「いつ、心臓が止まるか、呼吸が止まるか。」

いわゆる、極限に衰弱した上の昏睡だとチョッパーは言う。

「一時も目が離せない。」状態で、サンジの枕元には
船を操舵していない者とチョッパーが常にその容態を見守っている。

「サンジ、腹減ったぞ」とルフィが駄々を捏ねるように何度呼び掛けても、
サンジはピクリとも動かず、目を醒ます様子は見られない。

ただ、とても小さく、規則正しい寝息を繰り返すだけだ。

「食事よ、剣士さん。」

温かなナミの部屋に寝かされているサンジの側にゾロとチョッパーが詰めていた時、
ロビンが食事を運んできた。

「いらねえ。」
ゾロは階段から降りてきたロビンに一瞥もくれずに、
じっとサンジを凝視したまま、ぶっきらぼうに答える。

「コックさんが倒れてから、一度も何も口にしてないんでしょ?」
ロビンが労わるような笑みをゾロに向けても、
「いらねえっつってんだ。下げてくれ。」とにべもない。

「サンジが倒れてからもう2日も経ってるよ?」
「何が食べなきゃ、」とロビンの気遣いにチョッパーが口添えをする。

「キッチンで食べるよりも、コックさんの側がいいんじゃないかと思って
運んできたんだけど。」とロビンは困惑したように、チョッパーに向き直った。

「俺の分はキッチンにあるんだね。」とロビンの手が捧げもっているトレーには
一人分しか乗っていない事を見て取ったチョッパーはニッコリとロビンに笑みを返し、

「何かあったら呼んでくれ。俺、急いで食べてくるから。」と階段を駈け上がって行った。

まだ、霧の霞む海域を出ていないらしく、日が暮れるのがやたら早い。
チョッパーが扉を明けても、光りは差し込まず、冷え冷えとした空気と
影のような闇が階段から降りてきた。

「もう、夜か。」
「ええ。」

ロビンはゾロの独り言に律儀に答えて、ナミのデスクの上に食事を置き、
ベッドの側の椅子に腰掛けているゾロの横に佇んだ。

「なんでも、コックさんが大怪我をした時に狙撃手さんが教えてもらったスープだそうよ。」

ウソップが作ったスープで、味はサンジの作った物とそう変わらない。
だから、食べろ、とロビンは言いたいらしい。

「味の問題じゃねえ。」とゾロはまだロビンを見もせずに答えた。

「俺が食ってる時、こいつが目を醒ましたら困る。」
「どうして?」

ゾロの言葉をロビンは頓着なく、聞き返す。
興味ではなく、ごく自然に、ゾロがサンジの事を話すのを聞きたかった。

ロビンにとってサンジは全く理解出来ない人間だった。
いや、この船に乗っている人間の、誰一人としてロビンは理解出来ない。
まず、船長からして全く理解出来ないのだけれど、

理解できそうな位置にいるのに、それが出来ないもどかしさを感じさせるのが、
サンジだった。

懐に入れて欲しいと近づいてくる癖に、決して自分の本音は言わない。
バカなのか、利口なのか、サッパリ判らない。

あの「ミスタープリンス」、が本当にサンジだったとは
今でもちょっと信じられない。
この船の上では、常に自分の前では笑顔を振りまき、
愛想を言い、纏わりついて、美辞麗句を並べたて、自分とナミの笑顔を引き出す為に
道化て、甘えて、軽やかに振舞っている。

それなのに、彼の一番大切な人間は、ナミでもなければ、自分でもない。

人目のあるところでは最もぞんざいに扱っている、「ロロノア・ゾロ」なのだ。
(なぜ?)と思っても不思議でない。

「あなたがお腹を空かしてる方が嫌かも知れないわよ?」と
ゾロの答えを待たずにロビンはゾロに笑い掛けた。

「他の奴ならきっとそうだろうが。」
「俺は別だ。」

ロビンはサンジの寝顔を見た。
ずっと、ゾロが見つめつづけている寝顔はまるで、
陶器ででも出来ているように滑らかで、目鼻立ちも整っている。
(だらしない顔なんかしない方がずっと素敵なのに、)といつも思うのだが、
これほど、まじまじと何も話さないサンジの眠る顔を見るのは珍しく、つい、
じっと観察するように眺めてしまう。

「用がねえならさっさと行けよ。」
ゾロは、そうぶっきらぼうに言うと、やっとロビンに向き直った。
「あなたが食事を済ませたら。」とロビンは飄々と答える。

「俺が食ってる時にこいつが目を醒ましたら、困るっつっただろ。」
「だから、何故?」ゾロの迷惑そうな口調の言葉にロビンは肩をそびやかしつつ、
さっきと同じ会話を繰り返す。

