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柳澤文庫は、旧郡山藩主柳澤家に伝来する数多の文書類を、明治35年(1902)4月、とき
の柳澤保惠伯が郷土の教育・文化の振興を願って公開されたのがそのはじまりで、のち昭
和35年(1960)10月に後継中興の柳澤保承の発願により財団法人となり今日に至っていま
す。柳澤文庫では、郡山城跡の保存のほか、引き継がれた貴重な史料の保存・研究、史料
の収集などがおこなわれています。また、地方史誌専門図書館として収蔵史料の特別閲覧
のほか、基本図書を備えた図書室の利用など歴史研究の方々を歓迎されています。なお、
平成15年4月からは、館内を改装して一新されたほか、歴史講座に新企画の二つの市民講
座(古文書講座・ふるさと歴史塾)を加え、さらに、史料の展覧会も新企画とされるなどより充
実した内容でリニューアルオープンされています。ぜひ一度立ち寄られてはいかがでしょう
か。
写真に見える建物は、もと東京芝田町にあった旧柳澤邸の「日本館」の玄関車寄で、郡山
邸の玄関として移築するため解体され、当時の国鉄(JR)で郡山へ運ばれた建物です。昭和
2年(1927)10月10日に上棟し、やがて完成した総ケヤキ造りの建物です。比較的質素な造
りながら工事の指導に当たった橋本技師の卓出した才能を見て取ることができます。
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郡山城本丸にあり、竹林橋跡に建つ大鳥居をくぐって土橋を進み竹林橋門の櫓台を入った
ところがそうです。祭神は川越城主・甲斐国主であった柳澤吉保公。本宮祭は11月2日。神
紋は、「一ッ花菱」。明治13年(1880)10月、はじめ二の丸(現県立郡山高校)の地に創建さ
れましたが、師範学校分局郡山学校が二の丸へ移転し、境内地が狭隘となったために現在
地に移されることになりました。明治15年6月8日のことです。このとき一間社流造の現在の
本殿が新営され、つづいて拝殿(本瓦葺、梁間3間×桁行10間半)も明治23年(1890)8
月、造立が成っています。ところが、昭和34年(1959)の「伊勢湾台風」で拝殿が倒壊し、掲
げられていた有栖川宮熾仁親王(1835-95)の揮毫になる「柳澤神社」の大扁額も大きく損傷
したことはまことに惜しまれているところです。
写真は柳澤神社拝殿の一部と透かし塀のうしろに見えるのが本殿。拝殿にある紅白の打ち
幕の下に金魚鉢が多数並べてあるのは、毎春開催の“お城まつり”の期間に郡山金魚漁業
協同組合の手でおこなわれている「金魚品評会」で、生産者“ご自慢“の色とりどりの金魚が
出品されています。ちなみに第一回の金魚品評会の開催は、明治40年4月のことで、毎年
ここゆかりの柳澤神社拝殿において開催されるようになりました。
また、町制時代には例祭(11月2日)の催しとして渡御行列がおこなわれていました。昭和
10年(1935)におこなわれた渡御式は、一時中断後の復興第一回として催されています。行
列の構成を先頭から略記しますと、「裃着用の金棒引き・長旗(一つ花菱紋)二流・神社世話
役代表の騎馬(甲冑武者)・螺貝・大太鼓牽き(柳蔭会子弟多数)・獅子舞二頭・猿田彦・先
箱対(黒皮金紋)・大鳥毛対・立弓・大鍬形甲大冑騎馬武者・大鳥毛鎗・騎馬武者(数騎)・定
紋提灯(高二張一対など)・徒甲冑武者(金色菱の輪抜の前立/多数)・千本鎗(多数)・騎
馬武者・長旗二流(「其徐如林」、「其疾如風」の文字(『孫子』))・錦旗・五色吹き流し二流・
祓主(馬上)・唐櫃・随身(人力車)・箱提灯対・祓立(布衣/数人)・提灯・副祓主(馬上)・亀
甲鎗・楽人(数人)・鳳輿・神馬(皆具に一つ花菱紋付の鞦(しりがい)/将馬)・合羽籠・斎主
(馬上)・傘・名代(馬上)・宰領騎馬・徒甲冑武者(多数)など」で、これで200人以上にはな
りますから、わけて盛大な“お渡り”であったことがわかります。
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郡山城本丸の柳澤神社の奥(北)にあり、天守台は上下二段になっていて、複合式の天守
