大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-      ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム



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21 「新編郡山町中記」【二十四番 矢田町(やたまち)】
◆矢田町(枝町)◆
  車町ができたころにはすでに矢田街道筋に町並みの濫觴をみていた矢田町は、柳町の枝町として寛文(1661-73)のころ内 町に編入された。この町は柳町二丁・三丁目の境から東方の新紺屋町境までに形成された町並である。旧記による矢田町の 長さは97間4尺5寸(洞泉寺町辻子を含む)で、道幅1間半、家数114軒(本家45軒、借家69軒)である。
 現在では、内町の“矢田町(36地番/本稿において枝地番は除く。)”と、新紺屋町域を挟んで東方の町である“外矢田町(4 7地番)”とを一つの町として“矢田町通”と公称しているが江戸時代は別の町であった。冒頭で述べたとおり矢田町は内町で あり地子免地であるのに対し、外矢田町(後出)は柳町村領の地子年貢地となっていた町だからである。
 矢田町の町名は郡山より1里余り西方の矢田村(金剛山寺(高野山真言宗別格本山/矢田の地蔵尊で有名))に通じる古く からの街道筋に位置することからの称である。 
 また、第一次本多家藩政時代の車町がそうであったように、矢田町も柳澤家藩政時代の初期に武家屋敷(53軒)が建ち並 んでいた時期があった(「旧記」)。このように町屋地区が武家屋敷地として使用される事情は、移封時の家臣に割り当てる屋 敷地が一時的に不足していたことによるが、ことさら車町や矢田町が屋敷地として選ばれた事由は、東矢田武家屋敷地区の 程近いところに位置していたからと考えられる。ちなみに、矢田町の西端には柳町二丁目・三丁目境の“矢田筋”(庇合いの道 /通称“カサメの辻子”)から西方の山之手橋(やまんてばし)を越えると“東矢田”の武家屋敷群があった。写真↓は、現在の “カサメの辻子”付近。当時はことに狭隘な辻子であった。左右(南北)の街路は柳町通り、奥(西)が矢田筋から、東矢田武家屋 敷跡一帯にあたる。


 今ひとつ見逃してはならないのは、矢田町と北大工町との町域の入り組みである。すなわち、矢田町西部地区南側の北大 工町への辻子から西は矢田町の通りに面しているにもかかわらず北大工町の町域であり、ただ柳町三丁目と接する西南の一 画地(地番)のみが矢田町の町域となっている。こうした町域の入り組みは町間の地位を示し、町並みとしての発生に大きく関 わっていることが多い。ちなみに、北大工町は藺町の枝町として発生し、やがて宝永年間(1704-11)において公儀に内町に 組み入れられ箱本役を勤めた町である。ただし、この場合前記の入り組みから類推して両町はほとんど同時期に発生した町で あって、内町として公に認められた年次に違いが生じたと見るべきであろう。
 また、矢田町の東端から南隣の洞泉寺町へ辻子によって連絡されているが、この道は同時に新紺屋町との町境ともなってい る。
 そのほか、町の管理になる施設は柳町境の木戸番所1箇所と、西方寺門前の南側に会所があった。
 写真↓左は北大工町辻子。正面左側が北大工町、右側が矢田町、写真奥は柳町方向である。


 写真↓、矢田町の中心部から西の柳町方向を望む。右側には西方寺の土塀が見えている。


 写真↓は、矢田町東部で右側に見えるのが西方寺本堂であり、その手前に宮内社がある。


 写真↓、洞泉寺町への辻子である。

22 「新編郡山町中記」【二十五番 北大工町(きただいくまち)】
◆北大工町(枝町)◆
 北大工町は藺町の枝町として宝永年間(1704-11)に内町となったことはすでに述べた。しかし、この町は当初から町場とし て発生したわけではない。江戸時代の初めの正保年間(1644-48)には、北大工・南大工町は町場ではなくいわゆる“奉公人 町”であった(注1.)。それはちょうど寛永16年(1639)5月、播州姫路から郡山へ入部した本多政勝の藩政時代初期のことで ある。
 このとき郡山城下の奉公人町は、ここ北大工町のほか観音寺町の東(のちの観音寺村の南部)や西野垣内一帯、箕山口外 堀内・外一帯の下箕山・台所町の5か所にあって、それぞれの町はかなりの広がりを見せていた。こうした奉公人町は、武士 (ここでは家臣)の郎従(又侍)として士分にとりたてられた“武家奉公人”の住んだ町をいう。主従の結束はことに強く、身分的に は足軽の上位を指していることが多い。
 正保元年(1644)、公儀が諸侯に命じて作成させた正保の図は、『諸国国絵図』とあわせて徴した『城絵図』等があり、その作 成要領について一定の統一をはかるため大目付井上政重がこれにあたった。
 ところで、『城絵図』を注意深く比較してみると各図の表記などに少しずつ違いがあることがわかる。そこには『城絵図』の作 成をおこなった藩家の家風や分限といったものが垣間見えてくるのである。本多家が郡山に移って、軍事型組織体制をとって いた姫路時代から統治型組織への変換がなされたとはいえ、なお三河譜代の御家風(おいえぶり)を色濃く残していることが、 正保の城絵図から読み解くことができるのである。
 なお、『和州郡山城絵図』(注2.)には“町屋”を除き、“侍屋敷”、“侍町”(家臣)、“かちのとの町”(徒町)、“奉公人町”、“足軽 町”の五つの武家階層の区分が明記されている。(注1.2.『和州郡山城絵図』国立公文書館蔵)
 
 写真↓は、南大工町方向から見た北大工町の町並で、突き当りが矢田町である。
 西隣に南北に走る柳町通りと平行した町並みで、北部は矢田町と接し、南方には南大工町(外町)南詰めから、西方の柳町 大門と連絡(バイパス街路)していた。


 写真↓は、町のほぼ中央の東側から隣町の洞泉寺町へ通じる辻子である。写真の突き当たり右側に洞泉寺ならびに源九郎 稲荷神社がある。


 「旧記」(前出)による北大工町の長さは87間半、道幅2間で、家数は122軒(本家36軒、借家86軒)である。
 この町が藺町の枝町として宝永年間に内町へ編入されたという事由は必ずしも明確ではないが、郡山において19万石を誇 った本多家は縮小のうえやがては転封となり、そのあとへ城主となった松平(信之)家は8万石、つづいて本多(忠平)家は12 万石と、いずれも藩自体の著しい変化にともない家臣数が大きく減少することとなり、こうした奉公人町などの武家屋敷地の空 洞化が町場へ転化していった大なる事情といってよい。そして、町場となった大工町は他町の経済的な影響力を受けることに なる。具体的には、藺町に居住した大店の持ち家(借家)となった北部の北大工町が、やがて箱本役を許され地子免を受ける 町として自立したということが想像できるわけである。ちなみに、「旧記」によれば北大工町の借家率は70%を超えて当時の内 町ではもっとも高率であったことはその傍証となり得るだろう。
 城下における大工職は享保9年のころ内町に41人、外町に16人いたことが『町鑑』(前出)に記録されているが、居職では ないと考えられることから、その町名の由来も明らかではない。
 なお、享保9年(1724)のころ、百石の酒造株を持った松屋十兵衛宅がこの町にあった。

●浄照寺(写真↓は、山門)


  山号を青松山と号し、浄土真宗本願寺派の末寺である。その開基は大納言豊臣秀長の家臣桑原惣兵衛の母妙了。本願寺 の僧証如に深く帰依した妙了が、慶長5年(1600)、その隠居屋敷を道場としたことにはじまり、同年5月80歳で亡くなった妙了 尼の跡をその弟が継ぎ、やがて寛永14年(1637)寺号を浄照寺と称した。

●養源寺(写真↓)


 浄土真宗大谷派の末寺で、寛永年間(1624-44)、本多忠義の開基と伝えられている。
 忠義は本多平八郎忠勝の孫で、貞享2年(1685)9月、郡山へ入封した本多忠平の父。忠義は寛文2年(1662)陸奥白河で隠 居し、家を継いだ忠平は天和元年(1681)宇都宮へ移封、やがて郡山入部のとき養源寺を郡山へ移したものと思われる。
23 「新編郡山町中記」【二十六番 洞泉寺町(とうせんじちょう)】
◆洞泉寺町(枝町)◆
 洞泉寺町は、宝永年間(1704-11)に郡山城下の内町に組み入れられ、隣接する北大工町、城下北部の西奈良口町(次号に Uplord予定)とともに内町二十七町のなかでもっとも新しい町となった。この町の名は洞泉寺の寺号にちなんでいる。旧記(前 出)は、町の長さ63間1尺、道幅1間半、本家10軒、借家16軒と記している。
 ところで、「町鑑」(前出)によれば洞泉寺町には“牢屋敷年貢”として合わせて米三石五斗三升弐勺分が賦課され、これを牢 守が徴収して藩へ上納していた。この事情の説明には城下に置かれた牢屋敷について触れておかなければならない。
 江戸時代前の牢屋敷については明らかではないが、旧記によれば元和元年(1615)入部の水野勝成が魚町に牢屋敷を設 けたが、2年後に塩町へ、さらに2年後には柳町三丁目に移し、のち洞泉寺に移している。このように牢屋敷は城下を北部から 次第に南部へとたどっている。やがて、元和5年(1619)郡山城主となった松平忠明のとき、内町十三町(当時)の箱本役に新 規に牢守(番)もあわせて勤めるよう改められ、これらの経費が内町の負担となった。
 寛永16年(1639)本多政勝のとき、藩政の拡充にともない城下町の大幅な拡張が行われことは既に述べた。このとき前城 主松平忠明時代に取り払われた洞泉寺町のもと傾城町跡地は箱本支配の牢屋敷となっていたが、政勝は、牢屋敷を洞泉寺 町から南大工町へ移転するとともに内町の牢守(番)役を免除し、代わりにこの箱本支配地(高30石)を年貢地に改める措置 が講じられた。そして、この地は浄慶寺・大信寺・正願寺の三ヶ寺と北大工町の善六がそれぞれ買得し、これによって、この3 ヶ寺と民地1軒には“牢屋敷年貢”が課せられることになった。
 以上のとおり牢屋敷の事情に関しては、享保8年(1723)本多忠烈夭折(8歳)のあと翌年2月に郡山藩主柳澤家へ引き継が れた文書中(「旧記」/注1.)にある。しかし、詳細な時期などについては曖昧であり、たとえば、牢屋敷の南大工町移転の時 期を本多政勝藩政時代とするのは矛盾が残る。なぜならこの時代の南大工には牢屋敷は無く、馬場が設けられていたからで ある(本稿 31「新編郡山町中記」【三十四番 南大工町】参照)。
 そこで、「天和の絵図」(1682/前出)を見てみると南大工町のところに「コクヤ」とあって牢屋敷の存在が記されてある。つま り牢屋敷は、第一次本多家(政勝家)が延宝7年(1679)に郡山を去り、代わって松平信之(1631-86)が郡山城主となって3 年目のころには牢屋敷が移されていたことになるのである。傍証として「郡山城絵図」(筆者は延宝6、7年と比定/注2.)があ る。したがって今後は、松平信之と改めるべきである。

