屋敷中の空気を餌にして、ばら撒かれた油の上を伝い走った炎は時折爆発したり、
調度品を真っ赤な舌で舐め回して、崩壊させたりしながらどんどん成長して行く。
屋敷の中の空気だけでは飽き足らず、窓ガラスを熱して弾き飛ばし、空気を外に求めてその炎は触手の様に渦を巻いて吹き上がった。
サンジとゾロがその屋敷の前に辿り着いた時には、屋敷の外壁の側でさえ、
輻射熱で頬の皮膚が焦げそうな熱さを感じるほど、炎は屋敷をくまなく飲み込んで、
激しく燃えていた。
その様を見て、二人とも一瞬、息を飲む。
「ケイ・・」とサンジは愕然として、小さく呟いた。
そして、大きく息を吸いこんで、ゾロの知らない女の名前を呼び捨てで叫んだ。
「ケイ!」叫ぶなり、駆け出す。
ゾロが「待て、」と呼び止める間もなかった。
だが、ゾロはすぐにサンジに追い縋り、固く閉ざされた扉にサンジが辿り着くまでに
サンジの腕を引っ掴む。
「ダメだ、扉を開けた途端、爆発する、もう建物も崩れ始めてるっ」
「離せ、見殺しに出来ねえっ」
ゾロの言う事は正論だった。
扉を開ければ、内部を焼き尽くしている炎に向かって、外気をふいごの様に
送りこむ事になり、一気に火勢は増すだろう。まして、もうこの大きな建物は、内部で
天井が焼き崩れたり、柱が焼き折れてバキバキと凄まじい崩壊の音が燃え上がる
炎の爆音ととともに聞こえている。
中に入って、どこにいるかも判らない人間を渦巻く炎の中から助け出すには既に
手遅れだ。
だが、ゾロの言葉になどサンジが耳を貸す訳がなかった。
目の前に炎に巻かれている屋敷があり、その中に知り合いが間違いなく取り残されていると知っていたなら、誰でもそんな反応が当たり前だ。
だからと言って、腕を掴んだ手を離せば、サンジは炎の中に突っ込んでいき、
間違いなく、巻き添えを食う。
腕を力任せに掴んだら、折れてしまう。そう思ってゾロはサンジを羽交い締めにし、
「止めろ、焼け死ぬだけだ!」とサンジの耳元で怒鳴った。
「離せ、クソ野郎!」とサンジは、死に物狂いでゾロを振り解こうと大暴れし、大声で
わめくが、腕力はゾロの方がはるかに強い。いくら暴れられようと、わめかれようと、
ゾロは腕の力を絶対に緩めない。
(このバカ力)ゾロはギュっと唇を噛んだ。
並の男なら片手1本でも簡単に押さえ込めるが、サンジは細身でも並の男より
はるかに脚力がある。蹴り技のバランスを取る為に全身の筋肉がまんべんなく鍛えられていて、そのサンジが大暴れしていては、ゾロもそう容易くは押さえ込めない。
(クソッ)ゾロは一瞬、腕の力をわざと緩める。
暴れ狂って力が入っていたサンジの体がその瞬間、バランスを崩した。
ゾロはすかさず、サンジの襟首を左手で掴んで強引に引き寄せる。そして、同時に
右手を引きつけて、咄嗟の事でゾロの腕力に引き摺られたサンジの腹部ががらあきになった瞬間を見澄まし、右の拳を鳩尾に叩き込んだ。
「ぐっ・・・」小さく、サンジの喉が鳴ってその全身の力が突然、抜ける。
ゾロは崩れ落ちるサンジの体を抱き支えた。
ゴウゴウと炎が勢いを増す音、バキバキと凄まじい建物の内部が焼き落ちて行く
轟音、全身を焦す程熱い輻射熱に、ゾロは躊躇さえ出来ない。
建物が崩壊する時の爆風に巻き込まれたら、それと一緒に吹き上がる炎に飲まれる。
サンジを抱えたまま、建物の側から出来るだけ遠く駈け去ろうと走り出す。
ひときわ大きな爆音がし、輻射熱も、そして炎が作り出す真っ赤な光源の強さも
