「幸せ」と感じる尺度や事柄は人それぞれ違う。
端から見て、どれだけ不幸に見えても、本人はその不幸の中でも一条の光を見出し、
生きる喜びとしている事もある。
サンジは、ケイを送り出してから宿の外に出て、煙草をフカしながら考えた。

「さようなら」とケイは言い、去って行った。
義足で歩く後姿は、ほんの欠片ほども幸せを感じさせない。
(あの子はなんの為に生まれて来たんだろう)とその小さな背中が瞼に焼き付いた。
それでも、もう、彼女に出来る事は何もないし、本当にもう2度と、彼女らには自分の人生に関って来て欲しくは無いとサンジは思う。

そんな事をぼんやりと考えていて、側にゾロが佇んでいた事にサンジは全く気が
つかなかった。

「何か用か」とゾロの存在に気づいた時すぐにサンジはゾロの方を見向きもせずに
そう尋ねた。「別に。何を聞いても関係ねえしか言わねえんならもう何も聞く気は
ねえ。ただ、」ゾロはサンジが凭れていた石壁に少しだけ離れて並んで同じ様に凭れる。
そして、沈痛な口調で静かに言葉を溜息の様に吐いた。
「ここにいてえだけだ」サンジはその言葉を聞いて、何故か胸が締め付けられた。
宿の裏手の人通りの少ない路地裏の壁に凭れていたい、と言うのではなく、
ゾロはサンジの側にいたい、と言っている。
そんなゾロの優しさに向かって、(何もかも、ぶちまけちまいたい)と
サンジは自分の靴先の割れた石畳を見ながらそう思った。

腹の中にある苦しい事、その理由を全てゾロに話してしまったら、
胸の中が痞えて苦しい呼吸が楽になるだろうか。そう、自問自答してサンジは
その答えを否定する。
(言えるワケねえだろ)とサンジは唇の替わりに煙草の端を噛み潰す。
自分の汚された過去を話して、同情されて、労わられて、いや、それよりも、
男として、幼い時分から男の性欲の吐け口にされていたことを知られ、そしてもしも、
蔑まれたらと思うと、サンジにはゾロに真実を何一つ伝える勇気がなかった。

「私は色々なモノと戦わないと幸せは勝ち取れないんです」
「私には最初から、戦う力がなかったんです」
自分には勇気が無い、と自覚した時、サンジの頭の中にケイの言葉が蘇る。
そして、(俺も同じだ)と溜息をつく。

早くこんな島から出て、たくさん時間を重ねて、さっさと忘れてしまいたいと
思えば思うほど、幼い頃の記憶と陵辱された体に残る気だるさを鮮明に思い出してしまう。どうすれば、楽になれるかを考えて見ても、何一ついい案は浮かんで来ない。

側に来るなと言う言葉をゾロが素直に聞き入れてくれないのなら、言うだけ無駄で、
サンジはもう、ゾロが側にいる事を拒否はしなかった。
体のどこも触れていないし、言葉一つ交わさなくても、ただ、側にいる、と事が
邪魔だとは思えなくなってくる。せめて、楽に息をしたくて、言葉には出さず、態度にも出さないまま、サンジは心の中だけで、ゾロに話し掛ける。

それだけで、少しは楽になれるとサンジは本気で思った。

ホントはお前にこんな風に優しくされる値打ちなんかねえ
可哀想な女の子一人、助けてあげる事も出来ないどころか、
自分の傷の痛さに竦んで動けねえんだから

それでも、俺はこうしてお前が隣にいてくれるだけで安心してる
俺は彼女よりもずっとずっと幸せだと 安心してるんだ
俺は傲慢で、卑屈で、小心者だ

サンジは自分で自分の気持ちを見据えた。
どんどん自分の身勝手さが浮き彫りになって行くのを感じ、そして、
それは素直にゾロを想う、単純な言葉になってサンジの心の中に漂い始める。

自分がどれだけ穢れていようと、変えられない想いがある。
どんなに身勝手でも、消せない気持ちが確かにある。

(俺は苦しい事がある度にどんどんお前が好きなる)、
そんな言葉が自然にサンジの心に浮かんだ。凝った空気の中にさえ、ゾロの温もりを
感じ取りたいと意志ではなく、まるで本能の様に願い、サンジの瞳は、
ゾロの横顔を見つめ、耳はゾロの呼吸の音を拾う。

端正な横顔には、一片の穢れなどない魂が宿っている。
迷いも躊躇いも、嫉妬も下らない見栄も持ち得ず、ただ、高みを目指す事のみだけで
創られている、なんの混ざりけの無い宝石のようにそれは輝いて、ゾロを内側から
照らしている。だから、今、サンジの目にゾロはとても眩しく映る。
そして、また、その光りから目を逸らす様にサンジは目を伏せた。
蔑まれても、労わられても、今まで仲間として築いた関係の上に
少しづつ積み上げ始めた新しい礎が崩れてしまいそうで、それを怖いと思うのに、
それなら、(俺は一体エ、こいつになにを求めてんだろう)とまた自分の心に問い掛け、
(俺には、こいつに何かを求める権利はねえ)と答えを出す。
卑屈になって、湿った影に心も体もまとわり付かれた自分には、ゾロは眩し過ぎる。
サンジはそんな事を考えながらも、ゾロの側から立ち去る気にもなれなかった。

端から見れば、男が二人、黙ったまま壁に凭れているだけの光景だが、
サンジの心の中にも、ゾロの心の中にも、口に出したくても出せない
たくさんの言葉が語られている。
音に出来ないその言葉を理解しあえるには、二人にはまだまだ、時間が必要だった。