 写真↓は、洞泉寺前から北方の矢田町方向を望む。ひずみの無い直線道路である。
●正願寺
 このあたりには正願寺があったが今は無い。正願寺は霊松山と号し、真宗西本願寺の末寺であった。開基は本多政勝で正 保年中(1644-48)片原代官丁(本稿において武家屋敷地には分類上“丁”を用いている)向かい(現在代官町)の外堀内に建 立、今日も地字“正願寺”にその名残をとどめ、またこの一帯には“正願寺山”の呼称がある。なお、開山は釈祐知と伝えられ ている。同寺はのち宝永年間(1704-11)に洞泉寺へ移ったのである。


 写真↓は、洞泉寺前から北台所町へ通じる街路角から北方を望む。左方に大信寺山門、突きあたりが浄慶寺山門である。


●洞泉寺(写真↓全景)
 洞泉寺は、天正9年(1581)僧宝誉の開基で、霞渓山と号し、浄土宗知恩院の末寺となっている。もと三河挙母(愛知県豊田 市)にあった洞泉寺が大和国平群郡長安寺村(現大和郡山市長安寺町)に移り、さらに天正13年(1585)に現在地に移された ものである。
 写真は、“ジャスコ郡山店”(平成17年閉店のため取り壊され、跡地に同年11月からマンション建設がおこなわれている)の屋 上から望む広大な洞泉寺境内。再建された本堂の右奥に山門が見えるが、さらに右手前には地蔵堂、数々の伝説がある“垢 掻地蔵”(湯船/石棺)などもある。なお、画面下の土手は郡山城総構えの旧土居跡(もと高さ一間半余りの土居は見られない が、その敷(土居底部の幅)約12mは遺存している)、また、手前に外堀跡(埋め立て/洞泉寺裏池)の一部が見える。


●浄慶寺(写真↓は、山門)
 金照山と号し、浄土宗知恩院の末寺で、弘安年中(1278-88)湛空上人の開基と伝えられている。もと大和国添下郡七条村 (現奈良市七条町)にあって兵火にあい、天正年中(1573-92)増田長盛(1545-1615)が郡山城下の中町に移した。のち元和 8年(1622)同寺中興の開山称誉上人のとき現在地へ移った。


 写真↓は、浄慶寺本堂。鬼瓦には正徳六年(1716)六月日六丁目又兵衛の銘がある。


●大信寺(写真↓は、近年再建された本堂)
  能入山と号し、浄土宗当麻奥院の末寺で、もと郡山城下の豆腐町(北側)にあり、城主本多政勝のとき、中興単誉上人が現 在地に移したと伝えられている。


●源九郎稲荷神社(写真↓は、その社殿)
 解説は本稿「近辺見どころ」の同社のところをご覧いただきたい。
 

(注1.「郡山町史所収」柳沢文庫蔵。注2.柳沢文庫蔵)
24 「新編郡山町中記」【二十七番 西奈良口町(にしならぐちちょう)】
◆西奈良口町(枝町)◆ 
 本稿において内町二十七町の締めくくりとなる町・西奈良口町である。
 奈良口の大橋川(文禄の“奈良口大橋川の川違え”により流路変更となった部分の呼称。/上流は秋篠川)にかかる奈良口 大橋(昭和27年頃“県道郡山木津線”完成のとき北郡山の「桜橋」とともに、奈良口大橋も「柳橋」と名づけられたもので、江戸 時代の呼称ではない)を渡り郡山城下へかかる最初の町で、宝永年間(1704-11)に内町となつた。城下総構えの北の関門・ 鍛治町大門外より大橋川までの街道筋に自然発生的に発達したいわゆる“掛け造り”の町であって、観音寺村の町・観音寺 町(現、西観音寺町)を経てここ西奈良口に至る。街道を挟んで西方が西奈良口町、その向かいが東奈良口町である。同じ奈 良口の街道に発達した町ではあるが、前者は内町として地子免除の町、後者は観音寺領の年貢地として外町に分類される。 旧記による西奈良口町の規模は、家数64軒、内本家31軒、借家33軒で、町の長さは104間半、道幅は1間半1尺で半分、 つまり道路の中央が町境で向かい側の東奈良口町と合わせて都合3間2尺である。
 西奈良口町は箱本役のほか鍛治町大門附九町ならびに堺町高番(火の見櫓)付一七町に名を連ねた町で、そのほか東奈良 口町とともに南都(奈良)に火事あるとき、見つけ次第に桜門(大番所)へ2人、町奉行所へ2人、町与力へ2人それぞれ注進 することになっていた。城下より奈良へもっとも近距離、かつ、眺望のきく位置にあったためである。このため火消し道具も大橋 脇に保管されていた。また、郡山に設置されていた辻十ヶ所番所の一つ“大橋辻”が、街道筋(京・江戸・南都)の要所として 大橋脇に置かれ、御先手組同心から2人が昼夜警戒にあたっていたところでもある。
 城主の参勤・帰国時には、その2、3日前には全町の自身番にその旨の触状を出し、帰国の節には奈良口へ出迎えの御用 達懸(藩御用の有力商人)や町々年寄に対し御目見の次第・作法などを入念に打ち合わされ、かつ、道筋の掃除・土置き、ま た、鍛治町大門の土居の草刈などが行われて万事遺漏のないよう準備が整えられる。前日と当日には与力の臨時廻りが行 われ、帰国当日は月番(南・北)町奉行も大橋へ出向くことになっていた。
 
 写真↓は、西奈良口町の通りで街道筋にあたるため道幅は広い。画面奥が大橋川の堤に架かる奈良口大橋である。
 なお、現在、奈良口児童公園付近(この写真手前の左側約20m)から西方の新屋敷丁武家屋敷地(約80軒)に抜ける道路が 藩政時代にはあった。
 

 写真↓は、大橋の南詰めから見た西奈良口町の家並みである。現在でも旧城下の雰囲気を残しているところである。画面奥 (約260m)に当時観音寺村の町であつた現西観音寺町がある。その突き当たり(大橋から384間)に鍛治町大門があった。手 前左方向(西)へつづく道が旧道で幅員も昔のまま遺存している。この旧道は細々と新屋敷丁・代官丁武家屋敷地域へ通じて いたのである。したがって現在の土手上にある自動車道は昭和30年代に付けられた新道で、その後大橋も改良のため架け 替え工事が施されているところである。
 画面手前右の地蔵堂手前の土手辺りに、かつては火消し道具の置き場があり、また、辻番所があった。



●千陽寺
 西奈良口町の大橋際に現在地蔵堂(写真↑)が建てられてあるが、ここにかつては千陽寺があった。泉涌寺とも記されるこ の寺は曹洞宗で、和歌山の大宝山廣巌寺の末寺であったが、現在、この町には無い寺である。

◇明治天皇駐輦之碑(めいじてんのうちゅうれんのひ)
 写真↓は、“明治天皇駐輦之碑”で、奈良口大橋を渡った左側の大橋川(秋篠川)の堤の近くに建てられている。明治41年 (1908)、国意発揚のため同年11月10日から13日まで大和平野一円において陸軍大演習が実施された。その14日、郡山 秋篠川左岸に4個師団が結隊整列して閲兵式が行われたとき、明治天皇が車をとめて堤上に立ち観閲された。このことを記念 して、のち大正4年(1915)11月の大正天皇即位の御大典に慶祝碑として建てられたものである。撰は当時伯爵の柳澤保惠 (1870-1935/大和郡山)・書は子爵柳澤徳忠(1854-1936/越後三日市)である。
 なお、橋梁工事の際、碑は少々位置を移されてある。



 ■天明6年(1786)の記録による内町二十七町は、家数2,327軒(本家1,238軒、借家1,089軒)であった。これに外町十 三町を合わせて3,837軒が当時郡山四十町の家数である。なお、享保9年(1724)の「町鑑」には四十町で家数3,656軒、 人数13,258人と記されている。
※以上で「城下町百話」の内町二十七町を終えて、次回から外町十三町の紹介に入ります。(2005.10.12記)
25 「新編郡山町中記」【二十八番 東奈良口町(ひがしならぐちちょう)】
◆東奈良口町(外町)◆
 東奈良口町からは外町十三町の話題である。
 ◇外町十三町
 外町は、慶安2年(1649)のころから内町に準じた待遇を受けるようになり、“外箱本”・“外十三町”などと称して自治を認めら れたが、このことは取りも直さず城下の一つの町として相応の連帯責任を果たしたことを意味している。「旧記」にみる東奈良 口町は、年貢地ながら同町の広島丁武家地出口の板橋より大橋までの東側家数27軒は箱本を勤めたとある。その後も町屋 が建ち並び軒数は増加しているわけである。
 外町の多くは、城下総構外の周辺村々(,年貢地)に発達した街道筋に沿って“掛け造り”にできた町であるが、そうではない野 垣内・南大工・柳裏町などのような城下総構の内の村々年貢地にできた町、また、“内町”より早くから形成されていた古い町 もあった。
 ◇箱本文書
 ところで、町文書として遺されるべき箱本史料は、度重なる城下の大火でほとんどが失われたといれている。しかし、少なくと も明治までは、いや、場合によって今も町運営の先規として諸約定書・裁定書などの証拠書類として保存されている可能性は 高く、なおねばり強く検索をつづけていかなければならない。昨今はことに建屋の老朽や生活様式の変化などを要因として、旧 城下町地区で町屋の建替えが著しいといわなければならない現状から、家々に遺された古文書類はたとえ小片なりというと も、努めて然るべきところ(柳澤文庫や市教育委員会)に持ち込まれるよう願わずにはいられない。そのことは、この町の先人 の知恵を知り、こののちの町づくりに活かされるからにほかならない。

 「旧記」に伝える東奈良口町は、南北135間、道幅3間2尺。本家38軒、本作高表2石盛り。借家60軒、下作高裏2石9斗 7升5合。合計98軒、観音寺村領の町である。
 文中の“本作高石盛り”は、観音寺村領が年貢として上納する敷地年貢であり、村高の上田を基準としてその反当りの収穫 高(石盛)を一斗で除して求めたいわゆる“斗代(とだい)”である。また、下作高(盛り)は、村高下田を基準として求められること になる。なお、前者の本作高の“表”は、街道筋の表の敷地という意味であり、後者の下作高は、“裏”の敷地を指す年貢 の区分である。
  
