自分の欲する事をやり抜いて、クロは満足だった。
もう、どこにも逃げようとするまい。自分以外に目を向けまい。
常に自分に怯え、美しい体を自分に任せきって、美しい顔を自分だけに向けて、
耳ざわりの良い声を自分だけに聞かせていればそれでいいのだ。
が。
クロは、S−1の冷たい体をすぐに暖かい湯で綺麗に清めてやろうと
抱き上げた途端、体が竦んだ。
S−1の琥珀色の髪が見る影もなく色褪せていく。
見開いている紫色の瞳はただガラス玉のようだ。
(今だけだ。)精神的な打撃にS−1の心が大きな衝撃を受けて、
そのダメージが体に現れた。それでも、クロはその変貌がどれほどの痛手かをまだ、
気付かずにいる。
自らも全裸になって、温かな湯に浸かり、血を洗い流してやる。
何を語りかけても、何度呼び掛けても、S−1は何も答えない。
自分の仕打ちに抗って、(強情を張っている)と最初は思った。
だが、違う。
何一つ抗わず、為すがままでクロの腕に収まって、何も見ず、何も聞かず、
何も話さない。クロの存在を黙殺しているのとも違う。
クロはベッドにS−1を横たえて、ジっと観察してみる。
「どこを見ている。」と独り言のようにS−1を見下ろし尋ねた。
虚ろ過ぎる瞳。瞼を閉じている方が、まだ自然な程。
何も写していないS−1の見開かれたままの瞳に、クロの心臓は異様な鼓動を刻む。
その音は酷く耳障りで、クロの額に汗が滲んだ。
投げ出されたままの指先は、さっき、湯で温めた筈なのに、もう氷水に晒した後のように冷たい。この冷たさが全身に広がったら、ととっさに思った時、クロは
S−1の手を握り締めていた。
「目を開けろ。」
S−1の目は開いている。それなのに、クロは思わずそう怒鳴った。
さっきから感じている嫌な鼓動はますます早くなる。
クロは耳をS−1の胸に押し当てた。生きているのを確認したい。
そして薄い胸の奥の確かな鼓動を聞いて、無意識に緊張し、強張っていた体の力が
抜けた。
(生きている)と安心する。
けれど、唇を重ね、強引に割り入っても、どんなに抗っても正直に反応する可愛い性器を弄くっても、S−1の体は何一つ、反応しなかった。
いつまでも、頼りなく、柔らかなまま。
今しがた、死んだばかりの骸を抱いているような。
クロは愕然とする。(こんなバカな)とS−1の体を抱き締めた自分の唇が
戦慄いているのを止められない。ただ、自分に反抗する事のないよう、
絶対に自分から離れていかないように、戒めるだけのつもりだった。
どんなに酷い言葉を浴びせ、責め苦を与えても、S−1は性的な興奮を示していた
体でさえ、もうなんの変化もない。
「死んだ訳じゃあないだろう。何か言え。言って見ろ、でないとまたお前の目の前で
人を殺すぞ。」
半狂乱の態でそう怒鳴るクロを人が見ていたら、クロこそが狂ったと思うだろう。
何度呼んでも揺すっても、痛みを与えても、頬を包んで温めても、
S−1は"死んだ"ままだった。
「なんとかしろ。」とクロはすぐに翌朝、船医を呼びつける。
「私は傷を縫ったり熱を下げたり、腹くだしを治したりする事しか出来ない医者です。」
と船医は怯え混じり困惑を表情に浮かべて答える。
「もう、使いモノにならないのなら、捨てればいいでしょう。」と医者は言い掛けて、
口をつぐんだ。
自分と会話しながらも、魂の抜け殻のようになったS−1の白髪を愛しげに撫でている
クロを見て、そんな事を言えば、どんな逆鱗に触れるか、深く考えなくても予想出来る。
「少し、調べてみます。」「こいつが治らなかったらお前を殺すぞ。」
逃げるようにクロの部屋を出る医者の背中に冷ややかなクロの声が追い駆けてくる。
それが脅しではなく、本気でそう言っている。医者はそれを嫌と言うほど知っていた。
「判ります。」と答えた医者の声が少しだけ震えていた。
(困った事になった。)と医者は考えあぐねる。
そんな知識のある、ご立派な医者が海賊船の船医などやってる訳がなく、
娼婦の堕胎手術だの、ごろつきどもの怪我を膨大な治療費で治したりしている間に
気がついたら、流れ流れて、こんなヤクザな船の船医になりさがっていた男だ。
心が壊れた人間の治療など出来る筈もない。
だが、なにかそれらしい事をやらねば殺される。
(結果が出なかったら)もちろん、殺される。
結果など出せよう筈もないし、医者は切羽詰まった。
自分が助かる道はたった一つ。
(頭に気がつかれず、あいつが死ぬ事)しかない。
(そんな事、俺にはとても出来ねえ)
監禁されている日々の退屈凌ぎに医学書を貸してやった。
「ドクターの頭の中にはこんなたくさんの知識が全部詰ってるんだな。凄いよ。」と
言って笑った顔。
