「怪我もないようですし。」そう言って、見慣れない男はクロに一礼をする。

そんな事よりも、クロはS−1が心配だった。
その足もとには、既に母猫が血相を変えた様子で駈けてつけていた。

「子猫を探さないと。」とトレノは呟いて、回りを見渡す。
そのトレノをS−1が見じろきもせずに、じっと眺めている。

ほんの僅かな表情の変化だった。クロでなければ、気がつく筈もないくらいに、
S−1の紫色の瞳が揺らいで、懸命にトレノに焦点を合わせようとしているかのように
クロには見えた。

「あーるわん、」とゆっくりと唇が動いて、S−1が呟く。
「あーるわん?」子猫を大事そうに両手で抱き上げたトレノが怪訝な声でその言葉を
繰り返した。

「残念だけど、違うよ。」とトレノは子供に言い聞かせるような口調でそう言った。



一瞬見せたS−1の自我はその言葉で再び塞がってしまう。
トレノの黒いバンダナと、肌の色、自分に向けられていた優しい目が曖昧な感覚でしか
物事を捉えられないS−1にR−1の姿として映ったのだ。

「貴様、名前は。」とクロはその男を呼び止めた。

トレノの、S−1に対する態度は明らかに今までS−1に触れさせてきた部下達と
違う。トレノのあっさりした態度が、S−1に性欲など持ちそうにないような気に
させる。それと、トレノを「R−1」と呼んだ事で、S−1は一瞬、自我を取り戻しのを目の当たりにし、クロはその日から、トレノを以前、殺した世話係の後任に据えた。

S−1は、トレノが世話をするようになってから、まるで赤ん坊が少しづつ、
成長していくかのように、子猫と同じ様に、変化が見られた。

眠る様になり。
自分で食べ物を食べる様になり。
生きよう、と言う本能がやっと、S−1の体に戻ってきた。
だが、トレノを前に自我が戻ったのは、結局、あの1回きりだった。
相変らず、何も見ず、何も話さず、何も聞こうとはしない。
それでも、トレノはS−1が反応しようとしまいと、お構いなしで、
まるで、赤ん坊の世話を楽しげにしているように、常ににこやかに
S−1の面倒を見ている。

それでも、(得体の知れない男だ)とクロはS−1を任せながらも、トレノを警戒していた。
もしも、このまま、トレノをS−1の側に置いて、S−1の自我が戻ってきたら、
猛烈な嫉妬で、きっとトレノを殺したくなる。
そうなれば、同じ事の繰り返しになるだろう。それでも、猫の親子とトレノにだけは、S−1の肌に触れる事を許さねばならない。

「いつから、この船に乗った。」とクロはトレノに尋ねる。
「まだ、一月も経ってません。」とトレノは率直に答える。

「この船に乗る前は何をしていた。」と続けて、クロはトレノに聞く。
「賞金稼ぎをやった事もありますし、海賊だったこともありますし。」とトレノは
よどみなく答える。

猫の親子がトレノに懐く頃、S−1は「トレノ」に焦点を合わせて目で追う様になった。

「いい傾向ですよ、頭。」と医者は思い掛けないS−1の回復を診て、そう言った。
「でも、」

「本当にS−1を大事になさりたいなら、自我を取り戻した時、船を降ろしてやり、
S−1が言う、「あーるわん」を捜してやるべきです。」と、
医者は 淡々と、それでも、必死で勇気を振り絞り、そうクロに進言する。

自我を閉じ込めてからも、S−1の髪はどんどん白髪になっていく。
その様は本当に痛々しい。何もしてやれず、ただ、食事を摂らない間、死なない様に
栄養剤を打つ事しか出来ない自分が歯痒かった。
まだ、正気を保っていた頃のS−1と交わした少ない言葉と、
その時の表情、そして今目の前にいるS−1との違いに、胸が痛む事で
なぜ、医者を目指したかの理由を思い出した。

「無理だ。」とクロはそう苦しげに言って、医者に背を向けた。
「自我を取り戻したあいつを手放す?」
「そんな事が出来る訳がない。」と吐き捨てる様に独り言を呟いた。

その程度の想いなら、とっくの昔に殺しているだろう。

「俺に指図するな。」
「それ以上、生意気に善人面するなら、生きたまま八つ裂きにするぞ、ドクター。」と
クロは射殺すような眼差しで医者を黙らせ、部屋から追い出した。

「トレノ、下がれ。」もう、夜も更けていた。
クロの言葉に、トレノは一礼をし、S−1と猫達に「おやすみ」と言って、
静かに船長室を出て行く。

S−1の膝の上では、猫の親子が大あくびをしている。もう、S−1も眠る時間だ。

クロがS−1の膝の上から子猫を抱き上げて、ベッドに連れていく。
すると母猫が、S−1を「もう、寝ますよ」と急かすような声で鳴くと、
S−1は自分で立ち上がって、母猫の後を付いて行く。
そうやって、母猫は、S−1をクロのベッドまで連れてくるのだ。