 写真↓は、観音寺村領と東奈良口町の境にあった蟹川のもと板橋付近から奈良口の街道筋を見る。右に東奈良口町、左に 西奈良口町、遠方に奈良口大橋がある。

 

 写真↓は、大橋南詰め東側に建てられた伊勢神宮のいわゆる“お陰灯篭”で、文化14年11月(1817)郡山町中や近隣領地 村々の有志の人たちによって建立され、“太神宮”・“御城主様御武運長久”・“文化十四年丁丑十一月”のほか台石にこの灯 篭建立に寄与した人々の名前が刻されている。また、この灯篭は、昭和11年(1937)の震災によって倒壊し、同8月篤志家9 人が再建している。笠石の欠損がはなはだしいのはそのときの震災の名残であろうか。傍らの“伊勢神宮遥拝所”の碑は、昭 和12年8月に新しく建てられたものである。
 その昔伊勢遥拝のみならず街道筋の灯明として郡山にとってシンボルリックな存在であったに違いない。今の光源は電球に なっているが当時は油であり灯心とともに箱本が管理した灯明台である。
 また、かつてこの辺りから“七つの塔”(寺院の)が見えたという伝承も残されていて興味深い。



◇蟹川

 写真↓は、西奈良口町西方の新屋敷丁武家屋敷地跡流れる蟹川。遠方の山は矢田丘陵、奥が生駒山である。この先で川 は右方向へ曲がり上流の九条村領(山本・エナン所・市田など)へとさかのぼる。この川は江戸時代に限らず近年まで浸水被 害を繰り返してきた小川である。ここから観音寺村領と東奈良口町の境にあった蟹川の板橋を通過して観音寺村領を流れ下っ ている。公共下水道の普及により奈良口町の浸水被害は緩和されたが、この上流の九条領で近年浸水騒ぎがあった。なお、 過去には奈良口辺水8、9尺の浸水記録もある。


◇付け替えられた蟹川の流路

 秋篠川(大橋川)は、文禄の“郡山城総構え”築造(1595-)のとき流路を東に変えた。この“奈良口大橋川の川違え”(前出) のあとも、蟹川だけは旧流路に沿って南方に流れ下る秋篠川の側溝であったといえる。そして、このときの蟹川は真っ直ぐ( 真↑の奥を右から左へ)“小川丁(町)裏池”(外堀)に流れ落ちていた。ところが今日では、“小川丁(町)裏池”の手前から西 観音寺町・観音寺町方向へ流路を東方へ変えている。
 以下は、正保の図(前出)ほか絵図類を注視することによって見えてくる事実である。
 ちなみに、“郡山城総構え”の築造と城下周辺の村々の放水権(水利権)は不可分の問題であったことは本稿においてすで に述べているが、ここ城郭総構え東部の築造と用水路の整備にあたり、正保図にみられるように直に小川丁裏池に落として、 上流の堀水とともに小川丁裏池は水量を貯え、やがて下流となる“広島池”に落ちた水は下流の村々へ、さらに今一つ広島池 北端を経由して蟹川への水利として、江戸時代前期においては機能していたことになる。ところが、天和の図(1682/前出)に よると、蟹川を曲げて流路を東進させ観音寺村方向へ直に水を引き、もはや小川丁裏池を介していない。この変化により広島 池において“分水訳け”が生じることは必定のことで、現に享和元年(1801/(注1.))より広島池などの外堀水系の上流にあたる 尼ヶ池(北郡山町/外堀に利用した溜池)の水を観音寺村へも分水するよう柳町村と約定(裁定)が成立しているのである。なお 蟹川は、やがては西観音寺から約3.5km下流の天井村(大和郡山市天井町)付近で佐保川に落ち合っている。
 また、外堀水系にはいわゆる“堀浚え”がある。堀水の管理は傾斜の少ない郡山にあっては欠くことができない事業であっ て、ことに平坦部(城下の町屋地区)の堀浚えは“常普請”としておく必要があった。これによって江戸時代は外堀内側の土居 の要所要所に土揚げ場が無数に点在していたのである。これら多くの土揚げ場は明治の町制により、当該各大字に編入され たが、それ以前は柳町村一村にその管理権が認められていた。つまり、大規模とならざるを得ない堀浚えにはコストがかかる ということも外堀に関連する事柄として考えておく必要がある。

(注1.「秘書」(文政2年迄)柳沢文庫蔵)
26 「新編郡山町中記」【二十九番 観音寺町(かんのんじちょう)】
◆観音寺町(外町)◆ 
 この町は、鍛治町大門外の街道筋へ“掛け造り”の町屋として発達し、現在の大字名は西観音寺町である。「郡山町旧記」 (前出)には、もと東側の観音寺村領にのみ町屋ができた。このためかつては「片町」と呼ばれたが、いつのころからか西側の 九条村領にも家作りが許されるようになった。江戸時代のはじめの正保の絵図(1644/前出)によれば、一つの町(東西)とし てすでに街道筋に家並みが整っている。
 正保の図に描かれた観音寺の町屋には武家地の一部分が入り組んでいるところがある。この部分は現状のにおいても地割 りにその名残を残している。すなわち、町の西北部に望む蟹川の板橋(前出)端の一画地は、広島丁武家地およびその出口の 道路として観音寺町の街道筋に面しているのである。このことから、正保のころは街道を横切る蟹川を鍛治町大門外の守備上 の一つの要所とみていることがわかる。ことに、蟹川が観音寺町の北東角を囲繞する部分は、川幅が広く約3間半ほどはあっ た。
 後の本多家(忠平〜忠烈)の藩政時代(1685-1724)に至り、小川北丁から広島丁へ広島池外堀を越える小川丁土橋を廃し て替わりに鍛治町大門内の西方に架橋されてのち、蟹川板橋の付近の状況も変化している。太平の世の所産であろうか。
 「旧記」(前出)による観音寺町の長さは、南北132間、道幅2間2尺、本家62軒(本作高西側一石五斗盛り)、借家59軒 (本作高東側一石六斗二升五合盛り)、合計121軒、(内69軒九条村領、52軒観音寺村領で、借家が九条村領で7軒多か ったことになる)である。石盛りが街道の東側に高いのは、観音寺村の本作が九条村のそれよりわずかにまさっているというこ とになる。

 写真↓は、旧観音寺町(現、西観音寺町)の町並み。奈良口方向を望む。



 写真↓は、旧観音寺村(現、観音寺町)を東方から望む。この町の西端に西観音寺町がある。
 観音寺村は、高422石3斗1升2合の年貢地で、家数は63軒あった(「郷鑑」/享保9年)。



 写真↓は、西観音寺町の街道を横切る蟹川の近く、右下にコンクリート製の欄干が見えている。奥遠方に鍛治町大門跡があ る。

27 「新編郡山町中記」【三十番 野垣内町(のがいとちょう)】
◆野垣内町(外町)◆
 この町は寛永17年(1640)、時の郡山城主本多政勝によって造られた町である。政勝は、もとあった野垣内村を、新たに東 方へ付け替えた外堀外に村ごと移転させ、その村跡を武家奉公人の屋敷地野垣内丁(町)としたのである。現在は、西野垣内 町と公称するが、これは明治22年(1889)4月に町名を変更されたためである。
 「旧記」(前出)には、南北104間、道幅1間半。本家15軒、本作高一石五斗盛り。借家は11軒、すべて野垣内村領となっ ている。また、野垣内村は、高298石2斗5升の年貢地で、家数は27軒あった(「郷鑑」/享保9年)。
 なお、野垣内町は、本多家(政勝〜)藩政時代は武家地であったが、のち延宝8年(1680)の大火により当時の野垣内丁も消 失し、やがて、貞享2年(1685)本多忠平の入部により城下の武家地は縮小され、この町も外町十三町に編入されて年貢地と なったのである。

 写真↓現在は、埋め立てられ公団住宅の構内道路となっている外堀跡(宮本上池跡付近)。奥(南方)に常念寺裏池の外堀 緑地公園付近を望む。写真に見える道路の右側一帯がもとの野垣内町の中心部に当たる。
 また、ここには明治26年(1893)“郡山紡績株式会社”が創立され、のち合併を繰り返して大日本紡績郡山工場となり、やが てユニチカと社名を変更、そして、昭和39年(1964)にユニチカ郡山工場は郡山紡績時代から70年余の歴史を閉じるに至って いる。現在の公団住宅からJR郡山駅東部にかけての約70,000uもの広大な敷地を擁して工場関係施設が建ち並び、ここ で生産される紡績糸「郡山二〇」(こおりやまにまる)は、国内でも優良銘柄として知られた。


 写真左↓は、現在の西野垣内町(野垣内町)の西端付近で、茶町裏(右側の家並み)と接する道路。突き当たりに常念寺が ある。本多政勝時代の道路は茶町北(右方)から入り、左手前の電柱のところから左奥へ進み、そこからさらに南へ二筋の道 路があったが、後の本多忠平の入封後、写真でみるような直線道路がつけられ常念寺門前とつながった。そのためこの道路 写真↓右)に面して町屋が建ち並び、やがて奥の二筋の道は廃れた(注1.)。
 なお、この道はかつて秋篠川の流路であったことは茶町のところですでに述べている。


●常念寺

 佛壟山と号し、真宗東本願寺の末寺である。その開基は大忍法師である。この寺は、天正年中(1573-92)に大和国平群郡 福貴畑(奈良県平群町)から、郡山城下の綿町に移された寺である。もと真言宗であったが、慶長元年(1596)に真宗となる。 元和4年(1618)、時の城主水野勝成によって本堂・表門などが再建され、このとき水野家の家紋“沢瀉”を拝領したと寺伝に あり、寺紋に“波に沢瀉”(正確には“抱波に沢瀉”/写真↓)を用いている。

 延宝8年(1680)10月25日夜(「旧記」/12月15日)、新町より出火した大火により城下9町において家数670余りと、常 念寺(綿町)・光慶寺(今井町)・浄真寺(野垣内町)の三か寺も類焼している(『徳川実紀』ほか「旧記類」)。そして大火後、野 垣内町の浄真寺跡へ移されたのが常念寺である。
 写真左↓外堀緑地公園に臨む常念寺の全景。本堂は18世紀はじめに建てられ、桁行18.21m、梁間15.36mの本瓦葺 入母屋造で、1間の向拝が付く。梵鐘は正徳6年(1716)、河内国吹田郡枚方村の田中河内大自藤原家成の鋳造になる。ま た、本堂裏には永正8年(1511)7月の六文字石(念仏講衆中)が建つ。そのほか山門の結構も長屋門や海鼠塀の穴門、高 楼を乗せた塗り込めの長屋(写真右↓)などは郡山城下でも異彩を放って見どころの一つとなっている。