その医学書を夢中で読んでいたばかりに、クロにそれを燃やされてしまった。
「大切な本なのに、返せない。」とその事を詫びた時のしょげた顔。
歳は17、8歳くらいだろうが、それ以上にどこか幼くて、
頭が弱いような印象を受けるのに、バカにする気にはなれなかった。
S−1は医者の顔を見る度に聞いた。「外はどんな天気ですか。」
「雨が降ってる。」「風が強い。」「寒い。」「いい天気だ。」
小さな窓から景色は見えても、外の空気、温度が恋しかったのだろうか。
医者はS−1に聞かれる度に、短い言葉で気候を教えてやった。
蒼い海の輝き、空の色、水飛沫、帆が風を受ける音。
S−1は医者の言葉を聞いて、小さな窓から外を眺めていた。
囚われ、羽根をもがれた鳥のように。
(可哀想に)医者はやはり、S−1を殺せないと思った。
せめて、目でモノを見る気力だけでも取り戻してやりたい。
だが、自分にはそんな知識も技術もない。
「ドクター、メシを食っちまって下さい。片付きませんや。」
ずっと甲板でS−1の事を考えていた医者にコックの一人が声を掛けてきた。
その足もとに腹が異様に膨れた猫が纏わりついている。
船には必ず、ネズミが繁殖する。ネズミのいない船は沈没する、とかいう迷信が
あるから、全くいないと気味が悪いのだが、あまり多いと疫病が蔓延る原因にもなる。
だから、猫を船に伴っている事は別に珍しい事ではない。
「なんだ、随分、太ったな。」
医者はその猫を見つめてそう呟いた。
名前さえつけて貰えなくて、好き勝手に呼ばれている猫だが、器量はいい。
灰色一色で、目がサファイヤのように透明な緑色だ。
「この前の港で男を引っ張り込んだみたいでね。腹に子供がいるんでさ。」と
コックは答える。ゴロゴロとそのコックの足もとに体を刷りつけて、その猫は
コックに媚びている。
「こいつの姉貴はもう、産み落しましたけどね。」とコックはその猫を抱き上げた。
「その子猫はどこにいる。」と医者は思わず、そのコックに尋ねる。
猫の親子はすぐにクロの部屋に箱ごと連れて来られた。
ひっきりなしにミャーミャーと可愛らしい鳴き声が聞こえる。
子猫は一匹だけだった。
(産み落とした時、寒かったからあとの二匹はもう死んでたんですよ。)と
コックは言っていた。
「可愛いだろう、S−1、」とクロはその子猫をS−1の膝の上に置く。
まだ、目も開いていない灰色の子猫は母猫の温もりを求めて、必死で
鳴き声をあげた。
だが、S−1は身動き一つしない。小刻みに震える足で這う様に子猫は
S−1の膝から母猫の鳴き声を目指して歩き出す。
(ダメか。)とクロの眉に影がさした。
「頭、そんなにすぐには」治る訳がない、と言い掛ける医者の言葉をクロは
苦々しい声で「わかってる。」と答えて遮った。
医者をすぐに部屋から追い出して、クロはS−1の側で佇み、様子を見つめる。
クロは這い出した子猫をもう一度、s−1の膝の上に戻す。
また、這い出す。また、戻す。また、這い出し、また、戻す。
それでも、S−1の目には光りの一筋さえ戻らず、床に座り込んだまま、
蝋人形のようになんの反応もしない。
母猫は箱に閉じ込められ、必死で子猫を呼んでいる。
クロは子猫を掌に乗せて、S−1の後に回り込む。
腰を降ろして、S−1の冷たい手に子猫を乗せ、その手を包むようにして
無理矢理子猫を抱かせてみた。
「どうだ、子猫は温いだろう。」とクロは小さな声でS−1に話し掛ける。
なんの反応もなく、自分が包んだS−1の手に力が篭る事も、温もりが戻る事もない。
こうなって、初めて後悔し、クロは気がつく。
確かに、S−1は誰も見なくなった。誰の声にも反応せず、誰にも笑みを向ける事も
なく、誰に話し掛ける事もなく。逃げ出す危惧も必要なくなった。
S−1をこんな無残な姿にしたいと思った訳ではないのに、
現実は、クロが想像していた事とあまりにかけ離れていた。
声が聞きたい。どんな罵声でもいい。
自分を見てくれるなら、どれほどの憎しみが濃くても構わない。
S−1の声や瞳の力にどれだけ心を奪われていたか。
それが執着した理由、初めて人を愛して知った悲しみだった。
やっと気がついた、その自分の気持ちを受けとめてクロは誰に問うでもなく、
心の中で呟く。
もうとり返しがつかないのだろうか。
愛する者をそれと気付かずに壊した。もう、元には戻らないのだろうか。
もとに戻してやるにはどうすればいいのか。
クロは子猫がS−1の掌の中で疲れて眠るまで、同じ問いを何度も繰り返す。
けれども、誰もクロにその答えを教えてやる者はいない。
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