であったことがわかります。上段の広さは8間に9間半でした。また、秀長時代には、七重の
天守がそびえていたといわれますが、江戸時代は、ついにこの台上に天守閣があがることは
ありませんでした。なお、天守台の石垣にも五輪塔、宝篋印塔などの墓石や石仏、礎石など
ありとあらゆる転用材が多く積み込まれ、なかでも天守台北側の「さかさ地蔵尊」(大永3年
(1523)銘)や、その横にある凝灰岩につくり出しのある平城京の羅城門礎石と伝える積み石
などみるべき転用石材がそこここに見受けることができます。大和には石材の取れるところが
少なかったのでこうした転用石材が用いられたとみる向きもありますが、城造りがおこなわれ
ると“十里四方の墓場が荒れる”いわれた時代背景と、当時大和の寺院は兵力をたくわえて
いましたから、その強大な仏教勢力との関係を無視して郡山城を語ることはできません。
写真の上部、松の木に囲まれた部分が天守台で、その下に見える水堀までの石垣は二段
に積みあげられていますが、下の段は“犬走り”で城を守る工夫の1つとして設けられたもの
と考えられます。郡山城の石垣には一見して不思議なところが多く受けられ、案外こうしたと
ころに郡山城を解き明かすカギが秘められているのかも知れません。このホームページの
「郡山城百話」のなかで順を追って詳しく解き明かしていきたいと考えていますので、ご期待
ください。
なお、写真に見えるように郡山城跡では毎年4月前後、桜の開花時期の日曜日から15日
間「お城まつり」が開催され、内外から観桜客が大勢お越しになります。夜桜のほか多彩な
催しがおこなわれています。ぜひお誘い合わせのうえお越しください。
郡山城址の御殿桜は豊臣秀長以来の新多武峰(多武峰(桜井市)から移され大和郡山市
大職冠に遷座、のち帰座。)社殿造営のとき、城内へも移された桜(山桜)に始まるという由
緒がありますが、その後も柳澤藩政時代に引き継がれて今日に至っています。現在の桜は
“染井吉野”がその中心で、他に“大島桜”や“枝垂桜”、“八重桜”、“普賢象”などが、見ご
ろになると城内一円今を盛りと美しく咲き誇ります。
昔は、“彼岸桜”では南門跡の「駒止桜」や、“染井吉野”では現在の三の丸緑地(柳曲輪
土居)にあった「桜トンネル」や、その北端の近鉄踏切近くにあった珍種“しののめ桜”などが
ことに有名で、それに鰻堀の西岸に植えられていた“紅普賢象”、また、柳澤神社拝殿裏の
“八重新曙”と同社務所近くに“楊貴妃桜”が、永慶寺には“うこん桜”などがあり、よく知られ
ていました。昭和5年頃のことです。
ところで、桜の栽培は案外難しいといわれます。連作などを嫌う“厭地”という性質があるか
らです。一年間の丹精があって立派な花を咲かせるというわけです。
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◇ 城跡公園散策道(城址〔東口〔常盤曲輪跡〜南口仕切塀(中門跡〕)
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二の丸の中門跡横の仕切塀から緑郭(城内高校グランド一帯)、そして五十間馬場跡から
厩曲輪(城内高校のプール一帯)をよぎり、馬場先門跡から常盤曲輪(市民会館一帯)に至る
延長369m.の散策道で、城内高校ならびに関係者の協力により市が設置したもので、平成
13年(2001)に完成しました。本丸天守曲輪の壮大な高石垣を見ながら、曲輪の北奥に位
置する複合式の天守台をぐるりと一周することができる郡山城随一のスポットとなっていま
す。
この散策道の開通で、郡山城に新しい見どころができ、巧みに積み込まれた野面積の石
垣は何度通っても見あきるということがありません。ことに、天守台下の東面、北面、西面の
三方には堀際に低く“犬走り”と呼ばれる堤がめぐらされ、ここにも築城の名人とうたわれた
藤堂高盛が関わっていたといわれていますが、確証のないのが現状です。高虎が豊臣秀長
の重臣であったことは事実で、城内に“与右衛門丸”を構えていたという口碑もあったりして