 ◇橋濟庵の墓(写真↓

 常念寺の墓地には郡山藩侍医であり、また詩文・書をたしなんで藩きっての秀才と謳われた橋濟庵(1765-1834) の墓が ある。諱政順、字徳卿、号謙斎、道名(医業名)が濟庵である。上梓された医術書も多い。詩文では文政10年(1827)春に刊行 された「濟庵詩集 三巻」は、詩集として著名な文人の入集が多く、当時の文化人の活躍を知るうえで貴重な資料である。墓 石には荻生維則(荻生徂徠の子孫)の撰文になる濟庵一代の墓誌が刻されている。
 
◇川口十大夫の墓所(写真↓
 
 常念寺墓地の中央に郡山藩柳澤家で家老を勤めた川口家の墓所がある。
 川口家は、藩主柳澤家の譜代の家臣で、二代柳澤吉里の家督後家老職で1,300石となった。「重臣略譜」(注2.)による と、元禄3年(1690)に召出し。分限帳(注3./以下同じ)にみえる御小姓川口采女がそうであろう。元禄7年、川越にて御納戸 川口十大夫、府中藩(甲府藩)において御年寄650石に、正徳4年(1714)家老職となり、賜号石見。享保9年(1724)の国替 えにより郡山において家老職、賜号安房を許され、同11年(1726)郡山において隠居し“持遠”と号す。そして、その年6月8 日卒去した。
 その子は諱貞遠、川口飛騨と称して元文2年(1737)に御城代を勤めている(「重臣略譜」/前出)。
 嗣子諱貞逸、安永5年(1776)12月15日に家老職にのぼり、翌年3月15日藩主柳澤保光の初名安信の一字を賜り実名を 信恭と改める。天明7年(1787)6月3日、信恭の五十の賀には、藩主保光より鳩杖に手ずからの和歌を添えて干鯛一折を下賜 されている。そして、翌年(1788)11月20日、願いにより家老職を辞し、信恭は寄合筆頭となった。(注4.以上「虚白堂年禄」)。
 写真↓は、常念寺本堂。本堂左右に建つ一対の大灯篭は、天明8年7月、郡山藩家中五日講の寄進になるもので、施主は 川口十大夫信恭その人である。

 川口家の墓所正面右側に十大夫源信恭の、左側にその室の墓石がみえる。三代藩主柳澤伊信(信鴻)・四代柳澤保光に仕 えて逼迫する財政事情のなか多大な業績を残した人物である。ことに安永9年(1780)、柳澤保光が務めた将軍家治の右大 臣転任にともなう日光名代を無事成功させたのは信恭の大いなる功績の一つである。当時、日光山名代は大名役として軽い 務めではなかったからである。日光名代を終えた同10月27日付の藩主保光の書簡には、「・・・扨々御威光にてめずらかなる 野山、しらぬ旅のながめにてありし日光のありさま見せまほしく候。川口(信恭)の折からのつめにてならぬ事にて候。・・・」と、 国家老森信門に宛て、その大任を果たした喜びや老職に対する労いと賞賛の意を書き送っている(注5.)。

●常念寺旧地
 常念寺の旧地については、これまで明らかにされていなかったが、「和州郡山城図」(注6./私に「天和の絵図」と称してい る)により、ほぼその旧地を特定することができる。該図には“寺”とのみ記され、一方、現在地の方には“浄念寺”(常念寺の 誤記)と記されるほか、常念寺が移った野垣内町の寺地にもとあった本多(第一次)家の菩提寺が移転先の九条山において “浄真寺”と記され、浄真寺が未だ“西岸寺”に寺号を変更されていないタイミングなど、まさに延宝の大火(1680)直後の事情 を参看することができたからである。
 このことから、常念寺の旧地は綿町方向に参道を開き、堂宇は藺町側に位置していたことが解った。なお、いうまでもなく“延 宝”は、9年9月に“天和”と改元されている。
 なお、このことは延宝6,7年(1678-79)の「郡山城絵図」(注7.)を傍証とすることができることを追記しておく。

(注1.「明治20年測量、大日本帝國陸地測量部」、注2.3.「分限帳類集 上」柳沢史料集成 第二巻/柳沢文庫、注4.「虚白堂 年禄」柳澤文庫蔵、注5.「森家文書」(仮題)柳沢文庫蔵、注6.独立行政法人国立公文書館蔵、注7.柳沢文庫蔵)
28 「新編郡山町中記」【三十一番 外矢田町(そとやたまち)】外矢田町
◆外矢田町◆(外町)
 外町十三町に数えられるこの町は、矢田町東方の新紺屋町から材木町までのわずか70m余りの矢田(-伊賀)街道沿いに張 り付いた掛け造りの町である。後の本多家(前出/貞享)入部のころにできたと考えられるこの町は、家数5軒ほどの極めて小さ な町であり、このため、「町割図 矢田町」(注1.)には一個の町として一面の絵図に画き込まれている。また、町境の木戸は設 けられず、会所もこの町には無かった。「旧記」(前出)には、家数9軒(本家6軒、借家3軒)、本作高一石五斗盛りと記される柳 町村領の町である。
 この町は、南大工町(後出)や柳裏町(後出)とともに郡山総構の内にありながら、ことに成立が遅れた外町(年貢地)である。こ れは、ともに柳町村領で農耕地として総構え内で最後まで存在したという共通点もさることながら、極めてセンシティブな放水 権(水利権)と深い関わりがあることもその要因ではなかったか。すなわち、堀水の確保と維持にかかせない“堀浚え”ならびに “分水訳け”の要所に位置していたからにほかならない。なかでも、外矢田町は町並の北側(報土寺横)に紺屋川水系の分水 があり、ここから東方の高田町大門外へ流す水路と、円融寺前から南の薬園寺裏池の外堀へ落とす水路とに“分水訳け”(前 出/享和元年(1801)8月「分水訳之事」(注2.))があった。前者は高田村との分水訳であり、後者は柳町村(裏田圃)である。な お、報土寺と紺屋町の間には柳町村領の土揚げ場があった。

 写真↓左は、材木町側から西方の外矢田町の町並み。写真↓右は、円融寺横のゼリで、手前の水路は薬園寺裏池の外堀 までつづいている。水路の奥に報土寺の山門が見えその向こうが紺屋町との町境である。
 

 ●円融寺
 山号を光岸山という。融通念仏宗の末寺である。永禄12年(1569)、郡山にいた真言宗の法印実感が西の京(奈良市)辺に創 建したと伝え、寛永18年(1641)のころ現在地に移されたという。九世国誉上人のとき融通念仏宗に転じた。
 本堂は、桁行16.75m、梁間13.37mの本瓦寄棟造で、正保2年(1645)の建立と推定されている。同寺東側の本堂と庫 裏の間に玄関がある。高い格式を持つ式台の屋根は桧皮葺唐破風で天明元年(1781)奈良興福寺の塔頭大乗院から移された と伝えている。
 写真↓左は、街道に面している円融寺山門。写真↓右は山門前に建つ「陶工木白之墓」の碑。

   
 ◇奥田木白の墓
 陶工木白(1800-71)は、法隆寺(奈良県斑鳩町)に生まれ、姓奥田、幼名亀松、称佐久兵衛、佐兵衛のち31歳より武兵衛と 改める。屋号柏屋、号木々斎・五行庵という。城下堺町で荒物商を営んだがのち転職して陶工となる。天保6年(1835)より本格 的に楽焼をはじめている。翌年には大茶碗を西大寺(奈良市)に寄付、このことがのち正月16日に行われる西大寺の茶事とし て盛況となった。西大寺に木白の作品が多く蔵されるのはこうした縁故からである。
 天保11年のころ、赤膚山(奈良市)窯元伊之助方へ本焼きを依頼してよりは注文が入り、のち江戸にも何軒か得意先をもつ ようになり家業として成り立つようになったという。仁清写し・里恭写し・奈良絵物などを得意とし、名工の称をほしいままにし た。また、ことに釉薬の探求に意欲を燃やし口伝書を遺す。明治4年2月没、ここ円融寺に葬られる。赤膚焼きの中興といって も過言ではない。
 なお、三代武兵衛・四代佐久兵衛と受け継がれ1868年の郡山藩柳澤家の「御分限帳/下」(注3.)には、奥田武兵衛(二人扶 持)の名がみえる。
 
 ●実相寺
 山号を無漏山という。浄土宗知恩院の末寺である。慶長年間(1596-1615)、中井主人が正誉上人を開基としてこの寺を建立 したと伝えている。
  本堂は、桁行15.3m、梁間15.79mの本瓦葺寄棟造りで、1間の向拝が付く。寺に伝わる史料によれば慶安4年(1651) の建立と推定されている。
 また、内陣正面の扁額“実相寺”(市指定文化財)は、柳澤信鴻(郡山藩三代藩主柳澤伊信/1724-92)の筆である。香山信鴻 の古筆風の筆致はことに豪快・流麗である。近年、実相寺墓地の入り口にこれを写した大きな立石が建てられてある。実相寺 には信鴻の実母森律子(安永6年没(1777)/能正院殿/江戸正覚山月桂寺)13回忌の追福を祈って納められた左兵衛督信鴻 自筆の三部経一巻が寺に伝わっている。

 ◇実相寺と中井主人
 実相寺の創建は中井主人で、ためにこの寺は中井家先祖本貫(ほんがん)の大和の国における菩提寺である。
 畿内近江六ヶ国大工頭にのぼった藤左衛門正清(1565-1619)は、慶長11年(1606)、従五位下に叙爵し大和守(1,000石)に 任官した。
 そもそも、中井家はもと大和国高市郡巨勢郷(御所市古瀬)に拠った豪族巨勢(こせ)氏であり、大三輪神社(桜井市)の神 職であった。祖父は大和国に生まれて名を正範といい孫兵衛尉と称した。大和の万歳則満の一族で、天文7年(1538)1月、 筒井順昭(1524-51)との戦いに敗れて討死したといわれている。その子が正吉である。正吉は、天文2年(1533)法隆寺西里 村に生まれる。このころ大工棟梁をもって筒井順慶(1549-84)に仕え、孫大夫を称した。のち正吉は、郡山太守豊臣秀長 (1540-91)に仕え、豊臣大坂城築城(1583)の大工棟梁を勤めてたといわれているから、当然ながら秀長の郡山城築城にも 関与したに違いないし、その葬地が郡山城下であるということも故なしとはしない。
 また、正吉は、天正13年(1585)の筒井定次(1562-1615)の伊賀上野国替えに際して、旧主筒井家を憚って中井姓を名乗 ったという。のち三代正清が豊臣家から天正16年(1588)徳川家に仕えた。正清24才のときである。四代目が正知、そして五 代目が主人(もんど)正豊といわれるも、詳しい系譜はわからない。
 ところで、中井家代々の菩提寺は京都の浄土宗長香寺(京都市下京区)にある。五代正豊が主人(もんど)を名乗ったようだ が、実はこの“主人”は中井家の家号の一つであって、五代だけが名乗ったとはいえない。したがって実相寺の墓は、初代の 孫大夫正吉(1533-?)のものといえ、建立は中井正清(当時号“主人”)とみるのが至当である。正清は、元和5年1月21日 近江水口で卒去した。
 なお、中井家の知行地の一部は大和国添下郡城村・外川村(大和郡山市)、大和田村(奈良市)にあり、この知行地を今でも 俗に“主人山(もんどやま)”と称されているのである。なお、城村は郡山藩領とは隣接していたが、天明6年(1786)6月の富雄 川筋・大谷川筋の洪水により堤防が切れたことがあった。このときの中井主人はいち早く郡山藩(柳澤保光)と申し合わせて修 補したい旨、使者を遣わして申し入れている。このように江戸時代はことに支配隣地の誼を大切にしたし、互いに協力したので ある(注2.)。 

