動物の母性本能と言うのは、時として、人間の理解を超える。

我が腹を痛めた仔ではなく、むしろ、違う容姿、違う種族の仔であっても、
我が仔として慈しむ、慈愛に満ちた母親として育て上げる事がある。

例えば、虎の仔を犬が育てたり、犬の仔を猫が育てたり。

どんな理屈でそうなったのか全く判らないが、クロがs−1に与え子猫の
母親は、不思議な事にS−1を自分の子供だと思ったらしい。

目も見えず、耳も聞こえず、生まれたばかりの赤ん坊と同じ状態のS−1に、
「守ってやらねば」と言う本能を刺激されたのか。

S−1のシャツを口で引っ張って、どうにか自分の側へ寄せよう、としたり、
乳を飲ませようと目の前で寝転がったり、もう一匹の子猫に注ぐ愛情と
変わらない態度で、S−1に纏わりつくようになった。

その所為なのか、猫の親子が側にうずくまって眠ると
虚ろに開きっぱなしだった眼を閉じて眠るようになった。

S−1に触れようとクロが近付くだけで、母猫は毛を逆立て、
歯をむき出し、爪を立てて歯向かう。
以前なら、そんな事は例え、畜生と言えど絶対に許せなかった。

だが、今は、この猫に癒してもらうしかS−1の心を取り戻す方法が判らない。
「こいつは人間だぞ、」とクロは猫に引っかかれた手の傷を擦りながら
そう言って、そして、自分の言葉に苦笑いする。

一度だって、俺を人間として扱わなかった癖に。

そんなS−1の声が聞こえるような気がして、S−1の顔を眺める。
どこも見てない眼、閉ざされた唇は変わらず、頑ななままで、
ただ、猫を膝の上に乗せて人形のように座っているだけだった。

クロの船団はいくつもの海賊達の連合で形成されている。
もしも、クロに二心を抱き、良からぬ策略を画策したりすると、それが発覚したら
その海賊団全員が嬲り殺される。自分の仲間の中で一人でもクロに歯向かったら、
全員が一蓮托生だ。
だから、もしも自分達の仲間の中でそんな事を言い出した者がいたら、
その船の中、個々の海賊達の中で秘密裏に処理される。

だから、今まで誰もクロに叛意を持ち、それを実行する者はいなかった。
いたとしても、仲間内で殺させ、隙を見て、その仲間達全員を殺してきたからだ。
それでも仲間になりたいと言ってくる海賊が後を断たないのは、クロの海上での
戦闘での布陣、戦略、勝運を見極める決断力、それに付き従っていれば、
自分達だけで細々と海賊をやるよりもずっと美味い汁が吸えるからだ。

「そろそろ、見限りましょう。」と言う話がある船の中で行われている。
「お頭はフヌケになっちまった。あの、拾いモノの玩具に夢中だ。」
「今なら、莫大な手切れ金を貰って、その上、」
「お頭の首を海軍に突き出せば。」

失敗したら、全滅させられる。
だが、今なら、とその新参者の海賊は言った。
「その玩具を人質にすれば、簡単に言いなりになりますよ。」

「トレノ、お前は、お頭の怖さを知らないから、そんな事が言えるんだ。」とその船の
船長は言い出した、背の高い新入りの顔を苦々しい顔付きで見てそう言った。
「事情を聞けば、もう、その玩具の前で人を殺すような事はしないでしょう。」
「このままだと、いつまでたっても、我々はしんがりで、アガリの少ない立場に
甘んじてなけりゃならない。それに、いつ、見殺しにされるか判りませんよ。」

言葉巧みにその男は海賊を煽った。

クロは出来るだけ、風に、波音に触れるように、今まで閉じ込めきりだった
S−1を外に連れ出す。
「少しでも刺激を与えた方がいい、」と船医がいい、抱き上げて連れて出ると、
どこへでも、まだ歩けない子猫を口にくわえた母猫がついて来た。

「頭、ドクターがいい薬があるから、飲ませたい、と仰ってますが。」と部下がクロを呼んだ。
「すぐ、行こう。」とクロはS−1を抱き抱えたまま、腰を上げる。
「ドクターの部屋へ。」とその男に誘われ、クロはなんの疑いも持たずに、
医務室に向かった。
ドアを開き中に入る。

「ドクターは部屋に薬を取りに行ってます。」とそこにいた部下の一人がそう言った。
「そこへ寝かせてください。」とS−1を横たえるように指示した。

クロがS−1を診察台に横たえた。その体の上にふわりと猫が飛び乗る。
途端、「お頭ア、」と医者の手伝いだとばかり思っていた数人の顔付きが変わる。
猛々しい、明らかに敵意剥き出しのその顔付きにクロは瞬時に「猫の手」を身につける。