その関係から故なしとはしない面もあるからです。
写真の塀は、もとあった仕切りの塀を復元的に模して建てられたもので、城郭内の塀の高
さを実感できるところでもあります。この塀の右側には道路を横断するかたちで中門(緑門)と
呼ばれる仕切門があり、本丸裏門の竹林門や二の丸の屋形(居館)への通用門で、本来、
郡山城の縄張りからは、散策道の方向へ進むのが本丸への経路で、道幅ももっと広かった
ところです。
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郡山城南門外すぐのところに黄檗宗の永慶寺があります。宝永2年(1705)、甲斐(山梨
県)の国主となった柳澤吉保(1658-1714)が山梨郡岩窪村に創立した寺で、はじめ“隠々山
霊台寺”と称しましたが、同5年、龍華山永慶寺と改め、同7年閏8月、壮大な諸堂は完成し
て同月11日に開堂式が執り行われました。のち吉保の子、吉里(1687-1745)が享保9年
(1724)に国替えとなり、永慶寺も郡山へ移しました。吉保・定子夫妻の墓はこのときに武田
信玄廟所のある恵林寺(塩山市)へ改葬しています。山号の龍華山(りゅうげさん)は、地元
では“りゅうげんさん”と呼ばれ親しまれています。寺号は吉保公の法名であります。郡山へ
入った吉里は、享保9年(1724)11月1日、もとの法光寺を“竜華庵”と改号、永慶寺(吉
保)・真光院(定子)・霊樹院(染子)の位牌を安置したの郡山における永慶寺のはじまりで
す。また、山門の土塀のつづきに“浦島太郎の伝説”にでてくる竜宮城を想わせる「竜宮造り」
の楼門があります。長崎の崇福寺ほかにもその類例がみられますが奈良県では珍しい存在
です。これは永慶寺の鎮守、白龍弁財天への門となっています。なお、前城主であった本多
家(忠平〜忠烈)時代、この地には本多家菩提寺の法光寺があったところです。このため永
慶寺前の道を南へ矢田筋に下る坂は「法光寺坂」の古名があります。
写真に見える黒渋塗りの山門は旧郡山城の城門を移築したものといわれています(市指文
化財。)。また、本堂正面の“龍華山”の扁額は、柳澤家四代の藩主保光の筆になり、堂内に
掲げられた“永慶寺”の大扁額は、保山(吉保の致仕(隠居)号)の揮毫になるもので、このも
ととなる保山筆の『額字 永慶寺』が柳澤文庫に保存され、保山公の力強い筆致を今も目に
することができます。
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権大納言豊臣秀長公の墓域。豊臣秀長(1540-91)は天正19年(1591)正月22日郡山城内
で没して、その遺骸はここに葬られました。のちこの墓域を人々は“大ガ塚”、また“大納言
塚”と呼ぶようになりました。
天正13年9月3日、兄秀吉とともに5,000人を従えての堂々の入城からわずかに6年たら
ずの在城でした。秀長は大和、紀伊、和泉の三国で百万石の太守として郡山に入国しました
から、それにふさわしい城郭と城下の整備がおこなわれました。郡山城が今日の規模になっ
たのはこのときだといわれていますし、また、日本三大山城(やまじろ)の一つと称される高取
城(奈良県)を郡山城の詰の城として拡張整備したのもこの時期です。一方、城下町も筒井順
慶(1549-84)の時代に既に形成されていた城下八町(筆者の管見/「城下町百話01◆概説
城下町郡山(上)」参照)に五っの町を加え、自治組織ともいえる「箱本の制」を設けました。
これらの町を「箱本十三町」といいます。また城下繁栄のため大和国中の商売を禁止して郡
山でおこなうようにし、酒造も郡山のほか奈良にのみ許可、さらに城下の町々に独占的特権
をあたえる(紺屋町など)という力強い商業保護の政策をとっています。やがて、この十三町を
基本に枝町が拡張し、これらの町の地子(地租)を免除して優遇したため、郡山の城下町は
急速に発展をとげたのです。
ところが、このような太守の城郭や城下町としては、郡山の町は決して大きな町とはいえな
いという見方があります。それは、在城がわずか数年であったことのほか、のち江戸時代に