 ◇天正庵
 実相寺境内にはかつて天正庵という寮舎があったといわれている。開山は、慶長年間(1596-1615)三誉上人で、上人は実 相寺開山の正誉上人の甥であったという。寮舎などの建物は遺されていない。庵号の“天正”は年号であろうから、あるいは中 井家自身の、また筒井家への報恩のために建てられた菩提所であったのかも知れない。

 写真↓は、実相寺の山門と後方の本堂。


 ◇森平右衛門偶泰の墓
 森家はもと尾張清洲の人で、その祖弥七兵衛重偶は、筑州久留米32万5千石の田中吉政(1508-1609)に仕え、重秀、重 泰と仕えたとき主家(忠政)は無嗣断絶となる。重泰の嫡子平左衛門偶明は、久留米の太守21万石有馬頼利(1652-68)に出 仕。二男平右衛門偶泰は江戸に出て、のち剃髪して「良可」と号した。そして偶泰の子、頼母成房・近江規致兄弟はともに柳 澤吉里(1687-1745)に仕えた(「森規致墓誌」より/実相寺)。墓は成房・規致によって建立され、以来、実相寺は郡山森家一族 の墓域となっている。



 ◇森規致の墓
 諱は規致、号は弥七兵衛・近江。柳澤吉里に仕え執柄の職にのぼる。その妹利知子(律子)は柳澤信鴻の実母である。延享 2年(1745)12月、病気のため隠居し、「不白」と号して茶をよくした。そして、寛延4年(1751)8月4日、58歳で卒去してこの寺 に葬られる。成房・規致兄弟が父の墓を建立した。墓誌は規致の友人柳澤里恭(淇園/1704-58)の撰文である。



 ◇森信門の墓
 碑銘表に「@阿府君之墓」と刻し、碑銘・墓誌の撰文は藩儒伊藤猪大夫(錦夫/1719-1804)。建立は森信門の嗣子森規福 である。森氏姓は源、初名為規、諱は信門、号弥七兵衛・伊織、致仕号を@阿(しょうあ)という。信門は規致の嫡子で、父の 後を継いで三代郡山藩主柳澤伊信・四代保光に仕え、国家老1,000石にのぼり、ことに藩財政立て直しに功績を残した。や がて天明8年(1788)7月、病により隠居(注4.)、外戚の故をもって蔵米10人扶持を賜う。寛政3年(1791)10月24日病没、歳6 2であった。なお、漢詩文(和韻)・和歌・俳諧(俳号/雪村所米洲など)・臨池(定家様)ほかをよくした文人で知られている。ことに 和韻は、本町の豪商永原伯綱(以下前出)を介して江村北海(丹後宮津藩の北海綬/1713-88)に師事した。材木町(前出)の薬 園寺の住職覚浄(号滄海)や伯綱、それに藩儒伊藤錦夫のらとも師友として格別の厚誼をもった文化人でもあった。

 
 ●報土寺
 孤松山と号し、浄土宗大信寺の末寺となっている。開山は伝誉上人で、旧本堂鬼瓦に宝永2年(1705)3月吉日、柳六丁目安 兵衛の瓦銘があることからこのころに本堂再建とも、また、慶長13年(1608)とも伝えている。
 写真↓は、近年に寺観を整えられた報土寺。


(注1.「町割図 寛政10年(1798)11月」)柳沢文庫蔵、注2.個人蔵、注3.柳沢文庫蔵、注4.「附記」柳沢文庫蔵
29 「新編郡山町中記」【三十二番 高田町(たかだちょう)】
◆高田町◆(外町)
 “高田”の地名は、その昔南都興福寺の塔頭大乗院の荘園“高田庄”(たかだのしよう)に由来し、当時30町余りの庄田があ った。のち太閤検地により高田村は高538石余となり、さらに寛永6年(1629)以に強行された郡山藩二割半無地高増により、 以来江戸時代を通じて672石9斗6升と定められている。

 ◇郡山藩領の二割半無地高増
 ところで郡山藩領の村々は、村高に“二割半無地高増”であったからこうした敷地年貢の計算にも難しいものがある。この“二 割半無地高増”には悪しき事由がある。寛永6年(1629)、時の城主松平忠明がおこなった年貢徴収法で、本地物成120,00 0石を二割半無地高増の“軍役”を勤めるということで、無理やり150,000石とし、これには公儀も黙認のほかなかった。とこ ろが、のちの城主本多政勝の正保元年(1644)、幕命による大和国絵図製作のため、村高の調査に当たって村々は元禄検地 の数値を書き出したために、公儀勘定所において郡山藩知行に30,000石の不足が露見した。郡山藩では無地高を事由に 申し立てたが公儀は先規を固持したために受け入れられず、やがて、延宝7年(1679)城主松平信之のとき、二割半無地高増 はそのまま本高のうちに入れられ、以来、郡山藩は無条件で文禄検地の二割半無地高増となってしまったのである。このため 農民は農地が無いにもかかわらず二割半無地高増の村高に対する年貢を上納しなければならなかった。

 写真↓は、もとの高田村の南部。

さて、高田町は大門の門前、伊賀街道筋に掛け造りに伸延した町並みである。寛永16年(1639)の本多政勝による城下の拡 充にともないこの町も形成された。延宝6,7年(1678-79)の「郡山城絵図」(注1.)には、高田町の町並みはすでに形成され東北 側に2箇所「寺屋敷」の書き込みが見える。享保9年(1724)の「郡山藩家中図」(注2.)には釈尊寺のみみえるが、今日の釈尊 寺・高田神社(壷大明神)のところである。また、貞享2年(1685)の「郡山城古図」(注3.)にも町並みや二筋のゼリ道が見て取れ ることから、このころにはすでに江戸時代末期の町観は整っていたといえる。
 「旧記」による高田町は、東西109間半、道幅2間2尺。本家60軒、本作高一石六斗二升5合盛り。借家82軒、下作高二 石五斗盛り。合わせて142軒の高田村領となっている(高盛りは、町年貢を指す)。
 以上のように外町十三町のなかでも相当古株の町であっただろう。
 なお、高田町と高田村は現在、高田口町と高田町に町名変更されているが、これは明治22年(1889)の町制施行の以後の ことである。

 写真↓左は、高田町大門前土橋跡から伊賀街道に向かっての通り。町筋が左・右にS字カーブを描いている。見通しを嫌って “ひずみ”をつけてあることがわかる。画面奥左側にJR郡山駅があるがこの写真では見えない。


◇酒造りの町
 高田町には造り酒屋が多かった。「町鑑」(前出/享保9年(1724))によると外町では高田町の5軒のみで、他の外町に酒造の 例はない。列挙すると、酒屋九兵衛・松屋長次郎・綛屋七兵衛・伴堂屋兵助・竜田屋宗七の合わせて造高310石である。ちな みに内町分の造高は2,970石(33軒)で、郡山における当時の総造高(営業権・鑑札)は3,280石(38軒)であった。元来、郡 山の酒造は豊臣秀長の郡山保護政策として天正13年(1585)10月にはじめられ、のち延宝8年(1680)の調べでは総株高1 1,376石(株数62軒)に達していた。明暦3年(1657)、公儀は酒鑑札をはじめて制度化し、米価を左右する酒造を統制し、さら に米穀生産の豊凶の調整策の一つとした。元禄10年(1697)には酒運上を課税、酒の価格を五割増しにし、その三分の一を酒 運上として上納させている。
 郡山においては本町の八尾村屋平七・永原屋八右衛門が改役人に選ばれるとともに、やがて運上の取立役を務めた。のち 酒造方支配をも務めたが、宝永6年(1709)に至り公儀は酒運上を止めて各藩に戻したため、八尾村屋・永原屋は休株し、この ため酒造高も激減し、酒株は次第に新興の酒屋へと分散して行ったのである。
 その後も公儀は酒冥加と称してときどきに復活しため酒造をとりまく諸事は煩雑を極めている。天保期には塩町の柳生屋権 兵衛が酒造屋年行司を引き受け、酒造仲間を束ねていたのである(注4.)。
 ところで、酒造には良質の水源が必要なことは言うまでもないが、なぜ高田町に酒造が盛んであつたかについて述べておく 必要があろう。それは、高田町が地形的に郡山東南部の低い土地に立地したことと、もとの秋篠川の流路を利用して外堀とし た材木町裏池と薬園寺裏池に町が隣接していた。なかでも薬園寺裏池の南(高田町南)で埋め立てられたもとの川跡は砂地を 伏流する水が豊富であり、このため、町内各所で掘られた井戸水も豊潤であったわけである。
 
 写真↓右は、高田町大門跡で、横断歩道のところにはかつて土橋があって、左右には外堀があり、その向こう側に堂々たる 大門が建っていた。奥に材木・外矢田町方向を望む。堀跡は現在、外堀緑地公園として整備され、散策道として親しまれてい る。

 
 
 ◇壷ヶ崎
 現在の高田神社付近は、延宝6,7年(注1.)の様子と少し違いがある。高田神社と釈尊寺のある辺りに「寺屋敷」(前述)と記さ れていること。「寺屋敷」が環濠で囲まれていること(写真↓はその遺構)。「寺屋敷」が土橋を入口として街道筋に面していたこ となどである。こうした単位の土地は“坪”(壷)と称して、たとえば“寺の坪”・“宮の坪”などと呼ばれることが多い。高田村も明 治元年(1868)以後におこなわれた廃仏毀釈の影響を受けた結果、鎮守社(高田神社)が中心的存在となり、いつの頃からか街 道筋の環濠などは埋め立てられたのである。なお、「続日本記」の天平宝宇7年(763)10月丁酉にみえる高田寺を、ここ釈尊 寺・高田神社とする説もある。
 また、寺屋敷(寺の坪)の周囲には、高田村北方の常念寺裏池外堀方向から引く水と、西方の高田町大門端材木町裏池外 堀から引き込まれる二つの水路とが、寺屋敷の環濠を経由して高田村の農地を潤す重要な水利として機能し、鰻縄手川の本 流となっていたのである。こうした形態をして“壷ヶ崎”と呼ばれるようになったと筆者はみているわけである。なお、鰻縄手川は 一部流路を変更され今日に至っていることを付記しておく。