増した時、ゾロは振りかえる。
屋根を支えきれなくなった壁が崩壊し、そして、ほぼ同時に屋根の一部から炎の
先端が見えた。その途端、屋根はゾロが瞬きする時間よりも早く、紅蓮の炎に包み込まれ、見る見るうちにボロボロと焼き崩れて行く。
(あの中に入ってたら)とゾロは息を飲んでその光景を意識のないサンジを抱きかかえ、
地面に膝をついて見つめた。(間違いなく、死んでる)そう思った時、どうにか
黒焦げになり、それぞれの窓ガラスから炎を吹上げながらも、外観を保っていた屋敷が
ぐらりと揺れ、それをゾロが目で捉えた刹那、耳を劈く轟音と共に崩壊する。
(目を醒ますな)その音が意識を引き戻さない様、サンジの耳に聞かせまいと、
ゾロはサンジを抱く腕の力を強めて、向日葵色の髪の間に覗く耳の、
片方は自分の胸に押しつけ、もう片方は頭を掻き抱いている掌で覆った。
意識のないままのサンジを肩に担いで、ゾロは言い表せないやりきれなさを
痛感しながら宿へと帰る。
(こいつ、目を醒ましたらどんな面で俺を責めるんだろうか)と考えると、
自分の出した決断も、それ故に取った行動も何ひとつ、後悔はしないが、
それと、このやりきれなさは別問題だ。こんな複雑な感情をゾロは初めて体験する。
自分の行動に後悔はしていない、と言いきれるのに、胸の中が重たくて、
少し息苦しい。何故、こんな後味の悪い感情が自分の心の中にあるのかを
考えて、そしてその答えをゾロは宿の入り口をくぐった時に判った。
サンジの苦しくて辛くて、それを抱えて哀しい顔を(また、見なきゃならないからだ)
サンジの抱えている苦しさや辛さは、空気に滲んで、側にいるだけでゾロの心にも沁み込んでくる。それを取り払う為に自分に出来る事が一体なんなのか、ゾロには
まだ見つけられない。
(畜生・・・)ゾロは自分の無力さが無性に歯痒かった。
こんなにも、惚れている相手、その相手が苦しくて喘いでいても、何をどうすれば
いいのか考えつかない程、頼りなくて、弱い。そんな自分を知るのも、ゾロには
初めての経験だった。
もう、夜も更け切っていて、誰も起きてはいなかった。
静かに足音をひそめて、自分達の部屋の扉を開く。
そっとサンジをベッドに横たえた。
仲間の誰かが気を利かせたのか、ベッドの側にある小さな電灯だけが灯っていて、
部屋の中は薄暗い。枕元から胸元あたりまでが優しく温かな色合いの光りが
届く範囲だった。
少しでも楽に、と考えてゾロはサンジのシャツのボタンを二つ外す。
そして、二つ目のボタンを外した時、その指の動きが唐突に凝った様に止まった。
(なんだ、この痣は)とゾロは息を飲む。
赤く、鬱血した跡は虫刺されなどではなく、ところどころには明らかに人間の
歯型らしき跡さえか細い電灯の灯りでさえ見て取れた。
バラバラだったパズルが一息に組み上がるように、ゾロの頭の中で
今まで、理解出来なかったサンジの全ての言動の意味が繋がって、
サンジの身になにがあったのかをゾロはその時、初めて悟った。
「お前、・・」搾り出すような声、それでもゾロはサンジの閉ざされた意識を
呼び起こさない様に囁くほどの小さな声を苦痛を伴って絞り出す。
サンジが自分と違う誰かに肌を晒した事、でもそれは絶対にサンジの意志ではない。
真っ青な顔でベッドの側にうずくまって、
「近寄るな」と怒鳴り、そして、
「お前には関係ねえ事だ、俺は寝てえだけだ、出ていけ」と叫んだ、その時、
サンジは一体、どんな気持ちだったのか、とゾロは拳を握り締めた。
