地理学の歴史
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1:地理学の誕生
2:
古代ギリシア
3:
古代ローマ
4:
中世
5:
マルコ・ポーロ
6:
大航海時代
7:
科学的地理学の萌芽
8:
近代地理学の成立
   アレクサンダー・フォン・フンボルト
   カール・リッター
   19世紀後半〜20世紀前半の地理学
9:
計量革命
10:
現在



地理学の誕生
 地理学の根本的な発想である「よその土地はどうなっているのか?」という要求は、既に人類が未文明の状況から脱したときに必然的に生じえたものといえるが、文献的に確認できる地理学発祥の地は古代ギリシアである。地理学の名称であるgeo(土地)graphia、(記述)は、当時のアレキサンドリア学派によってつけられたと考えられているが、これもそのような他の土地を研究するという意味合いでつけられたものであった。地理学は、学問としては哲学に並ぶ人類最古の学問であった。


古代ギリシア
 文献で確認できる最初の地理学者は、ホメロスである。ホメロスは優れた詩人として有名であるが、ホメロスの詩は、遠い地域の様子や海の様子などを優れた文学的な感覚でもって表現している。しかし、これは現代から見た解釈であって、ホメロス自身はあくまで詩を作ったのであって、地理学者としての自覚はなかった考えられている。最初に地理学者としての自覚を持ったのはヘカタイオスであると考えられている。彼は世界観の研究に大きな関心を示し、おそらくギリシア時代最初の地理書「ペリエゲーシス」を示し、世界地図を描き、地球は円盤であると考えた。彼は、地理学の父と考えられている。その弟子である歴史家・ヘロドトスも地理学の実績を残した。遠く異なった国の様子を記述し、その範囲はエジプトからバビロニアまでの様子が記載されており、当時のギリシアにしてみれば、ヘロドドスの記述は歴史書でもあるが、重要なよその土地の記述書であり、地理学的な成果でもあったのである。
 このような地理学の流れは、現在では地誌学と呼ばれているものである。しかし、地理学を考えた場合、もう1つの源流を考えなくてはならない。それは、地形や海洋あるいは地球そのものを見る自然科学(地球科学)としての地理学である。この源流も同じ古代ギリシアで興ったものである。現在では、一般地理学と呼ばれているものの源流である。既に古代ギリシアで地理学が興った時から、この2つの流れ(地誌学と一般地理学)が並行して存在していたという事には注視する必要がある。というのも、この2つの流れが長い間は互いに影響されず発展されてきたが、この2つの流れを一つに融合しようとした時、つまりその地域の様子(地誌学)と気候や地形などの自然環境(一般地理学)に互いに因果関係があるというのが発見された時、この時こそが現在我々が接している近代科学としての地理学が誕生した時に他ならないからである。その偉業に達した人物こそがフンボルトとリッターという2人の地理学者なのであるが、これは19世紀初頭まで待たなくてはならないのであった。
 この地球科学としての地理学の源流は、ターレスなどに代表されるイオニアの自然哲学者たちであった。既にこの頃から地球の大きさや、宇宙における地球の位置なとが問題になっていた。彼らは、既に地球が球体であると考えていた。これは無論、地理学ではなく現代で言う天文学や地球物理学の源流でもあるが、学問が未分化だった時代、彼らの業績は後の地理学にも受け継がれていくものでもあった。
 万学の祖である哲学者・アリストテレスの出現や、当時としては驚くほど正確な値で地球の大きさを測定したエラトステネスなどが出現した頃(紀元前3〜2世紀)には、人々の関心の対象がさらに広がり海洋や気候、河川の起源や洪水の問題などにも広がっていった。これらの関心の拡大は、アレキサンダー大王の東方遠征によるものが大きい。アレキサンダー大王の東方遠征により彼らの世界観 は遠くインドにまで到達した。しかし、これらの関心も、実際の観察と実験とがともに不足しており(というよりかはそれらを行う技術をまだ持ち合わせていなかった)、想像の部分で賄っている事が多く、正確さに問題があった。したがって、知らぬ土地への推測は避け、確実知られている地域に関して、正確な記述を試みるように地理学者たちはなっていった。このことは、次の古代ローマ時代になってからより顕著になった。