 写真↓は壷ヶ崎(高田大神社)と呼ばれる現在の高田神社付近。神社の奥に釈尊寺がある。


 ◇国鉄郡山駅の開業
 明治23年(1890)6月、王寺・奈良間の鉄道が開通、郡山駅も業務をはじめていたが、同25年2月には大阪湊町・奈良間の 全線開通により、ここ高田町付近は一躍盛況の町となった。近代交通の発達により新たな郡山の玄関口として、城下東部の 町々は目抜き通りとして急激に発展し、そのうえ明治26年には駅付近に郡山紡績株式会社が設立され人口が急増するな ど、近代における郡山町発展の基盤が整った時期であった。
 さらに、当時の大阪鉄道株式会社は、同33年、奈良・加茂(京都府)間で運転していた関西鉄道株式会社を合併し、明治40 年、鉄道国有法の施行により国鉄関西線となったのである。
 このような逸事が残されている。そののちここ郡山駅と福島県の郡山駅とが駅名をめぐり何かと業務に混乱を来たすとして駅 名を“大和郡山駅”と改称しようと鉄道院では考えていた。しかし、大和の郡山側は承知せず、ついに柳澤保惠伯爵をして鉄道 院総裁に陳情されることとなり、その結果駅名はそのままとなったのである。現在もその駅名は変わらない。駅ホームに今も 残されている旧仮名遣縦書の標識“こほりやま”が遠いむかしを彷彿させゆかしいことである。

(注1.柳沢文庫蔵、注2.発志禅院蔵、注3.「郡山藩家中図」・注4.「酒造株関係文書 永原氏」/柳沢文庫蔵)
30 「新編郡山町中記」【三十三番 南大工町(みなみだいくまち)】
 ◆南大工町◆(外町)
 享保9年(1724)、この町は外町で“郷分”、すなわち柳町村の年貢地であった。「旧記」(天明期)にみる町の様子は、南北4 2間、横幅(道幅)2間、東西19間半、横2間(西のゼリ道幅)、本家21軒、本作高一石五斗盛り。借家60軒。合わせて81 軒、柳町村領となっている。ただし、町(南北)の長さは牢屋敷地と柳町村の小山屋弥六の屋敷地は除かれている。前者は町 奉行支配であり、後者は柳町村郷分である。
 ◇大工町にもあった馬場
 南大工町は、寛永16年(1639)に入部した本多政勝(第一次本多家)が武家奉公人町の一つとして造った武家地である。そ して、政勝はこの町の東側過半に馬場を設けている。具体的には、現在の北大工町の東側にある洞泉寺町への路地道から 真っ直ぐ南大工町の南端までが馬場であった。
 このことは、岡山大学付属図書館蔵本の「郡山城絵図」(注1.)から判明したことである。該図はもと池田家に伝来したもの で、写本ながら家中図であって絵図は明らかに本多政勝によって整えられた時期のものである。このことは郡山城内五軒屋敷 に政勝時代から家老であった梶金平屋敷があり、かつ、現在の永慶寺付近の下屋敷が、いわゆる郡山藩「九六騒動」で二分 される以前の姿から明白となったことである。このような貴重な史料の原本を機会があれば具に拝見したいものである。
 牢屋敷の移転時期に関しては本稿“23洞泉寺町”のところを参照されたい。
 なお、馬場の規模は計測値で長さ約195m、幅約30mはあった。
 
 写真↓は、南大工町とその南部を遠望する。左側の民家のところが画面奥まですべて馬場跡(外馬場)に当たる。


 文禄の末年(1596)までには完工を見ていた増田長盛(1545-1615)による“郡山城総構”は、城下の武家地や町場などを外 堀と土居、総門と総口で囲繞していた。総構は、“内郭”と“外郭”、つまり城と城下全体をより強固な城塞として機能させるた めにおこなわれた築城法の一つである。総構の築造は、織豊期にはじまり徳川時代の慶長期には成立した。その嚆矢は織田 信長の安土である。
 近世における馬場の役割は、馬術鍛錬のためばかりではない。いざ合戦ともなれば馬上の者や、足軽に至るまで隊伍を整 えて押し出すための基地となるのである。このために馬場は各総門や各口を意識して適所を選んで置かれている。郡山におい は、武家地に2か所、町場に1か所置かれた。前者は大織冠・小川丁の両馬場であり、後者はここ大工町の馬場(当時の名称 は不詳)である。江戸時代における郡山の外郭のうち、武家地には九条口・大坂口・大織冠口・矢田口・箕山口の五口があ り、町場には柳町大門口・高田町大門口・鍛治町大門口の三口があった。いわゆる“郡山八口”である。

 ◇柳町村領の水路
 南大工町には道路を西から東に横切って洞泉寺裏池へ流れ落ちる比較的大きな水路がある。随分立派な石橋が架かって いることなどから、ここがかつて柳町村領を潤す重要な水利の一つであったことが解る。
 柳町一丁目から同四丁目の裏西側の武家地との間には、大手堀から南へ流れる“竪堀”(町制時代“柳営排水”と称された) があり、この堀は、下流にある外堀の“八幡堀”と“下箕山堀”の中間点まで約435mつづいていた。このうち柳一丁目の紺屋 川近くで高田村と“分水訳”をするほか下流域はすべて柳町村領分の水利であった。
 南部城下町の形成過程において城下を囲む“総構”の中にありながら町場化が遅れた柳町村領の外町として、外矢田・南大 工・柳裏町の三町があることはすでに述べた。町場化が遅れた事由として、水利の維持管理(分水樋・堀浚え・土揚げ場など) が主たる要因であることも前述のとおりである。
 ところで、南大工・柳裏両町は一本の水利によってつながっているということは一般に知られていないことである。すなわち、 南大工町にある洞泉寺裏池外堀への水利は柳裏町の北端から前述の竪堀の水を引き込んでいたということである。  なお、 現在では公共下水道の普及によってその痕跡をたどることは容易ではないが、雨水の排水のため旧流路の必要性はありその 痕跡(水路・暗渠、標高差など)は明確に遺されている。これらは絵図類の注視によって解けたことの一つとして紹介した(32 「新編郡山町中記」【三十五番柳裏町】参照)。

 写真↓左・中は、道路を横切って外堀(洞泉寺裏池)へ流れる水路。は、柳町の背割り水路の状況。



  
写真↓は、大工町の馬場跡(児童公園)から高齢者総合福祉施設「かんざん園」を見る。


(注1.岡山大学付属図書館蔵「池田家文書絵図類総覧」(詳細表示)http://ikeda.lib.okayama-u.ac.jp/pic/3076-14.JPG
。注2.「郡山町史」所収)
31 「新編郡山町中記」【三十四番 柳裏町(やなぎうらまち)】
 ◆柳裏町◆(外町)
 柳裏町は、柳町三・四丁目の裏に造られた西方片側の町並で、外町十三町のうちに数えられていた。
 以下に柳裏町の変化を見てみよう。この町は正保の図(1644/前出)においてすでに町屋が形成されていることから、当初 から町屋としてプランニングされたとみられる。また、天和の図(1682/前出)において、はじめて町内に寺が現れる。すなわ ち、真福寺(神福寺が正しい)と、もう一ヶ寺(寺号無記入)で町の南部にできている。ただし、この図には町の北寄りの柳町三 丁目へのゼリ口が描かれていないが、あまりにも狭隘の4尺道であり、かつ、正保の図においてすでに見られることなどからみ て抜け落ちである。また、延宝の図(6.7年(1678-79/前出)によれば、神福寺と北隣に侍屋敷が1軒でき、他は町屋となって いる。そして、貞享の図(1685/前出)、享保の図(1724/前出)など江戸時代後期の絵図類には、南端の神福寺と、それよ り北方はすべて町屋となっている。
 なお、柳裏町の南出入り口となっている郡山八幡神社の参道は柳町四丁目に属しているし、北口は、前述の柳町三丁目か らの狭いゼリ口のみである。
 柳裏町の裏手(西)には、大手堀から外堀に流れる竪堀があり、その水は“下箕山堀”と“八幡堀”の間に落ちていた。また、 水利のある用水として管理されていたため、この辺りには土揚げ場や樋などの施設もあったと推量される。
 なお、別の水系として柳裏町の北方の竪堀から分水して、南大工町、そして洞泉裏の外堀まで分水があったことはすでに述 べている(31「新編郡山町中記」南大工町/参照)。
 「旧記」(前出)による町の状況は、南北110間1尺(計測値約220m)、道幅1間。本家4軒、本作高一石二斗5升盛り。借家 109軒、下作無し。合わせて113軒、柳町村領。となっている。この町は外町のなかで借家率がもつとも高い96%になる。
 写真↓、左に郡山八幡神社の長い土塀と裏門が見える。その切れ目から以北(写真奥)が柳裏町である。右側はすべて柳 町の民家裏手になる。道路はわずかに弓形になっている。


 写真↓左は、町の北寄りから東方の柳町三丁目へ出るゼリ口。写真↓中は、同ゼリ口付近から見る柳裏町南方。写真↓右 は、町の中ほどから南端の郡山八幡神社方向を遠望する。
   

 写真↓は、大手堀から手前に流れる竪堀の現状。狭いコンクリート製三面張りの水路になっているが、かつてはこの辺りで5 間半(約11m)の堀幅があった。町制時代からおこなわれた“払い下げ”の結果、現在のようなかたちになった。


 写真↓は、外堀の水口付近で南に向かって左にカーブしている竪堀。その奥は、八幡堀の“御土居”(もとの高さ2間)で、現 在、郡山総構のなかでもっとも良好な遺存状態にあり、城郭史を知るうえにおいてまことに貴重な文化財ということができる。


 ◇神福寺
 真言宗の寺で、今は廃寺となっている。仁和年中(885-9)聖宝僧正の創立で、文禄2年(1593)の大僧正海尊が中興と伝え られている。
32 「新編郡山町中記」【三十五番 柳外五丁目(やなぎそとごちょうめ)・三十六番 柳六丁目(やなぎろくちょう め)】
 ◆柳外五丁目◆(外町)
 この町は、外町十三町の一つで、天明(1786)のころには単に“外五丁目”と通称されていた。
 紛らわしいのが柳町五丁目と柳外五丁目で、前者は内町として、後者は外町としての別があった。
 前述のように、文禄から慶長(1593-96)にかけておこなわれた郡山惣構の築造にあたって、屋地子免除の“町分け”が見直 され、古来から交通の要衝であった高野街道に沿い発展していた柳五丁目は、総構の外郭ながら地子免の内町に編入され た。柳五丁目はすでに正保の図(1644/前出)によってその形成を確認することができる。ほどなく、これから南部の高野街道 筋の柳町村領に町屋が掛け作りに連綴して、柳外五丁目ができたのである。
 旧記(前出)にみえる外五丁目は次のとおりである。
 柳外五丁目、南北51間、道幅2間1尺。本家17軒、本作一石五斗盛り。借家8軒、合わせて25軒、柳町村領。

