熟睡する男
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一人きりで、誰も信用せずに生きて来た頃よりも、
明らかに、今の自分は、

「鈍っている」をニコ・ロビンは自覚していた。
自分以外は皆敵。その感覚を忘れ掛けている事が、「鈍っている」という状態だ。

笑っている時間が増えた。
ぐっすり眠れる心地良さを知った。

おはよう、で始まり、
おやすみ、で終る。

そんな生活が、このグランドラインという狂暴な海の上で望めるなんて
考えたこともなかったし、
実際に自分がその中に身を置くことが出来るなど、今だに信じられないでいた。

いつか、崩れてしまうのではないか。
失ってしまうのを怖れる程の宝、

かけがえのない仲間をこの手にしたのは生まれて初めてだった。

自分一人で生きて来た時は、守りも攻めも頼るのは自分の力だけだったから、
気が張っていた。

けれど、今は違う。

守られている。守ろうと戦ってくれる男がいて、
それに甘え始めた自分に気がついた時に、ロビンは、

「鈍っている。」と気がついた。

そして、それに気がついた、その日の昼過ぎの事だった。

とてつもなく濃い霧が海域を支配していた。

「こう言う時、こちらの姿も隠せるけど、向こうの姿も見えないからよほど
気を付けないとね。」とナミが顔を強張らせる。

「まあた、お前は。気がチイせえなア。」と船首に座ったままの
ルフィが呆れてナミを笑う。

「でも、航海士さんの言うとおりよ。気をつけるに越した事はないわ。」
とロビンもナミの肩を持つ。

「幽霊船と遭遇するかもな。」とやはり、緊張した面持ちの
チョッパーとウソップに聞こえよがしにサンジが大袈裟なほど真剣な口調で言う。

ロビンの立つ位置からは、長い前髪が邪魔をして表情が伺えないが、
臆病な船医と狙撃手をからかっているのだろう。

その時だった。

「助けて。」

船底が波を削る音と帆に風を受ける音に混じって声が聞こえた。
かぼそい、女性の、いや、少女の声。

チョッパーとウソップが震えあがる。
口々に「そ、そ、空耳、空耳だ」と喚くが、
「静かに」ロビンがその口をにょっきりと生やした手で塞ぐ。

「助けて。」
「助けてください。」

ナミの顔も真っ青だ。
「サンジ君の所為よ」とブルブル震えながらサンジを批難する。

「なんで、俺」と件の声に全く動じなかった癖にサンジはナミの批難の言葉に
過敏なほど反応した。

「あんたが幽霊船がどうのこうの言うからじゃないの。」
「二人とも、静かにしろよ。」とルフィが振りかえってナミとサンジを止める。

「あれだ、ほら。」と前方、斜め下を指差す。

「助けて、ください。」と小さなボートを漕いでいるのは、
13、4才くらいの少女。そして、その両親らしき二人の男女、その後ろに
屍のような老人が二人蹲っているのが見える。

「船が座礁して動けないんです。おじい様とおばあ様が死にそうで」
「どうか、助けてください。」

言い終わらない間に、ルフィの手が伸びる。
まずは、少女を、続いて、両親を、そして最後に老人二人を甲板に引き摺りあげた。

サンジはすぐに温かいモノを作る為にキッチンへ。
ナミは病人を休ませるベッドを作る為に格納庫へ。
チョッパーは診察道具を取りに男部屋へ。

ウソップは風呂を焚きにバスルームへ。

「俺は何をすればいいんだ、ロビン」とルフィは暢気に突っ立っている。

何か用を頼むとその失敗の後始末に後で倍手間が掛る。
ロビンはそれを知っていたから、にっこりとルフィに笑い掛け、
「コックさんを手伝ってきて頂戴」とルフィをサンジに押しつけた。

「とにかく、お年寄りの手当てをしないとね。」とロビンは、甲板に横たわったままの
老婆の側にかがんだ。

こんな無防備な事をした事はなかった。

以前の自分なら、棄てておいただろう。
敵とも味方ともわからない上に、
素性も得体も知れない者達を助けなければならない必要性をロビンは見出せなかった。

けれど、今なら時として、それが助けられた者にとって
"余計なお節介"であったとしても、決して無駄な事ではないのだと
自分の身の上になぞらえて、今なら、理解出来る。