「お前は、本当に利口なメス猫だな。」とクロは今だ、自分には決して懐こうとせず、
クロのベッドにS−1が横になった途端、背中の毛を逆立てて、クロをベッドから
追い出そうと威嚇する母猫に子猫を返してやりながら、そう言った。

「次に生まれる時は人間の女になって来い。」
「いい女海賊になるぞ。」

その時。
「頭!敵襲です!」と部下のけたたましい声が聞こえた。

クロはすぐに戦闘体制を整えるべく、部屋を飛出す。
「トレノ!トレノはどこだ。」と既に騒然としつつある甲板に出て、
すぐにトレノを捜した。真っ黒な海の上には、自分達よりも大型の船が
4隻、見える。全てのマストに「正義」の文字がはためいていた。

耳を劈くような大音響が響き、船のすぐ側の海面に大きな水飛沫が上がった。
その衝撃で船が傾ぐ。既に、後方の船からは炎が上がっていて、
船上で激しい戦闘が繰り広げられている。

「クソッ。」何故、もっと早く敵襲に気がつかなった、とクロは舌打した。
各船にはそれぞれ、不寝番が不意の戦闘に備えて見張っている筈なのに。

こんなに側に来るまで、何故、と今さら後悔しても遅い。

トレノは後甲板で、敵船をじっと睨み付けていた。
非戦闘員、奴隷として売られる人々がどの船にどれだけいるかなど、
何も把握してないのに、何故、この海軍の船は遠慮せずに大砲をぶっ放してくるのか。

しかも、荒っぽい駆逐をするので海軍でも悪名が高い艦隊だった。
武器、弾薬、戦闘能力などどれをとっても、クロの船団には勝ち目がない。

「トレノ、S−1を守れ。」とクロはトレノに怒鳴った。
「は、はい」とクロの命令に返事はしたものの、トレノはS−1の方へは
いかずに、また、目の前の海軍の戦艦を睨んだ。

「早く行け、」とクロは肉弾戦に備えて、手袋を嵌めつつまた怒鳴る。
その時、目の前に火柱が上がった。
砲弾がまともに後甲板の一部を破壊し、爆弾が破裂したのだ。

「トレノ!」

熱風と光りにクロは目が眩んだ。黒煙とチロチロ燃える炎の中には、
既にトレノの姿はない。
爆風に吹き飛ばされて、海に落ちたのかもしれない、とクロは考え、踵を返した。

雄叫びのような怒号が響き、次々と武装した海軍兵がロープをマストに、
船べりに引っ掛け、乗り込んでくる。

(ナメた真似しやがって)クロは甲板を素早く移動し、海軍の兵隊を滅多斬りに
切刻んで行く。だが、多勢に無勢であり、また、全く戦闘準備が整っていなかった所為で、部下達にも船にも甚大な損傷が生じてくる。

「降参しろ、キャプテンクロ」
「さもなければ、全員、ここで殺す。」と敵船から司令官らしき男が喚いている。
その間も、彼の部下達である海軍兵は殺戮と破壊の手を休めない。

「殺せるものなら、殺してみろ、腰抜け海兵め」といい返したクロの部下の一人が、
そう怒鳴った声の余韻が残っている程の刹那に頭を打ち抜かれて死んだ。

火器、銃器の類の数が圧倒的に違う。
生きて、捕縛され、見せしめの挙句に処刑されるのなら
華々しく、海兵達を道連れにして、海に沈んだ方が「海賊」としての誇りを守れる。

そして、もう、決してS−1を誰かに奪われたりしないで済む。
自分が捕まっても、S−1は海賊ではないのだから、道連れには出来ない。
引き剥がされるくらいなら、この手でS−1を殺し、そして、この船ごと
爆破しよう、とクロはその算段を頭の中で計算し始める。

「名の通った司令官だとお見受けするが、投降する前に、どうだ。」
「我々の宝を貰ってくれないか。」
「ひょっとしたら、気が変わるかも知れない。」

時間稼ぎが必要だった。
クロはそう言って、宝を全て差し出す、その準備に10分の猶予が欲しいと
申し出た。

「宝はありがたく頂く。だが、お前達の目論みどおりにはさせんさ。」と司令官は
勝ち誇ったような力強い声でそう返答を返してきた。

だが、それが彼の最後の言葉になった。

一発の銃声が勝者と敗者に分かれて向き合う船の間を切り裂く。
司令官の眉間と後ろ頭から血が吹き出しそのまま、甲板に叩き付けられる。

その後、続けざまに何十発も立て続けに銃声が鳴り響き、その度に
海兵達は心臓、頭、喉、など人間の急所をたった、一発の銃弾で打ち抜かれ、
瞬きをする間に海兵達の骸の山が築かれて行く。

(どこから撃っているんだ。)
揺れる船、逃げ惑う海兵達を逃がさず、たった一発で仕留めるなど、
凄腕の賞金稼ぎでも出来ない事だ。こんなに優秀な狙撃手がこの船に乗っていたとは、
クロは全く知らなかった。
(逃げきれる)とクロはその狙撃手の姿を捜す。


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