 写真↓は、柳五丁目から南方のもと柳外五丁目を望む。現在では単一の町で柳五丁目北・南と通称されている。


 写真↓は、もとの柳外丁目、柳六丁目の町境付近で、道路中央のマンホールから手前が柳町村領のもと柳外五丁目であり、 向こう側が天井村領の柳町六丁目である。


 ◆柳六丁目◆(外町)
 柳六丁目は柳外五丁目と同じころ町並みを形成、両町とも慶安2年(1649)のころから外町(屋地子年貢地)として一定の自 治が認められる町に発達したわけである。文政12年(1829)5月には、六丁目の町方による能興行がおこなわれた記録があ る(「豊田家文書」大和郡山市蔵)。また、明治20年測量の(1887/「大日本帝国陸地測量部」)地図にみるこの町の様子は 現在とほとんど変わってはいない。
 旧記(前出)にみえる柳六丁目は次のとおりである。
 柳六丁目、南北118間半、道幅2間3尺。本家42軒、本作高二石盛り。借家45軒、下作高三石盛り。合わせて87軒、天 井村領。
 
 写真↓は、柳町六丁目から北方のもと柳外五丁目、柳町五丁目を遠望する。


写真↓は、柳六丁目の町外れから南の高野・筒井街道を望む。


 ◇郡山の瓦師
 大和には南都七大寺を中心に多くの寺があり、このため古来から瓦大工による瓦の生産が盛んにおこなわれたところであ る。郡山城下では、延宝8年(1680)の大火や元禄12年(1699)の大火後、藩が町屋に瓦葺を奨励したため瓦の需要が増加 した。享保9年(1724)の「町鑑」(前出)によれば、城下外町に瓦師7人を見出すことができる。なお、関連して屋根屋は、内町 に11人、外町に21人と記されている。
 また、城下の各寺などに遺存する瓦銘からその活躍が顕著なのは、江戸初期において九条の久左衛門、中期に柳六丁目 安兵衛、末期に矢田口久兵衛である(「郡山町史」参考)。
 柳六丁目には“瓦熊”の屋号でよく知られている瓦屋さん(写真上右側)がある。現在の城下付近ではわずかにこの1軒を残 すのみとなっている。
33 「新編郡山町中記」【三十七番 東岡町(ひがしおかまち)・三十八番 西岡町(にしおかまち)】
 ◆東岡町◆(外町)
 旧記(前出/天明(1786))にみえる東岡町は次のとおりである。外町十三町のひとつ年貢地である。
 東岡町。東西97間半、道幅2間。本屋94軒(表裏共)、本作高二石盛り。借家190軒(表裏共)、 下作高北側三石盛り、同南 側裏共四石盛り。合わせて284軒、柳町村領。
 写真↓は、柳町大門前に今も残る江戸時代の旅籠屋“花内屋”横から西方の堺街道沿いの町、東岡町(片原町)を見る。


 ◇東・西岡町と堺街道
 江戸初期の正保図(前出)によって、すでに柳五丁目と“片原町”(現在の東岡町東部)両町は確認することができる。もっと も、このころは柳町大門前の柳五丁目の町境から、西方の総構八幡堀(郡山八幡神社裏)端の道路南側に形成された約80 mの町に過ぎなかった。つまり、向かいは堀の片原の町である。
 文禄・慶長(1593-96)の郡山総構の築造にともなって、往古、箕山(箕山町)を通って郡山を南北に縦断していた堺街道(※ 本稿「郡山城百話03◆柳曲輪、五軒屋敷」013中世の郡山城地「古代郡山復元図」参照されたい)は、総構南口の“箕山 口”として利用された。この辺りは武家地であった。
 のち、箕山口の常光寺下(西岡町)辺りから、東方の柳町大門前にかけての約350mにわたり新道(以下「新堺街道」とい う。)を設けて堺街道を城下町に引き込まれたのである。この新道造りの時期の特定については明確な史料を欠くものの、絵図 類からみて、やはり寛永16年(1639)に郡山へ入部した本多家(第一次本多)の城下拡充の一環としておこなわれといえそう である。
 なお、このころには新堺街道沿いの北側には武家地(武家奉公人の屋敷地)がすでに形成されているが、一方の南側には建 物は一切建てられていない。これは、当時軍略上の規制として新堺街道沿いの南側に家屋を建てることを堅く禁じたためであ る。そして空地は武家地として支配されていた。

写真↓は、箕山口から南へ下る往古の堺街道跡をたどる道筋である。
 突き当たりを右折して往古の堺街道は通じていた。左折すれば“新堺街道”沿いに西・東岡町から柳町大門前に達する。


 やがて、貞享2年(1685)に入部した本多忠平の藩政時代になって、規制は改められ新堺街道沿いの南側に町屋を建築する ことを許した。このため間もなく町並は形成され、箕山口常光寺下の元堺街道筋にも数軒の町地がみられるようになっている。 そして、享保9年(1724)柳澤吉里が入国(国主格)のころには新堺街道沿いの南・北側ともすべてが町地(東・西岡町)に変 化したのである。

 ◇町名の変化
 前述の“新堺街道”が設けられるまでの総構八幡堀前に形成された初期“片原町”(カタハラ丁)は、天和(1682)のころまで には成立していた。
 のち、貞享(1685)の規制解除によって新堺街道沿いに町屋が西に伸延し、片原町は東西の二町にわかれて“東片原町”・ “西片原町”と改称されている。やがて享保9年(1924)のころまでに両町は、それぞれ“東岡町”・“西岡町”と町名を改めたの である。なお、岡町の語意は“傍”・“岡”の町である。

 ◆西岡町◆(外町)
 「旧記」(前出)にみる西岡町はつぎのとおりである。外町十三町のひとつ年貢地である。
 西岡町。東西116間、道幅1間5尺。本屋115間軒(表裏共)、本作高二石盛り。借家171軒(表裏共)、下作北側三石盛り。 同南側(裏共)、四石盛り。合わせて286軒、 内25軒は柳町村領 261軒は新木村領。 

 写真↓は、西岡町の通り。西方に向かって緩やかな坂道にかかる。


 写真↓は、左に道をとれば旧堺街道である。右側の道路は藩政時代には無かった道であるが、明治20年にはすでにできて いる。


 写真↓は、前方に丸山古墳(宮内庁陵墓参考地)を望み、堺街道は芦ヶ池端を左に曲がって南進する。この辺りは旧街道の 趣があるところである。


 写真↓は、新木村領(新木町)に入った堺街道は芦ヶ池を過ぎ左右の分岐、そこに建つ道標。
 正面に「左 たつた(斑鳩町竜田)・ほうりうじ(同町法隆寺) 右 まつのうさん(大和郡山市矢田町松尾寺)」、側面に「郡山 細引屋與三兵衛 天保六年(1835)六月」と刻されている。


 ◇岡町の辻子
 町通りには、横町に入る辻子ができる。江戸時代、東・西岡町で通称された辻子名は次のとおりである。
 東岡町では、南側に“素麺屋辻子”(写真↓@)、その北側に“番所辻子”(写真↓A)と呼ばれる2筋の横道があった。
 
 写真@       写真A
  
 また、西岡町の東寄り南側には“藤助辻子”(写真↓B)が、その北側に“番所辻子”(写真↓C)がある。同町の西寄り南側に “亥向辻子”(写真↓D)、その北側の箕山口に通じるところを“道通辻子”(写真↓E)と呼んだ(注1.)。
 写真B       写真C
  
 写真D       写真E
  
 ●常光寺
 山号を妙高山という。日蓮宗妙満寺の末寺である。寛永年間(1624-44)に本多政勝の老職早野五兵衛夫妻が開基。開山 は日宇上人。近年普請により寺観を整えられている。墓地には藩儒藤川冬斎、その高弟水谷克庸、柳澤家家臣で陶芸をよく した青木木兎、同家臣の水野八郎などの墓所がある。

 写真↓は、往古の堺街道から見上げるところにある常光寺。この地は総構外南の要害であった。
 写真↓右は、常光寺前に建つ「木兎之墓在此」の碑、郡山町(昭和29年1月1日市制施行以前)の建立である。
 
 ◇藩儒藤川冬斎
 藤川冬斎は、諱を晴貞、字名子幹という。初名は為太郎、のち友作と改める。号は冬斎のほか皐鶴・百花堂などがある。
 天保12年(1841)11月、家督して秩禄は次第に累進してやがて藩儒となり、郡山藩校総稽古所の督学(寄合衆)にのぼり3 20石取りとなる。冬斎は少年のころより専ら武芸に精励しことに槍術が得意であった。文学は、はじめ柳澤家の家学ともいえ る荻生徂徠の学統(復古学)に属したが、後年藩より遊学を許されるにおよんで京の頼山陽門に学び、晩年には陸王学(陸象 山・王陽明)に傾倒した。
 親交があった著名人として大和国五條の森田節斎(1811-68)や、大坂の大塩平八郎(1793-1837)などがある。また、冬斎が 上梓した著作も少なくはない。慶応4年(1868)に隠居して、明治2年(1869)2月に病没、享年74歳。ここ常光寺に葬られる。
 柳生藩家臣の養子となった碩学岡村閑翁(1826-1919)はその二男であり、高弟には平島奎堂・山村狼渓(1814-70)・水谷克 庸(1824-95)などがある。

 ◇水野八郎(藤井勇七郎)
 本稿 「郡山城百話」13◇本丸、天守曲輪 ○新選組隊士橋本皆助 を参照されたい。


(注1.「郡山町旧記」天理図書館蔵 参考)
34 「新編郡山町中記」【三十九番 何和町(なにわちょう)】
 ◆何和町◆(外町)
 ここに、解説の便として「九条町近辺図」を作成したので参照されたい。


 何和町は、もともと“九条口”の九条村領内にできた掛け作りの町として単に“九条町”(くじょうまち)といった。文禄・慶長の 総構築造後、城下の北の玄関口である“九条町大門”が建てられたと「旧記」にみえる。江戸時代初期の正保図(1644/前出) においては九条町の南方約200mの“小川北裏外堀”と“薫高院前外堀”(今日の正願寺池)との間にその虎口を認めること ができるものの、このころにはすでに九条町大門は無くなっている。また、同図によると“九条町”(のちの何和町)のところは、 今日より約80mほど以北から、町外れになる“九条口”(西ノ京道)まで約90m(1丁)ほどの町地に過ぎなかったし、町の西 方につながる“新九条町”(天和の図による町名/現、九条平野町)は未だ形成されていなかったので、“九条町”の町並を除 いて周辺(“九条町大門”の内外)はすべて武家地であった。