古代ローマ
 この時代の地理学は、ストラボン、プトレマイオスに代表される。古代ローマ時代は古代ギリシアと比べ、より正確にかつ科学的に地理学を行うとする姿勢が見られるようになる。ストラボンは地理誌を示し、民族の移動と社会制度に記述を残し、プトレマイオスは、当時の数学と天文学の成果を最大限に生かし、各地の地理的な位置の把握に大きな功績を残した。彼らの残した業績は、その後中世まで影響を残す事になった。


中世
 中世ヨーロッパは地理学にとっては多くの学問と同じく、暗黒の時代であったといえる。かつてギリシア人が考えていたような球体の地球は否定され、キリスト教発祥の地・イスラエルを中心にした世界観の地図が(TO図)描かれたした。中世で見るべき業績を残したのは、多くの科学と同じようにキリスト教ヨーロッパ文明ではなくイスラーム文明下においてである。イスラームの中には、イブン=バットゥータのような大旅行家が現れ、東部アフリカからロシア南部、さらには中国まで世界観が拡大した。彼らイスラームの学者の残した客観的な世界の記述は、その後キリスト教文化圏にももたらされたが、この時代に共通して言える事は、この時代の地理学的な業績は歴史や社会制度といった地誌の記述の拡大であり、自然科学に依拠した一般地理の拡大はなかったという事である。この一般地理の拡大は、その後のルネサンスまで待たねばならなかった。


マルコ・ポーロ
 ルネサンスの前に大旅行家マルコ・ポーロにも触れなくてはならない。マルコ・ポーロはアジアの各地を歴訪し、元王朝に長らく仕えて「世界の記述」を残した歴史上の優れた人物である。この著作は、ヨーロッパ人にそれまで良く知られていなかったアジア観を一変させ、彼らの描く地図にも進歩が認められた。ただ残念な事に学問の理論的な寄与は少なく、地理学の歴史にはこの大旅行家の業績は、ヨーロッパ人の世界観の拡大という業績しか残せていない。


大航海時代
 ルネサンスは、それまで長く停滞していた地理学にも発展の兆しを与えることになった。ルネサンスの賜物ともいえる、後の大航海時代は、「地理上大発見の時代」とも呼ばれている。1492〜1522年かけてコロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼランなど歴史上偉大な業績を残した航海者たちによって、当時最先端の航海術を用いて、それまでヨーロッパとアフリカ北部、アジアの限られたところしか知られていなかったヨーロッパ人の知識はこの数十年間の間に世界中に達したのである。この世界観の劇的な拡大は地図にも、大変革をもたらした。メルカトルの名でよく知られているオランダ人の地図学者ゲルハルト・クレーマーがこの時期に現れ、いくつも投影法を示した。また、当時発明された印刷術により、それまで貴族たちの贅沢品でしかなかった地図の一般への普及も地図の発展に大きな意味合いを持っていた。またこの印刷術は古代ローマの地理学者・プトレマイオスの「地理書」の普及にもつとめた。この書により、人々は数理的にすなわち、緯度・経度というもの有用性を認めこれに注意を向けながら、地理的な位置を把握するという事に努めた。この事も、この時代の地理上大発見を後押したともいえる。
 この時代の地理の書物と言えばセバスチャン・ミュンスターの「コスモグラフィア」(宇宙誌)である。これは、世界観の拡大によって可能となった、名の通りありとあらゆる地球と宇宙を含めた、世界を包括に記載するという試みで、(未だ天動説の時代であった)人々の関心を地理学にひき、いくつもの版を重ねるほどの盛況ぶりであった。また、地球の様子を総体的に把握できるようになり、それまでヨーロッパ人には信じられていなかった熱帯の存在も組み込まれるようになり、気候区分を試みも行われるようになっていった。
 ミュンスターに限らず、このような地表と宇宙との関係までも一括して考察したコスモグラフィー的な著作がこの時代の地理の書物の特徴だが、当時の科学の未発達と、まだ確実とはいえない世界に対する知識も相まってやがて版を重ねると、物語のような誇大表現をするようになっていった。しかし、これらの著作がその後長い事人々の地理の知識向上に貢献した事も事実である。
 しかし、「地理上の大発見」といわれたこの時代の地理学も、地理的視野の拡大と緯度経度の有効性、さらには気候や地形の把握といったことが行われたが、しかし現代の科学的な地理学からすれば単なる地域の記載に終わっているといえる。というのも、まだ地理学を科学的に分析し、解明するほどに自然科学が発達していなかったためであった。従って大航海時代の特徴は、ヨーロッパ人の地理的知識の拡大に終わり、地理学の学問的発展にはあまり寄与できなかったという事になる。