二章:「宿」
逃げるか、と考える間も無く、男――トーナーと言ったか、そいつの手によって扉が閉じられる。
「おっと、逃げるなんて言わねえよな」
あんなに硬かった扉がすんなり、だが金属の擦りあう派手な音を立てて閉じた。
「荷物がまだ残ったままだ」
憮然として言う、
「気張るなよ。お友達は逃げたみたいだぞ」
扉に背を持たれかけて、トーナー。
「友達なんかじゃない。失礼な」
(あの、オ・オ・バ・カ・野・郎〜!)
シャアラのコメカミに青筋が浮かぶ。
(尻尾巻いて逃げやがったな〜!!)
あれだけ付きまとっていたくせに、トンズラこきやがった。
藁より軟弱な奴だ。
もとよりかけらも期待はしていなかったが、それでもミジンコほどにはすがる思いだったというのに。少しでも頼った自分が恥ずかしい。
とつぜん、重たい衝撃が横頬で弾けた。
腐って所々毛羽立った床板に這いつくばる。
殴られたのだと、そこで理解する。
「まずは、昨日の礼だぁ。これぐらいで死ぬなよ」
まだ大丈夫。前髪をつかまれ、持ち上げられようとまだ大丈夫だ。
これぐらいなら、村の喧嘩や牛の相手で慣れている。
つかんでる部分が、昨日髪が抜けたところと言うのが気になるが、まだ動くタイミングじゃない。禿げんかな。
「なんだ、マジで女みたいな面だな」
ほっとけ。
「けけ、売り飛ばしちまうか?」
残りの二人の一方から野次が飛ぶ。
「え、どうやって?」
「馬鹿、田舎もんなんだから、そう言やびびるんだよ」
「でも俺ら狩人だぜ? そんな闇商売みたいなのと縁ないし」
「だからぁ。田舎もんなんて、どうせ俺らみたいな強持ての奴らをヤクザと一緒くたにしてるに決まってるんだから、嘘だなんてばれねえんだよ」
「あ、なるほど。お前頭いいな」
いや、まあさすがにハッタリだと言うことぐらいわかるのだが。
漫才の最中も髪をつかまれていて、痛い。
「...いいから、お前らもう黙ってろ」
トーナーが呆れた様子でぼやく。
前髪から襟首へと掴みなおして。
「まあ、そうだな。あいつの言う通り、俺らは大通りに胸張って歩ける程の、まっとうな狩人だ。俺はただちょっと、この目の治療費をいただこうって話だ。
なあに、たいした額じゃねえ。貧乏人の坊主にも払えるだろうよ。
あとは、心がけだ。しだによっちゃ手荒い真似はしねえよ。」
誰が坊主だ、誰が。
「まっとうだって? まっとうな人間が、なぜウチの泊まっている宿を見つけて待ち伏せなんかできるんだ?」
「俺らぐらいになると、困ってるって噂を聞いただけで、ほっといても恩を売りにくる奴らがいるんだよ」
ふと、視線を感じてカウンターの方を向く。
小太りの中年――この宿の主人が、ひっと声を上げて奥に引っ込んだ。
あれが、噂を聞きつけて密告したのか。まったく大した馴れ合いだ。
「...虫唾が走るね」
まるっきりヤクザだ。
「なら昨日みたいにゲロブチ撒けるか? 手伝ってやるぞ! ほらっ!!」
鳩尾に膝がめり込む。目の前の視界が広がったり縮んだりした。
咳き込んでのた打ち回る。
その腹に蹴りが入る。昨日と同じだ。
熱い鉄分混じりの唾のような物が、喉から搾り出た。
「――っがっ!」
まだだ、まだ耐えろ。大丈夫、どれもこれも深刻なダメージじゃない。
これで向こうの気が晴れるならよし。
実際悪いことはしたのだ。
――眼帯は嘘っぽいが。
BackstageDrifters.