ゾロは、サンジの様にうつむくのではなく、前を向いていた。
目は開いているけれども何かを見るつもりではなく、視覚への集中力は全て、
サンジの素振りや息遣いを感じる為にかなり削がれている。
言葉で"なにがあって、何が苦しい"、と聞いて、
その質問にサンジが言葉で明確に答えてくれたなら、心臓の辺りが重い、
こんな感覚を感じる事はなかったに違い無い。

(こいつのこんな面を見るのは辛エ)とゾロは、それだけを思う。
自分以外の人間が辛いと思う事を、その原因も理由も判らないのに、同じ様に
辛いと感じるのは、生まれて初めてだった。
肉体的な苦痛には、はっきりとした原因がある。けれども、精神的な苦しみには、
複雑な事柄がたくさん絡まっていて、半端な同情でそこへ踏み込んでも
なんの解決にもならない。どうせ、何も出来ないのなら最初からそんなお節介は
焼く必要はない、と今までのゾロならそう言えた。

けれど、今は違う。お節介だ、余計なお世話だと言われても、
サンジの顔をこんなにも曇らせている事を見過ごせない。何故なら、そんなサンジの顔を見るのがゾロ自身も辛いと感じるからだ。
行動を起こしてその障害を排除すれば、自ずとどんな苦しみがあろうと
解決できる、とゾロは今まで信じてきた。そんな単純なやり方しか知らなかったから、
今、何も言わずに苦しみを抱え込んでいるサンジの側にいても、
ゾロには何をすべきなのか、全く判らない。だからと言って、なんの行動も取らないで見守る余裕もない。
それほどに、ゾロの胸も鉛が詰まっている様に重くて、それが辛くて、
側にいても離れていてもそれが同じならせめて、サンジの息遣いが聞こえる場所に
いたいと思って、動けずにいる。

どれくらい、そうして黙って時間を過ごしたのか、ゾロにもサンジにもわからない。
サンジは何本目からの煙草を箱から抜き取ろうとして、その箱が空になっていた事に気が付き、忌々しげにその空箱を握りつぶした。クシャ・・と言う、サンジの掌に
押し潰される箱がたてた小さな音が、二人の耳に久しぶりに音を聞いた様な気にさせた。
サンジが潰れた箱をポケットにいれた時、
「お、こんなところにいたのか」とウソップが宿の裏口から顔を出した。

「サンジ、さっきお前を尋ねてきた客、忘れ物したんだと」
「それ、届けて欲しいって宿の人が言ってるぞ」

そうウソップに言われて、サンジは眉をひそめる。
「判った」と口では言うが、そんなもの、途中で適当な誰かに言付ければいい。

もう、ケイに会うのも、ケイの屋敷に行くのも、サンジは嫌だった。
「これが忘れ物だ」とウソップから渡されたのは、上着だった。

まるで、ゾロはサンジの一部にでもなったかのように、サンジの歩く道を
一緒に歩いてくる。

「付いてくるな」と言っても、きっとゾロは「俺は俺の好きにする」と言って
付いてくるのだから、サンジはまた何も言わずにゾロの数歩先を歩いて、
ケイの家に向かう。

(なんだ、この匂い・・・?)とサンジは俯き加減だった顔を上げた。
もうすっかり暮れきった紺色の空の、建物が立ち並んだ不規則な影の裾が
やけに赤く色づいている。

息をする度に嗅ぎ取れるのは、物が燃える匂いだ。

(まさか)サンジは後のゾロを振り向く事もなく、いきなり走り出す。
そして、ゾロもなんの躊躇いもなくその後を追った。

ケイはサンジに薬を届けた。そのほんの少し前の事。

「もう一度、あの子をなんとか招待したいものだね」と兄は言って、ケイを細い目で
意味ありげに見つめた。「お前が呼んでおいで」
一見、優しく、ケイを慈しみ、愛して、包み込むような表情に見えるその表情の
奥にケイははっきりと兄の醜さを見て取った。

(可哀想な兄さん)と思った。
たくさんの人を傷つけても、傷つけても、足りずに誰にも理解出来ないなにかに
飢えて喘いで、どんどん醜く、汚れて行く。
堕落しきって、穢れや罪にまみれたこの憐れな兄を心から愛して許してくれる者など
誰もいない。
(私以外は)とケイは思った。
サンジを呼んでくる、と素直に答えた振りをして、ケイは兄の目の前でわざと
床に転んだ。自分の欲望を満たす為にケイを使う時、兄はケイを本当に大事な
玩具のように優しく扱う事をケイは知っている。

「大丈夫かい」と差し出された手をケイは握り返した。
兄から送られた毒針のついた指輪を嵌めた手で。

サンジの様に、また、数えきれないほど陵辱し、兄が傷つけて汚して来た、
向日葵色の髪と蒼い瞳の人々の様に、兄もその毒の所為でぐっすりと眠っている。
かつて、自分が眠らせて得物を横たえたその寝床の上で、静かに寝息を立てていた。
その手をケイはしっかりと握り、そっと頬に押し当てた。
そして、耳元で囁く。
「私は最期まで兄さんといくわ」
「兄さんは私だけのものよ」
「もう、兄さんは誰にも触れないの」

兄が乱暴の末に殺めてしまった人を焼いた事があった。
その為の油がまだ、ケイの屋敷にはたくさん残っていて、ケイは兄を眠らせた後、
それを全部、屋敷中に撒いた。

そして、ケイはゆっくりと自分の手に毒針のついた指輪を嵌めた手を重ねた。
深い眠りに落ちる数秒前に、最後の力でマッチを刷った。
小さな火が着いたそのマッチはポトリと寝床の下へと落ちる。
そして、炎は床を舐める様に一気に屋敷中に走った。


トップページ   次のページ