確立された大名の居城と城下町という性格とは自ずと大きな差があるからです。くわえて当
時秀長の立場は多忙でありここ郡山にあったのは、恐らく入城のときや茶会など、奈良にお
ける公式行事のほかは、晩年病床にあったときぐらいではなかったかと思われます。このよう
にして秀長は、ほとんど大坂城西ノ丸の屋敷に詰め、豊臣政権を千利休(1522-91)らとともに
側面から支えつづけましたが、やがて病を得て大明秀長は城内で病没しています。
郡山の基礎を築いた大恩人として町衆はその遺徳を偲んで、その墓前に香華が絶えること
はありませんでした。天明8年(1788)3月の没後200回忌には二夜三日にわたって盛大な
法要が営まれましたが、このとき導師を務めたのが高名な慈雲尊者(1718-1804)でした。こ
れは菩提寺春岳院の十四代の韻道律師が慈雲尊者の法弟子であった関係から遠忌法要に
導師として招かれたのです。現在では“大納言奉賛会”を中心に、春季をえらんで毎年4月2
2日に「大納言祭」が町を挙げて盛大におこなわれているのです。(春岳院の項参照)
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祭神は誉田別命・比売大神、気長足媛命。神紋は、「橘」。境内には稲荷神社ほか七摂社
がある。中世の郡山村の鎮守神で、今日の郡山城址より西方の台地に鎮座、周辺に「郡山
衆」と称される郡山中殿、辰巳殿、東、戌亥、南、向井などの地侍が思い思いに館をおいてい
ました。のちこのあたりに郡山城が縄張りされることになって、一旦は城下の綿町に移されま
したが、さらに文禄2年(1593)ごろ、現在地の柳四丁目に勧請されたので柳八幡宮の名でも
親しまれています。郡山城を鎮護する八幡宮として歴代城主の尊崇を受けたため、城下の
人々が寄進した多くの石灯篭には「御城主様御武運長久」の文字が多くみてとれます。古く
から郡山の豪商として郡山藩の掛屋を務めた太田又右衛門寄進の灯篭などもあり、また慶安
四年(1651)の銘がある鬼瓦が見られるなどここはやはり古社なのだと教えてくれます。本殿
は天保15年(1844)改築の一間社春日造となっています。
写真は拝殿正面。境内にはほかに菅原神社など七摂社が祀られています。なお、そのなか
の稲荷のお社のうしろは、今は随分見られなくなった旧城の外堀の土居の一部が残されてい
ますし、神社の鳥居の向こうには、城下四大門の一つ南の入り口にあたる柳町大門が建って
いたところでもあるのです。
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祭神は誉田別命・息長比売命。神紋は、「下り藤ニ橘」。郡山城下の北端で、“塩の庄”
(茶園場)と称された現在の同社御旅所辺りに鎮座したといわれる薬園(やくおん)宮(八
幡神社)は、平安時代に薬園庄の鎮守としてのはじまったとされています。『続日本紀』
(しょくにほんぎ)による奈良時代の天平勝宝元年(749)、東大寺に宇佐八幡神社が勧請
されていますが、平安期に入って東大寺の荘園であった清澄庄から分立した薬園庄が、
その分霊を祀ったとされているわけです。こうした分祀は東大寺荘園に多くみるところで
す。なお、中世には辰巳春次の郡山築城にあたって同社は現在地に遷座されたいわれて
います。
土地の人には“やこうさん”と呼び親しまれています。歴代藩主も城地の鎮守郡山八幡
神社とともに、城下町の古社として厚く尊崇して参詣することを常としていました。本殿は
一間社の春日造ですが隅木が入っているところに特徴があり、桃山時代から江戸時代初
期の再建とみられています。社殿に用いられたふすま絵は、郡山の豆腐町に住んだ表具
師で狩野派の絵をよくした藤田常栄の筆になるもので市指定文化財となっています。ま
た、境内入口にある石灯篭の文字は『近世奇人伝』(伴蒿蹊(1733-1806)著の伝記))に
あらわれる柳里恭(柳澤家の家老/1703-58)の筆になるものと伝えられています。
写真は表門を入ったところから社殿を写したものですが、左側奥に見える千木・鰹木の
棟飾りがある桧皮葺の建物が本殿で、江戸時代初期の再建といわれ貴重な文化財とし