女が男の体にこんなに大仰な跡を残す訳がない。
そして、サンジがあれほど取り乱していた事から考えると、
間違いなく、相手は男だ。
「なんで何も言わねえんだ」と心に溢れる気持ちがそのまま言葉になってゾロの
唇から絞り出てくる。
「なんで一人でそうやって抱え込むんだ」と悔しさが込み上げてきた。
哀しくて、腹が立つ。
他の誰にも言えなくても、自分にだけは何もかも全て晒して欲しかった。
サンジにとって、自分はこの世の中で唯一、たった一人と言う存在の筈だと
思い込んでいた、思い上がりにゾロは唇を噛み締める。
弱さも、苦しさも、他の誰にも受けとめられないものをこそ、受けとめる為に
側にいる、それをサンジは判っていてくれるものとゾロは疑っていなかった。
ゾロが今、感じている感情を単純な言葉に言いかえれば、それは「悲憤」だった。
サンジの苦しさを感じながら、為す術のない自分に対して憤り、
誰よりも信頼し合い、誰とも違う確かな繋がりを持っている筈が、その繋がりなど
独り善がり以外の何者でもなかったと気づかされた事に対して切なくて、悲しくて、
そして、サンジにそんな苦しみを与えた、身も知らない男に対しての憎悪がゾロの
体の中に渦巻いている。こんなに沢山の感情を心の中に抱える事もゾロにとっては
生まれて初めてだった。
それでも、サンジを大事に想う気持ちは少しも揺るがない。
むしろ、尚更、自分に出来る事を見つけたいと言う気持ちが強くなってくる。
どんなにサンジに責められても、答えは一つだけしかない。
名前も顔も知らない人間の生き死になんかよりも、守りたいモノがある。
俺は、それを守っただけだ。
ゾロはそんな言葉を心にしっかりと握って、静かにサンジが目を醒ますのを
見守った。
「・・・ん・・・」とサンジの喉からくぐもった声が漏れ聞こえた。
苦しげに少し、身じろきをし、ゆっくりと重たそうに瞼が開く。
焦点が合わないのか、それとも、細い灯りの光さえ瞼の作り出す闇の中にいた
瞳には眩しかったのか、サンジは瞬きをする。
ゾロは固唾を飲んでサンジの一声を待った。
数秒、サンジは天井をただ、天井を見上げている。
ここはどこだ。
なんで俺はここにいる?
などときっと頭の中では色々な事項が次々とサンジの思考の中を走っているのだろう。
無表情なままで、サンジは沈黙していたが、やがて、その表情がはっきりと
強張り、すぐに飛び起きた。
「火事は?屋敷が燃えて中にまだ・・・っ」
「お前、俺を気絶させたな?!なんでそんな」
頭の中に思い出した映像と事柄がきっと、サンジの頭の中で目まぐるしく再生されたに
違いない。吐き出した言葉はサンジらしくもない、取り乱して言いたい言葉が
同時に飛出して混同し、どちらも明確な意味が途切れてしまっている。
「もう、今更騒いでも遅エ」とゾロは逆に落ち着き払っている。
「それより、説明しろ。その体の痣はなんだ」
「あんな火事の真っ只中に突っ込もうとしてまで助ける気だった女はお前のなんだ」
目が醒めたらどんな風に対処するか、ゾロは理路整然と考えていた訳ではない。
腹に括った、ただ、お前を失いたくなかったと言う気持ちさえあれば、
どんな感情をぶつけても、必ず分り合えると信じて、ゾロは口火を切った。
1度口に出した言葉は取り返しがつかない。
ゾロの言葉を聞いて、サンジの表情が瞬時に凍った。
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