脈を取る為に手に取った老婆の手を取った瞬間だった。

(違う、これは。)老婆の手などではない、とロビンが能力を発動させるより前に、
音もない銃弾がロビンの心臓を撃ち抜く。

(騙された)と気がついた時には、もう遅かった。
そこからロビンの意識は唐突に途切れる。

「相変らずいい腕だ。」と老婆に扮した男がむっくりと起き上がった。
「麦わらの一味のニコ・ロビンか。獲物はこれだけでいい、死体を持って」
「サッサと逃げようぜ。」

少女だと見えたのは、眼光の鋭い少年、遭難を装い、海賊だけではなく、
商船までも襲う、彼らも、"海賊"だったのだ。

「まさか、こんなに簡単に仕留められるなんて夢にも思わなかったな。」と
歯茎を剥き出しにしてケケケ、と低く笑いながら、
ロビンを撃ち抜いた男が眼を見開いたままの獲物の体を肩に担ぎ上げた。
その時に、

「待てよ。」

霧の中から凄まじい殺気が漂ってきて、男達の逃げ足を竦ませた。

(ロロノア・ゾロ)だ、と彼らはその霧の向こうの影の名前を知っている。
逃げねば、皆殺しだ。だが、判っていても、まるでゾロの放つ殺気にすでに
がんじがらめに縛りつけられた様に、一歩も動けない。

「に、逃げるぞ。こうなったら勝ち目はねえ。」とガクガク震えながら、
母親に扮していた中年男が呟く、それをキッカケにして、

男達はロビンの体をゾロの方へと乱暴に投げつけた。
ゾロがその血まみれの体を抱きとめた時に恐らくゾロは驚愕するだろう、
その隙をついて、次々に海へと逃亡する。

「おい、ロビン、」

うっすらと目が開いていたから、意識があるものだと思っていた。
あのバロックワークスの副社長をしていた女、
8歳から20年もの間、
一人きりで生きて来たほどの逞しい女がこんな稚拙なだまし討ちにあうなど
ゾロには信じられなかった。

あっけなさすぎる。

何度呼んでも反応がない。
胸に穿った穴は貫通していて、ゾロの腕にも血が滴り落ちてくる。

ナミが掌でロビンの瞼を閉じると、眠っているようにしか見えなかった。
それほど、ロビンの顔には傷一つなく、穏やかだった。

「即死だったと思う。」とチョッパーは言う。

「そんなバカな事があるか。」とどれだけ嘆いても、ロビンの心臓は
鉄の弾で撃ち抜かれた事は現実だった。

けれど、哀しみに泣き崩れる間もなく、とてつもなく大きな嵐に遭遇した。

ロビンの亡骸は、ナミのベッドの上に安置されたままだ。

嵐は、中々通過せずにゴーイングメリー号は休む間もなく、
嵐と戦わなくてはならなかった。

「この揺れじゃ、ロビンちゃんがベッドから転がり落ちてしまう。」と
サンジがわずかに風が弱まった時にナミの部屋へロビンを見に行って、
それからまた、すぐに激しい風に小さな船は嬲られて、

どうにか、嵐を乗り切ったのは、ロビンが死んでから3日も経ってからからだった。

「サンジ、腹減った。」とルフィはまず、サンジを探した。
「そう言えば、ロビンのところから帰って来てないわ。」
ナミは船を操るのに必死で、サンジがいない事に気がついていながらも、
呼びに行けなかった事を思い出した。

「あいつ、泣き崩れてたんじゃねえだろうな。」ウソップも疲労困憊、と言った
表情で相槌を打つ。サンジへの憎まれ口も本人がいないのでつい、
口から飛出す。
「俺達が必死で嵐を乗り切っている間によ。」

ゾロは、もう、壁に凭れて眠りについていた。
霧はゴーイングメリー号に纏わりつくようにまだ晴れない。

「船医さんはどこ?」

甲板でロビンの声がした。
そのあまりの自然さに、そこにいた全員も、なんの違和感も感じずに、

「チョッパーなら、船尾にいると思うわ。」とナミもまともに受け答える。
「そう。」とロビンもごく自然に答えて、船尾の方へと歩き出す影が霧に溶かされ、
足音が遠ざかる。

「どうしたの、なにかあった?」と聞き掛けたナミの頭の中で、

ロビンが一体、チョッパーになんの用なのかしら。
怪我でもしたのかしら、と言う独り言が浮かんだ。
そうすると、頭の中に閃光が走ったように ロビンが3日前、
胸を撃たれて死んだ事を思い出した。