て奈良県の指定になっています。なお、神社境内の奥は旧“郡山城総構え”の南東の角
に当たり、外堀と接していたところで、東隣りの薬園寺前には城下町の東の入口であった
高田町大門が建っていたところです。
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祭神は宇迦之御魂神(保食神)。むかし長安寺村(大和郡山市)の宝誉という僧に、ある夜夢
枕に立った白狐が老いた翁の姿になり、「我を郡山城の巽(南東)に祀ってくれるならば、守護
神となって郡山城を守るであろう。努々(ゆめゆめ)疑うことなかれ!」と啓示を受けたので、宝誉
は豊臣秀長にこのことを述べ、秀長は城内の竜雲郭(*)にこれを祀ったという。のち現在地に
遷座したのは享保4年(1719)のことです。源義経を守った稲荷として正一位源九郎稲荷とい
われ、江戸時代には三大稲荷の一つと称されて、諸国から篤い信仰をうけ、「げんくろさん」の
名で親しまれました。そのためか源九郎狐の伝説が多くのこされていますが、源九郎稲荷が
著聞となるきっかけは、延享4年(1747)大坂竹本座において初演の人形浄瑠璃で演じられた
「義経千本桜」の四段目“狐忠信(きつねただのぶ)”のなかで、静御前の愛用した“初音の
鼓”に皮を張った子狐が、義経の忠臣佐藤忠信(-1186)に化け、静御前を守ったので、義経か
ら“源九郎狐”の称号を与えられるという、虚実皮膜の時代物が大当たりとなり、「菅原伝授
手習鑑」・「仮名手本忠臣蔵」とともに三大名作とうたわれ、歌舞伎にも取り入れられて江戸に
出て中村座で公演されるなど、ちなんでここ源九郎稲荷は大盛況の時代を迎えたのです。
祭りは毎年3月26、27日。以前は盛大な白狐のお渡りがおこなわれていました。のちおと
ろえをみせていましたが、昭和53年、源九郎稲荷奉賛会や青年団体協議会の手によって復
活され、昭和58年からお城まつり(毎年11月3日)の行事としてがおこなわれるようになった
のです。「白狐渡御」の道案内する猿田彦をはじめ、狐に扮した大勢の子供たちの行列が、
今も唄いつがれる「白狐ばやし」にのせて練り歩きます。この「白狐はやし」は、酒井雨虹作
詞、中山晋平の作曲となっています。「♪大和郡山源九郎さんは、戦(いくさ)守りのこんこん
ちきちきなー♪」に三味線などの伴奏がつく実にノスタルジックな曲です。
また、『勝地漫画大和めぐり(第五巻)』(奈良県観光聯合会/昭和11年4月発行)の郡山
の項に「源九郎稲荷神社、保食神を祀る。源九郎判官義経此の神の霊験によりて戦功あり
故に源九郎の稲荷さまとして世に名高し。金魚の飼育は此の附近で盛に行はれ、郡山金魚
の名を輝かし、海外輸出も年々増加す。」と紹介され、また「外国へ振袖を着て嫁に行き 緋
をどしをかたみにのこす源九郎」と物しています。
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郡山城の外堀は、文禄4年(1595)7月、郡山豊臣家断絶のあとを受けて20万石(223000石
とも)で郡山へ入城した豊臣の老臣五奉行の一人増田長盛(1545-1615)が、翌年から総構え
の工事に着手しいます。天正19年(1591)正月、豊臣秀吉(1537-98)が病没してのち、秀吉に
よる“文禄の役”後の世情不安を背景に城下町や武家地を取り囲む外堀が必要となったわけ
です。城下の東を流れる秋篠川の流路を変えて、これを外堀としたり、丘陵地は点在する溜
池を利用して工期の短縮に努め、比較的早期に竣工したのではないかといわれています。そ
の総延長は48町13間(約5.2km/のち50町13間(5.5km))にもおよび、外側に堀をう
がち内側に土居を設けた「かき上げ」の工法で進められたもので、土居のうえには“しとみの
松”などが植えつけられ、人々によって大切にされたのです。「おどえ」と呼び親しんだ外堀の
土居は、町制時代に度々おきた水害のため洪水の原因の一つになるとのことで取り払われ
て、今日ではわずか数か所にその名残をとどめるのみとなりました(「こらむ【目安箱】目安箱】
07参照)。