「取引しましょうや。」そう言って、男の一人がS−1の首根にナイフの切っ先を
突き付けた。

「そんな事をして、貴様ら、ただで済むと思っているのか。」と
クロは低い声を出す。
全身に流れる血が沸騰しそうな気がした。

「こいつの前で、俺達を殺しますか。」とナイフを持っている男はクロに向かって
挑むような目つきを返す。
「そんな事をしたら、もう二度と正気には戻らないんじゃないですかね。」

「俺達に手切れ金を出して下さい。1億ベリーだ。」
「嫌だと言うなら、あんたがこんなに夢中になった体を十分、味わった上、」
「こいつを貰う。」

S−1を殺す、とは言わないのは、S−1を殺せば間違いなく、自分が
殺されるとわかっているからだろう。

S−1の首もとのナイフは、ピリピリと音を立てて服を裂いて行く。
腹の上の猫がどんなに威嚇しても男は全く動じない。

「止めろ。」そう低く凄んだクロの眼が血走る。
そこにいた全員が殺されると思った。

だが、クロの脳裏にS−1の必死で叫んでいた声が響く。
「俺、なんでもするから。」
「二度と逃げようなんてしないから、二人を殺さないでくれ。」
「俺を殺せよ、もう、さっさと殺せよ!」
「お前なんか、大嫌いだ、こんなトコで生きてくくらいなら死んだ方がマシだ。」

あれ以来、虚ろに見開かれた目は、本当に見えていないのか。
冷たいままの掌は、本当になんの感触も感じないのか。

もしも、見えていたら、もしも、返り血の咽かえる生臭さを感じたとしたら、
S−1はどうなってしまうのか。
それを考えるとクロは動けない。歯噛みをするほど、悔しく、憎悪と怒りで
全身の血が煮えたぎるような気がする。

「金はくれてやる。」
「そいつから離れろ。」とクロは声を絞り出す。

離れた途端、殺してやる。

そう思っていた。
「一億ベリーを俺達の船に運んでください。」
「それまでは、こいつを預かりますよ。」と男はS−1を乱暴に担ぎ上げる。
母猫が凄まじい鳴き声をあげたが、男はうるさそうに猫を床に叩きつけた。

その時、S−1の紫色の瞳がほんの僅かに動く。
強張ったままの表情が変化した。

(猫を探しているのか?)クロはそのS−1の視線の先を見る。
床に叩きつけられても、海賊に飼われている猫は逞しく、すぐに起き上がって、
爪をむき出し、毛を逆立てて 我が仔に害を成すものから、我が仔を守ろうと
必死の形相を見せていた。

男達はそれに構わずに、ドヤドヤと医務室から出ていく。
クロはそれを血が滲むほど唇をかんで、見送った。

猫は慌てて、その後を追う。そして、その後を子猫が追って行った。

一瞬の戸惑いの後、クロも子猫に続いて、その後を追う。

「待て、貴様ら」クロは船べりに足を掛けていた男達を呼びとめる。
最後尾にいた男が振り返った時、その男の喉笛から血が吹き上がった。

周りにいた部下達がどよめいた。

このまま、大人しくS−1を渡せば、この船団の恐怖で縛っていた結束が緩む。

「え、S−1を殺すぞ、」とS−1を担いでいた男が驚いて震える声ながら、
大声を上げてクロを威嚇する。

「やってみろ、生きながら八つ裂きにしてやる。」とクロはジリジリと
反乱分子を追い詰める。
一人、二人、とクロとS−1を隔てていた男達が血を吹き上げて倒れて行く。
「畜生。」と男は額にぐっしょりと汗を滲ませて、S−1にナイフを突きつけ喚いた。

絶体絶命だと思ったのだろう。
「道連れにしてやる。」どうせ、仲間もみな、クロに殺されるに決っている。
それなら、いっそ、今クロがもっとも固執しているs−1を道連れにと
咄嗟に考えた。

手に握られたナイフを振り上げる。

渾身の力を篭めて背中のまん中を狙った。

「S−1!」クロがどんなに早く動いても、その男を止めようとすれば、
S−1の目の前でまた、人を殺めることになる。

その躊躇いがクロの動きを拘束した。
その瞬きするほどの時間の経過の後。

「・・・ぐっ・・・。」男が呻き声をあげる。
音もなく、忍び寄っていた刺客が男の心臓を背中から貫いた。
恨めしげにその刺客を振り返り、断末魔のようにその男の名前をうめいて、
反乱の首謀者とされた男はあっけなく死んだ。
ズルズルと崩れ落ちるその男から、黒いバンダナを巻いた長身の男は
柔らかい手つきでS−1を抱き受ける。

「大丈夫、血は一滴も浴びていませんよ。」とその男はクロに向かって
笑い掛ける。

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