がなくなり、サンジの魂が回復した事で「ヨシ」が旅立つ時が
訪れた合図だった。

見えない筈のその形を、崩れ落ちたサンジの体を抱き締めたまま、ミヤビはしっかりと
見つめている。他の誰にも見えなくても、ミヤビの目には、
逞しく、優しく、誠実だった恋人の姿がはっきりと見えている様に、
二人は見じろきもせずにただ、見つめ合った。

太陽がゆっくりと地に落ちて行く。
その最後の光が金木犀の木の影をくっきりと地面に落した。

ミヤビの眼に、「ヨシ」の唇が告げた。

これからは、この場所で。
この金木犀の木からミヤビのところへ吹く優しい風になり、私はこの場所にいる。
ミヤビが天命を全うする日まで、いつも金木犀の薫る風になって側にいよう。

その言葉も「ヨシ」の姿も、金木犀の花がハラハラと地面に振る風に混ざって、
夕闇に溶けて行った。
ミヤビはそれを黙って見送る。恐らく、そう遠くない日にまた、「ヨシ」と再会出来る日が来ると確信していたからだろう。


「あなたの恋人は、素晴らしい」

金木犀の木を絶え間なく涙を流しながら見つめるミヤビの腕の中で
サンジは眼を開けた。
「ヨシ」とミヤビの言葉のやりとりではなく、「ヨシ」の心に流れ込み、溶け合った
ミヤビの心の動きでおおよその経緯を知っているだけだ。
ゆっくりとサンジは体を起こし、優しくミヤビを立ち上がらせる。
「あんな風に人を愛せるなんて奇蹟を見たような気がします」と労わるように
ミヤビに微笑んだ。
さっきまでの笑顔とは違う、とミヤビは感じる。
もう、ここには「ヨシ」はいないと、その若若しく、華やかな笑みを見て思った。
気の所為でも幻でもなく確かに、「ヨシ」は自分を抱き締めていたのだと
ミヤビは確信して、自分の恋人を誉められて、誇らしく思う、満足した笑顔で
サンジの言葉に応える。

何時の間にか、サンジとミヤビの側にゾロが歩み寄って来ていた。
「幼馴染に伝言を頼もうと思ったんだが」とミヤビが見つめる金木犀を眺めて呟く。

「あの世にはまだいかねえつもりらしいな」

足の悪いミヤビを家まで送り届ける間、ゾロはその金木犀の根元でサンジを待った。

「ヨシ」はこの金木犀の木になった。
そこに「ヨシ」がいるような気がして、ゾロは太い木の幹に手を添えながら
話し掛ける。

「生きてたら手合わせして貰いたかったな」
「強かったんだろう、あんた」

あんなに誰かを強く愛せる男が弱いワケがない。
今のゾロならそう言える。

自分の野望の為、ただ、それだけの為に戦って来た頃なら、そんな感情は
却って邪魔だと思っていた。だが、今は違う。
その瞬間を見せたい者が側にいる。
夢の為に迷わずに歩く姿を見ていて欲しい者が側にいる。
その存在がどれだけ力になるかを知っている、今のゾロなら「ヨシ」の魂の
強さを伺い知る事が出来る。

「俺にはとても出来ねえ」

自分が死んだ後、幸せになっている恋人を前にして「ヨシ」の様に
それでもまだ愛していると言えるだろうか。

「俺なら」
「殺してしちまうかもしれねえ」

そんな了見の狭い男だ。
もしも、「男の裁量」として負けている生身の「ヨシ」と出会っていたら、
紙一重のギリギリと言う力の差しかないのであれば、間違いなく負けているだろう。
そう、ゾロは思った。

(そんな事、できっこない)と「ヨシ」の声が聞こえたような気がして、
ゾロは空を見上げる。
枝と小さな葉から見える空は既に漆黒に星が瞬いているのが見え、
金木犀の薫りを吹くんだ柔らかな風が頭の上から吹き降りて来た。

(終り)