「こいつの作った物以外を口にしたくないし、
それを食ってる俺を見せたくないからだ。」とゾロは強い口調で答えて、
デスクの上の食事を顎で指し示した。

「ルフィに食わせてやってくれ。」

それから、ゾロは本当に水か、酒しか口にしなくなった。

そして、それから更に2日が過ぎた。

栄養剤を与えても、どんな刺激を与えてもサンジは目を醒まさない。
回復するどころか、顔色もどんどん青白くなり、体の状態は悪化していく一方だ。
海からの風が体を冷さぬように、ナミの部屋の出入は迅速に、
一定の温度に保ち、チョッパーは必要な栄養剤を与え、
ずっと名前を呼んで、話し掛ける。

船の上ではそんな事しかしてやれないのがチョッパーはもどかしかった。

ルフィだけが、「寝てるだけなんだろ、目を醒ますさ。」と楽観的で、
ただ、サンジが日課にしていた蜜柑畑の手入れだけは引きうけながらも、
まるきり不安な顔はしない。

「霧が晴れるわ。」
見張り台の上からナミが前方を指差し、叫んだ。
波を切って進むと、唐突に澄み切った海風が、船を包んでいた霧が引き剥がした。

サンジが昏睡してから3日目にやっと霧の海域を抜けたのだ。

空は真っ青に晴れ上がり、
灰色にしか見えなかった海も、透き通るように輝く蒼さを取り戻し、
帆に孕む風は、夏の到来を予見する温もりを運ぶ春の名残の風のように心地良い。

サンジが昏睡していなければ、鬱々とした海域を抜けた気晴らしに、
美味しい甘味や軽食で楽しい宴会を開くことが出来るのに、と誰もが同じ事を思った。

瞼が僅かに動く。
指先が、睫毛がゆれる度に側にいる者が騒いだ。

けれど、サンジはまるで、冬眠した動物のように眠り続ける。

ゾロは、サンジを責めても、ロビンを責めても仕方のない事を知っているし、
判っている。
だから、心の中でずっと口にも態度にも出せない鬱憤を抱えていた。

(俺だから、特別だから、お前は俺を助けてくれた訳じゃなかったのか。)

ピノの能力が発動する、と言う理屈は薄々ゾロには判っているけれど、
それがサンジの意志が介入する余地などない事までは判らない。

自分が死病に取りつかれた時、サンジは確かに自分の命を削ったように、
体力を失っていて、結果的にこんなに長くはなかったけれど、
側で殺気だった戦闘をしていても、背中におぶって壁をよじ登っても
眠ったまま、目を醒まさなかった。

あれと同じ効果だとしたら、完全に死んでいたロビンを生き返らせたのだから、
衰弱が酷いのも当たり前だ。
いずれ、眼を醒ますことも信じていられる。

無意識ながら、命懸けで自分を助けた。
その同じ効果がロビンにも起きた。

(ロビンと俺はお前にとって同じ価値なのかよ。)と
目が醒めたら詰めよって聞き出さなければこの鬱憤は晴れないだろう。

「なあ、ゾロ、いい天気になったぞ。」と
サンジを気遣う気持ちと、責めたい気持ちの渦が心の中で激しくぶつかり合って
睨みつけるような顔付きでサンジを見ているゾロに、

ルフィが声を掛けながら、ナミの部屋の扉を大きく開きっぱなしにして
ドカドカと元気に階段を降りてくる。

「閉めろ、ルフィ。風が入って来る。」とゾロは振りかえって顔を顰めた。

昏睡している時には体温の調節機能が弱くなっているから、保温はしっかりしないと
いけないんだ、とチョッパーに言われている。
今まで、乗員全員がそれをぴっちり守っていた。

だが、ルフィはお構いなしに大声で朗らかに、
「天気になったとたん、蜜柑の葉っぱの色もピカピカになったし。」
「枯れそうだった、ピノの樹も水だけでピンピンに元気になったんだぜ。」
「きっと、サンジも風と水と太陽に当てれば目を醒ますんじゃねえか。」

そう言って、ナミのベッドが軋むほどの勢いでサンジが眠っている側に
寄り掛った。

(そうか。もしかしたら)

ゾロはルフィの言葉を聞いて、なるほど、と思った。

「植物ってのは、本当に弱っている時に栄養剤なんかやっちゃダメなんだ。」
「まず、余計な葉っぱを切る。」

いつだったか、真昼間に全員が昼寝してしまって、これ幸いとばかりに
サンジを蜜柑畑の影に引っ張り込み、
声を立てないようにひそやかにそれでも性急に抱き合い、その後に、
服の乱れを直しながら、サンジが甘い時間の名残を味わうように蜜柑畑を見上げつつ、
話していた言葉を、ゾロは急に思い出した。