(ちょっ)ナミの頭が混乱する。

今、アタシが喋ったのはなに?誰?と声に出せない悲鳴がナミの喉を
締めつけて、変わりに膝から震えが全身に広がった。

「い、今のロビンだったか。」とウソップもようやく気がつく。
ナミは うん、うん、うん、と何度も声を出さないまま頷いた。

「生き返ったんじゃねえか、良かったなア。」と暢気にへらへら笑っているルフィの
横っ面をナミは天候棒で殴り倒す。
「イダイっ。なにすんだ!」とすぐにルフィはナミの暴挙を批難するが、
「痛いのね、ルフィ、これは夢じゃないわ。」ナミの言葉で遮られる。

「確かめてきて、ロビンが生きかえったのか、幽霊なのか。」

いくら能力者だからといって、心臓を撃ちぬかれて生きかえるわけがない。
まして、はっきりと死後硬直まで起こしていたのに。


「コックさんが倒れて動かないの。」

ロビンを目の前にして、チョッパーも震えあがっていた。
が、

「幽霊じゃないわ。ほら。」とロビンは自分の足を指差し、チョッパーの頬を
両手で包む。

「本当だ、温かい。」脈を取り、瞳孔を診る。
間違いなく、生きている人間だ。

「目が醒めたら、私の手を握ったまま、コックさんが床に倒れてたの。」と
ロビンは女部屋に行きながら、自分の知っているだけの状況をチョッパーに
説明する。

「私にもなにがなんだかわからないわ。」
「今、目が醒めたばかりなんですもの」

サンジは、ナミの部屋に行った。
ズブヌレのままで、まっくらなナミの部屋に手探りで入って、
なんとかカンテラの弱い光を頼りにしながら、ロビンがベッドから落ちているのを
すぐに抱き上げて、もとどおりに柔らかいベッドの上に横たえた。

「眠ってるだけにしか見えないよ、ロビンちゃん。」と抱き上げた時には、
カチコチになってまるで蝋人形のようなロビンの体が悲しくて、
涙を零す。

サンジが覚えているのも、ここまでだ。

どんな感情の昂ぶりがサンジの能力を呼び覚ますのか、
どんな状況ならそれが発動するのか、全く謎だ。

その能力は、サンジ自身で制御できない神秘で危険な力だった。

深い霧の水分がよほど波長にあったのか、
ロビンの死を嘆くサンジの感情が乱れた所為で、
ヒトヒトの実の能力を持つ、不老不死の樹木、ピノが唐突に目覚めたらしい。

体内の樹液が気化して、ロビンの体を包む。
サンジが生きている限り、ピノとサンジの細胞は一体化しているから、
樹液が尽きる事は無いけれど、

サンジを助ける為に樹液を使い果たしてピノが枯れたのと同じで、
ロビンを助ける為に、サンジの体にもかなりな負荷が掛ったのだ。

樹木でいえば、「枯れそうなくらい」サンジは弱ってしまい、
ロビンの側で倒れ伏していた。

けれど、そんな現象を誰が推し量れるだろう。

いや。

この船でたった一人だけ、昏睡のサンジの様子をみた途端、
ロビンの甦生がサンジの力の所為だと見破った者がいた。

(あれは夢じゃなかったのか。)

サンジと溶けて一つになったまばゆい黄緑色の光りに包まれた感触を
ゾロはサンジを抱いた後のまどろみの時に夢の中で思い出す事があった。

「ロビン、目が醒める前に夢を見なかったか。」とゾロは
皆がナミのベッドに横たわったままのサンジの枕元に集まっている前で、
ゾロはロビンに、かなり真剣な口調でそう尋ねた。

「見たわ。」ロビンは澱みなく答え、
「ビロードみたいな柔らかい樹に抱かて、溶ける夢だった。」

ゾロを助けよう、とした時は、サンジの意志の力がより強く働き、
ロビンを助けよう、とした時は、サンジの意志よりも融合しているピノの気まぐれが
作用した違いが、すなわち、ゾロが見た夢とロビンの夢との違いなのだが、

そんな事を推測してもなんの意味もない。

とにかく、今は、サンジがいつ目が覚めるとも知れない昏睡状態に陥っている事、
そしてその状態が酷い衰弱状態で、いつ心臓や呼吸が止まるか知れない程だと
言う事の方が重大事だった。

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