「外堀緑地」は城下の東側に水路として機能しつづけていた堀の汚濁・埋没などを解消し、
流域下水道の整備を目的として、かつ、修景・緑地化によってイメージを一新して市民の憩い
の場となっています。平成7年建設省の「手づくり郷土(ふるさと)賞を受賞しています。なお、
北側の常念寺裏池から高田口までの南北に長い堀と、広島池はもと秋篠川の流れていたと
ころです。
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真言宗の寺院。もと東光寺と称しましたが、その開基はよくわかっていません。ただし開山
重勢法印が文禄3年(1594)に亡くなっていますのでこれを考えても古い寺であったことがわ
かります。秀長の菩提寺は大納言塚近くの箕山にありましたが、安土・桃山時代の末、旧家
臣であった藤堂高虎の手によって京都大徳寺の塔頭大光院に移されています。東光寺は大
納言秀長の法名にちなんで春岳院と改められて秀長の位牌をあずかり、地元郡山における
秀長菩提寺として郡山の恩人秀長の追福を祈られて今日におよんでいます。ところで、秀長
がおこなった城下町繁栄政策の二つの大きな柱である「地子免除」と「箱本の制」はあまりに
も有名ですが、そのステータス・シンボルとしての朱印箱はこの春岳院に所蔵されているば
かりでなく、豊臣治世を物語る古文書など数多く保存されて貴重な文化財となっています。な
お、春岳院所蔵の豊臣秀長画像は、狩野貞信の筆になるもので束帯姿の凛然とした秀長公
の姿が画かれています。(市指定文化財/大納言塚の項参照)
写真は同寺山門。このあたりはもと新町と中町がありましたがのちあわせて新中町となっ
たところです。「箱本十三町」の中にはない新しい町、町と町の中にある町との名称で、ともに
江戸時代のはじめのころ、枝町として内町に含められた町です。
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街路の真ん中に水路のある町は全国的にもそんなに多くは残っていません。ここは天正の
昔、豊臣秀長が城下に特権を与えて保護政策を講じた「箱本十三町」の一つ、染め物の町
“紺屋町”です。町を流れる紺屋川は、まだ明治の頃には水路を何段かにくぎり、染物の糊を
落として水に晒すために使用されていました。製品を乾燥するため竹の棒が随所に建てら
れ、とりどりの染め物が干してあった、そのような町のようすが紺屋町の風物詩となっていた
ようです。
この水路には、お城の鰻堀、鷺堀から流れる清水だけが取り込まれ、紺屋町や他町で使
われる家庭用の水は町の裏手にある背割り水路に流れるよう工夫されていたのです。といっ
ても紺屋町を過ぎると水路は下流で合流します。少し城下町独特の背割り水路について触
れておきますと、溝の底には砂や石、それに炭が敷き詰められ水質の保全に細心の工夫が
なされていたことは今日あまり知られていないことです。これは標高差の少ない城下町で考
え出された“箱本の町衆”の知恵ということができます。また、この水はやがて下流の柳町・
高田両村の田畑を潤す大切な農業用水として、現在に至ってもこの川の機能は生きつづけ
ているのです。
「箱本館 紺屋」の建物はごく最近まで使用されていた格式のある紺屋さんで「柳宗」を屋
号(奥野家)としました。250年前に建てられた奥野邸は、1999年発掘調査等が実施され、
大和郡山市によって現在のような整備がなされたのです。“紺屋さん”がそのまま資料館と
なっていて、「金魚ミュージアム」・「藍染体験工房」・「多目的展示場」・「観光案内所」など、
多彩な運営が大和郡山市観光協会の手でおこなわれています。ぜひ立ち寄られてはいかが
でしょうか。
[入場料ほか]大人300円/小人100円。多目的展示場は一日につき1,000円。毎週月
曜日休館(月曜が祝日の場合は翌日)・祝日の翌平日・年末年始・その他臨時休館)9時〜
17時まで開館。[0743-58-5531] URLhttp://www.hakomoto.com
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