やがて、視界に異変が起きる。

 いや、何も起きなかったと言うべきか。
 ヤナシの視点は、プールに沈み込んだままいっこうに変わる気配がない。
 青い壁面に引かれた白いラインが、薄暗い中でボンヤリと光っている。

 息が漏れた。
 その息を慌ててかき集めようとして顔の前を、手がもがいている。

 ヤナシの視線に介入しているタツマは、ただそれを冷静に見る事しかできない。

 手がさらに顔の前を動き回る。
 それは、自殺しようとする人間の行動としては見苦しい、
生にあがくものの姿だった。

「なんだって...じゃあ」

 だが、ヤナシの視点はいっこうに浮上しない。
 必死に腕を掻いて上がろうとしているのだが、その度に逆に沈む力が掛かって沈んでしまう。
 足が攣って溺れている人間の視界とはこう言うものだろうか。

――不意に、右手が顔面を掴んだ。
 息が出来ぬ苦しみに呻く。水が気管を無理矢理に流れていく。
――親指が左目に食い込んだ。
 喉が締まる。噎せて、息がまた逃れていく。いやだ、生きたい...
――だけど、かなわない。

「いやああああああああああ!!」

 叫び声に、タツマは正気を取り戻した。

 意識が、一瞬で水の底からプールサイドへ戻される。

 夜は一瞬で昼間に転じ、急激な目映さで視界が白に塗りつぶされていく。

 とたん、空気の存在を思い出したタツマは、狂ったように激しく咳き込んでその場に転んで、のたうち回った。
 息という息を吐ききってようやく息を吸い、そしてまた吐き出す。
 まるで、その一瞬だけ呼吸の仕方を忘れかけていたかのような反応だった。

「だ、大丈夫ですか、タツマさん?」

 メイが心配そうに声をかける。
 杖は既に光を失っている。術が終わったのだろう。

「君、出来ればもうちょっと早く引き上げてくれ...」

 他人の死を追体験したショックで、タツマはもはや立つ気力すら失っていた。湿気を帯びたコンクリートに綿パンが濡れるのにも構わずへたり込んでいる。

 横を見れば、イタラも青ざめた顔で似たような有様だった。

 ナガノはと言うと、気絶でもしているかと思ったが、意に反して一人だけ気丈に立ちあがっていた。


BackstageDrifters.