「でも、切り過ぎると光合成が出来なくなるから、元気そうな奴を適度に残して、」
「後は、たっぷり温かい太陽の光と綺麗な水さえあれば、生き返るんだ。」

(たっぷり温かい太陽の光と綺麗な水さえあれば)ゾロは頭の中でサンジの言葉を
反芻した。

サンジの、この状態がピノが衰弱した状態、
つまり、植物の衰弱した状態だとしたら、ルフィの言うとおり、

太陽の光りに当ててやった方がいいかもしれない、とゾロは思いついた。

「ああ、そうだな。」とルフィの言葉に相槌を打ち、
「外で、こいつの寝れる場所先に作っておいてくれ。」とルフィに頼む。

「おう!」と元気よく答えて、ルフィは階段を軽やかに駈け上がって行く。


「おい、」とゾロはサンジの耳元で怒気を僅かに含んだ声で
囁く。

「俺を飢え死にさせたくなきゃ、これで眼を醒ませよ。」

ゾロは眠ったままのサンジを抱き上げた。
サンジの頭はゾロの肩にもたれるような角度になり、閉じられたままの瞼の上に、
ゾロはごく、自然に口付けたくなり、そっと唇を寄せた。

薄い皮膚一枚下の瞳が僅かに動く。

そのまま、甲板に出て歩いている内に、やっぱり、チョッパーが止めに来た。
「いいんだ、もうすぐ、目を醒ますから。」とルフィがチョッパーの襟首を
かなり離れた場所から掴んで引き剥がす。

「よし、いいぞ、ゾロ、こっちだ!」と
船首の側の甲板にルフィは空いた麻袋を敷き詰めた上に
海賊旗を広げて、サンジを待っていた。

「おう。」

ウソップも、ロビンも、ナミも何ごとかと心配して側に駆け寄ってくる。
「こんな事で目を醒ますの?」とナミも怪訝そうな顔でゾロとルフィの顔を交互に
見た。

「水もやんねえと、ダメじゃねえか。」とルフィは水筒に入れた水をゾロに手渡した。

「飲ませるのか、ぶっかけるのか。」とゾロは
(ナミやロビンの前で口移しなんかしたら後でどれだけ拗ねるか)か心配で
ルフィに真剣に尋ねてみる。

「ぶっかけたらどうだ。」とルフィは真顔で答える。
「だって、植物に口なんかねえもんよ。」

「「「本気で言ってるのか?」」」とゾロ、ウソップ、チョッパーの声が重なる。

「そんなの絶対ダメだ。」とチョッパーはブルブルと首を振った。

「ん〜、じゃあどうする。」とルフィが首を捻ると、
「飲ませてあげるしかないでしょう。」ロビンがゾロの側にしゃがんだ。

「植物は水を根から、人間は口から。」とゾロに向かってニッコリを笑い掛けた。
「で、しょ?」

「黙っててあげるわよ。」と
ナミはゾロが渋る理由も、ロビンの煽るような笑みの理由もすぐに察して、
ニヤリと笑った。

「それとも、コックさんがこうなった原因は私だから、」とゾロの手から
ゾロの腕ににょっきりと生えたロビンの手が水筒を取り上げる。

「私が口移しで飲ませて上げなきゃダメかしら?」
「余計なお世話だ。」とその水筒をゾロが奪い返す。

「あ。」

勢い良くゾロの手に奪い返された水筒の蓋はキチンと閉められていなかった所為で、
蓋が飛び、水がこぼれ出た。

サンジの手のあたりにそれが飛び散る。
その瞬間、ピクリ、と今までになく、サンジの手が動いた。

(口じゃねえのか。)

植物にとって、命を繋ぐのが根ならば、
サンジにとって、料理人にとって、人間に取って、夢を掴むべき場所は、

(手だ。)
ゾロはそう信じて、水筒の水をサンジの両手に振りかけた。


水筒の水が3回空になり、空が少し金色に染まる頃。

「ロビンちゃん、」

サンジはなんの前触れもなく、いきなり起き上がって、そう怒鳴った。

「はい。」
余りに唐突な覚醒だったので、ロビンは思わず、素直に返事をする。

それから、皆がサンジの覚醒を喜ぶ前に、サンジが狂喜乱舞したのは
言うまでもない。

ただ、「ロビンちゃんが。ロビンちゃんが」死んでしまった、それだけが
悲しくてそのままの感情でサンジは眠っていた、と言う。

「夢なんか見なかったし、」
「良く寝たなあ、って感じだな。」と
「気分はどう?」と言うチョッパーの質問に淡々と答えている。

「ロビンちゃんの生き返ったのと、俺が起きたのの宴会やるか。」と
本人が言い出したし、ルフィに異存などある訳がない。

(畜生。)と思うのは、ゾロ一人だ。
一通り、皆が騒ぎ、気が済んだ頃に三日も熟睡しただけのような顔をしている男に

「お前は一体誰が一番大事なのか。」を厳しく追及しよう、と腹を決める。

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