ナガノが走り出した。
 思わず追いかけようとしたが、イタラがその前に立ちはだかる。

「彼女は...無実です」

「いや、そうじゃなくて」
 足取りがフラフラで今にも足を滑らせそうだから心配しているのだが。
 イタラから見れば、警察官がそういった心配をするなんて思っていないのだろう。まあ、彼女が彼女なりの体験を経て感じ取った評価だろうから、どうとは思わないが。
「なら、あんたが行ってやれ。友達なんだろ」

「言われなくても」

 とイタラが叫ぶ頃には、タツマは背を向けていた。

 メイはというと、プールサイドに引かれた白墨をバケツの水とブラシで丁寧に消していた。

 裸足で、腕をまくって、何が楽しいのか喜色満面に水を撒くその姿は、まるで小学生がプールの掃除をしているようであった。

「あの...また失礼なこと考えてません?」

「気のせいだ」
 靴と靴下を脱いで、荷物の横にでも置いておく。
 綿パンの裾を捲ってから、メイのブラシをかっぱらった。
「で、アフターケアというやつはもう終わったのか?」

「いえ」

 魔法陣を象っていた白墨は、やはりただの白墨らしく擦れば簡単に消えた。

「普通の白墨チョークなんだな」

 考えたままのことをそのまま言う。

「ええ、魔法陣は術者が認識できさえすれば良いものですから」

「認識」 またわけのわからないことを言う。

「つまり視認です。そもそも魔法陣とは象形化された源語を形而上的に配列、外部保存することで、途中計算の簡略化を――」

「わからん」

 ごしごし。

「...ええと、理科や算数のテストとかで問題を解く前にあらかじめ周期表とか使いそうな数式を書いたりしませんか? それと同じです」

「どこの理科と算数なんだ...」

 あごをしゃくる。
 あわてて、メイがバケツの水をひっくり返す。
 盛大に撒くものだから、裾にかかってしまったのだが、タツマは気づかないふりをした。

 もう一度モップをかけ直して、切り出す。

「あの後、すぐにヤナシは死んだんだな」

「はい」

「そうか...」
 白墨は、水に溶けて跡形もなくなっていた。
 メイがバケツの水を汲むために、プールサイドに腰を下ろした。
 その蒼い後ろ髪に、タツマは訊いた。
「で、あの手は誰の手だったんだ?」

――頭を掴み、左目に食い込む、右手の親指。

「ナガノさんではありません」

 それは、答えを言っているのと同じであったが、タツマは無言で通した。

「そうか」

 所詮、終わった話だ。
 タツマには、話を蒸し返すだけの権限もなければ、権利もない。

 不意に、メイがバランスを崩したのか、わたわたと手を振って暴れた。
 びっくりして手を差し出す、タツマ。
 掴んだ細い手が、ぎゅうと握り返す。
 目をあわせると、メイはどこか人の悪い笑みでこちらを見ていて、

――次の瞬間には、まるで魔法のように力が抜けて、水面へと放り出されていた。
 水の立つ音。
 水面に浮かんだタツマの上を、くるくるとデッキブラシが通り過ぎる。
 空には真夏の太陽と、微かに蒼い二つの月。


BackstageDrifters.