 写真↓(左)は、現在の何和町通りの中程にある十字路で、この辻より奥(北方)が江戸時代初期の“九条町”にあたる。
 また、辻の左(西)・右(東)は、それぞれ“中代官丁”(写真中)・“新屋敷”(写真右)の武家地へ通じていた。


 写真↓は、九条町大門跡付近から、左に薫高院前外堀(正願寺池)を、右に小川北裏外堀を(いずれも“特定保水池整備” の工事中/平成18年1月31日竣工予定)。奥(北)に“九条町”(現、何和町)を遠望する。 
 

 こののちの延宝絵図(前出)による“九条町”の様子は、今日の何和町にみられる町域にまでほぼ延伸していて、町内の東側 には寺屋敷が2ヶ所並んでいることが分かる。ことに、注目すべきは“九条町”から西方に“大坂街道“が新しく開かれ、その街 道沿いに掛け作りの町“新九条町”(天和の絵図による町名/現、九条平野町)が形成されていることである。
 また、町名に関しては、天和の絵図(前出)による“九条町”は、貞享の絵図(1685/注1.)においては、なお変化はみられない が、「町鑑」(前出/享保9年(1724))によれば、すでに“何和町”に変わっているので、第二次本多家(忠平〜忠烈)の藩政時 代、中・後期に町名を変更されたとみるのが至当である。また、何和町は、“難波町”とも記されることがあることから、延宝絵 図(前出)に見る“大坂街道”に、仮に由来する町名と推考すれば、“難波町”がそのはじまりであるといえる。しかしなお、町名 の由来は明確ではない。

 写真↓左(西方)は、“片原代官丁”(武家地)への辻子である。延宝のころまでには、この辻まで“九条町”(何和町)の町地が 延びていた。写真↓右は、“薫高院前外堀”(現、正願寺池)に沿って“片原代官丁”へ進む坂道で、辻の堀端には郡山“辻十ヶ 所番所”のひとつ“何和辻番所”が置かれていたのである。
 

 写真↓左は、真っ直ぐ進めば“九条口”(“西ノ京道”/近鉄橿原線九条駅方向)で、左折すれば、写真↓右のように“大坂街 道”に面する“新九条町”(現、九条平野町)の通りである。“新九条町”は、のち町名を変え、安政の絵図(前出)では“平ノ丁” と、「町鑑」(前出)においては“平野町”と記されている。
 なお、貞享の絵図(注1.)によると、今日の九条平野町から何和町に突き当たったところ(写真↓左、道路の右側に見える電柱 付近)には制札(札の辻)がみられ、やはりここは“大坂街道”から郡山城下への重要な幹線道路であったことが解る。
 
 「旧記」(前出)にみる何和町は次のとおりで、外町十三町のひとつである。
 何和町。南北99間、道幅2間。本家35軒、本作高一石盛り。借家69軒。合わせて104軒。九条村領。

 ●平等寺
 永林山と号し、臨済宗妙心寺派の末寺であった。その開基は真言宗の同観法印で、至徳元年(1384)、大和国山辺郡成願寺 村(現、奈良県天理市)に草創され、のち郡山の高田町に移され、第一次本多家(政勝-政長)の藩政時代(1639-80)に“九条 町”(現、何和町)に移った。その後、仏堂は朽ち果てて寺号のみを遺していたが、僧円智が譲り受けて寺を建立した。さらに数 十年ののち住持するものもなくなり、文政13年(1830)5月、越後国岩舟郡の村上安泰が寺に入り再興したという。なおこの寺 は、現在、この町には無い寺であるが、北隣の愛染院と並んで“札の辻”近くにあった。

 ●愛染院
 平等寺の北隣にあった真言宗仁和寺の末寺で、今は廃寺となっている。もとは九条村に草創され、快弁大法師が愛染明王 堂や坊舎を移転、大坂夏の陣の郡山兵火(元和元年(1615)4月)に焼失し、翌年、弟子の快秀が再興した。

 (注1.「日本輿地畿内 郡県里部 大和国添下郡 郡山町地図」/独立行政法人国立公文書館蔵 参考)
35 「新編郡山町中記」【四十番 平野町(ひらのちょう)】
 ◆平野町◆(外町)
 “平野町”は、外町十三町に数えられる町で、現在は、九条平野町と公称している。
 平野町は、江戸時代初期の正保の図(1644)にはみられない町である。のち、延宝の図(1678-79/前出)によって、この町 の存在が確認でき、さらに、天和の図(1682)において、はじめて町名の“新九条丁”がみえる町である。
 “新九条町”ができたのは、一般の往還として九条町の西方に新たな“大坂街道”が開かれたからである。これによって街道 沿いに掛け作りの町“新九条町”(のちの平野町)が急速に形成されることになった。ことに大和の北部に位置する郡山にとっ て大坂への最短コースである暗(クラガリ)峠越え(大和・河内国境)は往古からの街道として賑わったところである。

 ◇大坂口道
 この“大坂街道”とは別に“大坂口道”(今日の北郡山町大阪口)から大坂への道筋は、当時、城下の町地でなく武家地を通 行するために藩御用の道として使用されていたので旅行者などはもちろん一般の往来は規制されていた。
 かつて、大坂に火災があるときなどは、郡山藩から暗峠まで駆け上がり、御使者番を大坂城代・城番・加番・大御番頭・大坂 東・西町奉行・百日目付の各所へ遣わして、このうち大坂城代へは“すでに郡山から火消人数を暗峠に待機させているので、 御用あれば仰せ付けられるように”との郡山城主からの口上を述べ、指示があれば火消・警護などにあたることになっていた。 このとき道筋として定められていたのが、城内五軒屋敷より植槻筋、土橋、そしてこの“大坂口道”であった。
 一例を引くと、松平(柳澤)甲斐守保光の藩政時代(1773-1811)に大坂で発生した火災は5度あり、そのうち、寛政元年(1789) 12月23日の堺町筋の火事は大火であつた。郡山藩より一番手、二番手の人数を玉造まで出して消火に努め、三番手到着 の時ようやく鎮火して、25日までに郡山へ帰着している。なお、その他の火事は間もなく鎮火して、人数は暗峠より引き返しと なったのである。
 
 さて、“大坂街道”の成立については、前述のように正保から延宝にかけての間ということになるが、いずれも第一次本多家 (政勝〜政長)の藩政時代にあたるが、成立の時期の詳細については不明である。
 また、町名に関しては、天和の絵図(前出)による“新九条町”は、貞享の絵図(1685/前出.)においては、“九条新町”と見え、 また、「町鑑」(前出/享保9年(1724))には、“平野町”と町名を変えているので、何和町と同様、第二次本多家(忠平〜忠烈) 藩政時代の中・後期に町名変更がなされたといえそうである。このほか、「郡山町旧記」(前出.)に“割九条町”の町名も記録さ れている。なお、“平野町”の町名の由来は不明である。
 
 写真↓は、平野町より西方を望む。


 ◇大坂街道と城下への道(「九条町近辺図」参照)


 
 大坂街道から城下へは、平野町の中央部にロの字形の枡形道が構成されている(「九条町近辺図」参照)。この枡形道をよ く観察すると、道幅と道の歪み・大小の鍵の手、掘割水路と小橋、方約45m(23間)の枡形道の内外に町屋を置くなど、実に 巧みな工夫が凝らされてある。つまり、直進や見通しをさえぎり、辻子には伏兵のための“勢隠し”を置くなど、これらは有事に 備えて構成されていることが解るのである。
 このことは郡山城総構の各口にも例をみないもので、当時、いかにここ“大坂街道”を重要視していたかがわかる。また、この 近く(九条村領)に“焔硝蔵”が置かれていたこともゆえなしとはしない。

 写真↓左は、平野町を西進し、最初の辻を右折した通りから、北方の旧九条村を望む。この道は原形をよく保っていて、当時 の“大坂街道”の本通りに出る前の鍵の手の道で、写真の中程から左折したところが、写真↓中で、直進する道路が本通りの “大坂街道”である。
写真↓右(九条平野町の西部から東方を望む)中央奥の高い建物のところを左折すれば写真左の道に進むことができる。な お、手前の道路は拡幅されて原状を留めていないので旧状を知ることは難いが、かつては、中央奥の建物のところで左へ小さ な鍵の手があり、また、手前は狭い道路であったから画面奥の“平野町”通りの東方を見通すことはできなかったところである (「九条町近辺図」参照)。
  


 写真↓左は、西方に向かう現在の九条平野町の本通りとなっているところで、前方の電柱のところに十字路が見えるが、も とは辻(右手の電柱)より先の直進道路は無く、T字路になっていたところである。なおこの直進道路は、明治20年(1887)大 日本陸地測量部の地図には無く、大正8年(1919)12月の同図において確認することができるのでこの間にできた新道であ る。
 写真↓中は、写真左の十字路を左折したところで、当時、武家地であつた代官丁・大坂口道方向への道路。道路左側の歩 道はもとの掘割水路で、今は暗渠になっている。また、水路の左側はうっそうとした藪がつづいていたところである。
 写真↓右は、写真左の十字路を右折したところで、奥に見える自動車の左右が“大坂街道”の本通りである。なお、道路右 側の歩道(暗渠)の下は、もとの掘割水路で、ここより平野町北部を右折して秋篠川近くを南下し、観音寺村を流れ下って、やが て佐保川に合流する蟹川水系の掘割である。
   

 写真↓は、“大坂街道”の通りで、昔日の佇まいが残されているところであるが、今は街道筋の賑わいはない。坂道を越える と富雄川端の“木嶋”に出て、昔の石堂・砂茶屋・追分・榁木・小瀬・萩原・藤尾・西畑村、茶屋から暗峠を越えて、河内・大坂 に至る街道で、郡山から大坂まで七里の道程であった。
 
●常楽寺
 喜知山と号し、真言宗仁和寺の末寺であった。もと九条西山にあり、寛文年中(1661-73)大僧都法印英秀の中興という。本 尊は薬師如来坐像で、このため貞享の絵図(前出)には単に“薬師堂”とみえる寺である。今は廃寺で、現在の九条平野町東 北部にあった寺である。なお、本尊は城下新中町春岳院(豊臣秀長菩提痔寺)の脇壇に安置されている。

 以上で、江戸時代の城下町郡山四十町(内町二十七町、外町十三町)の解説は終了しました。
 次回からは、いよいよ武家地の話題へと進みます。
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