萬福寺
参考資料:宇治市の観光案内
萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗(おうばくしゅう)大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆g(いんげんりゅうき)、本尊は釈迦如来である。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物、仏像、儀式作法から精進料理に至るまですべて中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは全く異なった雰囲気を持っている。普茶料理、煎茶道、唐様書道など、隠元のもたらした中国文化は日本の文化全体に大きな影響を与えた。
「万福寺」と表記されることもあるが、宗教法人としての名称は「萬福寺」であるため、本項でも「萬福寺」と表記する。
萬福寺は、境内全体に中国・明時代末期の雰囲気が漂い、日本の他の寺院とは全く異なった空間を形成している。建築、仏像などはすべて中国様式でつくられ、寺内で使われる言葉、儀式の作法なども中国式である。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。萬福寺は煎茶道の祖・売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺としても知られる。隠元と弟子の木庵性?(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいち)はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされたことは注目される。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。
隠元隆gは中国明時代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。隠元が招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎興福寺の僧・逸然性融(いつねんしょうゆう)らの招きに応じて来日したものである。逸然ははじめ隠元の弟子である也懶性圭(やらんしょうけい)という僧を招いたのだが、也懶の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也懶の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也懶性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田(せっつとんだ、現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治2年(1659年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。