クロは、自分でも自分が制御出来なくなっていた。
だが、自分ではそれさえも計算の上の事だと思い込もうとしていた。
か弱い癖に隙を見せたら可愛い爪を立てる、美しい生き物を掌の上で、
思う存分嬲る、それがただ、楽しいだけだと自分に言い訳をして、
本当に欲しいと思うものが手には入らない事にイラつく自分を諌めている。
S−1は翌朝、眉を寄せたまま眠っていた。
滑らかな額には粒のように汗がびっしりと浮いている。
それを見て、クロは心臓のあたりがずしりと重さを自覚する。
それでも、
(これでいい。)と思おうとしていた。
こんな扱いが相応しい筈で、自分は何も間違っていない。
クロは頭の中でそう呟いて、胸のあたりに重く伸しかかっている、理解出来ない不快な
感情を振り払おうとする。けれども、そんな事では少しも心の鬱積が消せはしなかった。
自分が散々痛め付けた体に触れてみる。酷く熱かった。
だが、船医の手がS−1の体に触れる事を思うと、船医を呼びつける気にはならない。
「目を開けろ。」とS−1の顎を持ち上げてみる。
なんの抵抗も感じられない。
「あーるわん」とか言う奴の夢を見ているのではない、とはっきりと判る、眉を寄せ、
苦しそうに歪んだ寝顔に、クロの心に二つの感情が同時に浮かぶ。
自分の夢を見ている。その事に満足している自分。
そして、もう一つは、悪夢を見ている事を憐れむ自分。
日を追って、クロのS−1に対する執着は常軌を逸してくる。
それは、クロ自身も自分の感情を持て余し、抱えきれないその感情に悶え苦しみはじめた、何よりの証拠だった。
最初は、S−1が食事を少量しか食べなかった。
監禁され、毎日、責め苦のような行為を強いられて、食欲が沸く訳がない。
けれども、クロは「自分が与える食事」をS−1が拒んだ、と激怒した。
S−1を怯えさせるのに、S−1自身を嬲るよりももっと効果的な方法は、
S−1を痛め付ける替わりに、S−1の世話をさせている、最初の脱走に手を貸した
男をその目の前で責めれば良いとクロが気がつくのは、早かった。
感情を剥き出しにした顔が見たかった。
諦めた様に悲しげな感情を押し殺した顔を見るくらいなら、
憎しみでも怒りでも、怯えでもなんでも構わないから、自分だけを見て欲しい。
それがクロの偽りのない、自分でも決して省みたくはない本心だ。
その本心が、クロに様々な矛盾した言動を取らせて、S−1を苦しめる。
ある時、S−1が喜ぶとクロの機嫌が良くなるだろうと気を利かせて、s−1の為だけにデザートが添えられていた。
それを食べて、S−1がそのコックに「どうやってこれを作ったのか、聞いて見たい」とほんの少しの興味を示す。それだけで、クロは癪に障る。
そして、そのコックをS−1の目の前で海に突き落とした。
S−1に着せる服を洗濯させていた雑用も、あまりにもS−1に似合う服を
いつも差し出す事に見当違いの嫉妬を抱いて、その仕事中にいきなり刺し殺した。
そして、彼の血で染め上がった服をS−1に突き付けて見せた。
そんな風に、常に、S−1が自分に怯えて、自分のことだけを見て、自分の事だけを考えている様に、S−1の精神を追い詰めていく。
自分が何かを話したり、何か別の事を考えている事をクロに悟られると、
自分以外の誰かが傷つく。クロの思惑とは裏腹に、S−1はどんどん表情も感情も
押し殺すようになっていった。
どうすれば、こんな場所から抜け出せるのか。
R−1のところへ帰りたいと思うだけで、誰かの指が切り飛ばされたり、
海に突き落とされたりする、そんな無茶苦茶な仕打ちにS−1の心は
S−1自身でさえ、どうにも出来なくなるほど、目で見えるモノ、耳で聞こえるモノに
対して何かを思う、S−1の感性が枯れていく。
言葉を話すのが怖かった。何か言えば、誰かが傷つけられると思うと、
何も言えなくなり、言葉は、S−1の喉から出るのを拒んで、S−1は
自分の意志を言葉で誰かに伝える事が難しくなった。
クロ以外の誰かと話せば、その誰かに必ず、クロの暴力が振りかかる。
それが判っているから、S−1は誰とも言葉を話さず、誰も見ないようになって、
「本当にお人形サンになっちまったんだな。」と密かにS−1に同情する者達は
クロの狂気地味たやり方に怖れつつも、そんな陰口を囁いていた。
(可哀想に。)
海軍の伝染病からS−1に命を助けられた船の乗員は誰もが心からそう思った。
「なんとか、助けてやりたい」と思っていても、二度の裏切りをクロは許さないだろう。
全員揃って嬲り殺しにあうのがオチだ。
機会と緻密な策を練ったところで、そんな大博打を打つ様な行動を取る言う猛者はこの船団にはいなかった。
クロの船団はやがて、雪の降る、冬の海域に差しかかった。
一面白い靄に囲まれて、視界が悪い。
雪が真っ白な空から降ってくる。
まだ、夜が明け切らない、1日のうちで最も気温の低い時間帯だった。
(指針は異常ないが、これじゃ、船同士がぶつかるな。)と航海士は、一旦、
船の碇を下ろして、靄が明けるまで海上で待機する方がいい、とまだ、
休んでいるだろう、船長にその旨を伝える為に甲板を歩いていた。
吐く息が白くて、手袋もしない手がかじかむ。
靄が途切れたとき、航海士の目に船べりに凭れている「お人形サン」の姿が目に入った。
この航海士は、S−1が助けた船の乗組員だった。が、クロの乗る本船の航海士が
嵐の日に海に落ちて死んでしまったので、替わりにこの船に乗る事になった男だった。
つまり、S−1が助けた男達の中の一人。
この船に乗ってから、一度も姿を見なかったが、自分が知っているS−1とは
全く違ってしまった容姿と眼差しを目の当たりに、愕然とする。
今夜もキャプテン・クロに酷く責められた後なのか、薄い布一枚を体に巻きつけ、
呆けた様な、生気のない顔でハラハラと散る雪に視線をさ迷わせていた。
「エスワン、」と思わず、自分の身の危険を省り見ずに男はS−1に呼び掛けた。
「おい。」
航海士は唐突にS−1以外の男の声を聞いて、ビクっと体を強張らせた。
「俺だ。」事有るごとにS−1の目の前でクロに嬲られている、航海士の仲間だった男が靄の中からヌっと現れる。
「お前、生きてたのか。」と仲間の無事を思わず、航海士は喜んだ。
そんな二人の会話くらいでは、すぐ側にいるS−1の希薄な感情が戻る筈もない。
「もう、島も近い。」「ああ。」
長年、仲間同士で生死の別つような窮地を何度も潜り抜けてきた者同士だ。
考える事はすぐにわかった。
この真っ白な視界の中なら、クロの追手を振り切れる。
まして、航海士がログを持ったまま船を離れたら、このグランドラインで
無事に航海出来る訳などない。
「S−1、逃げるぞ。」
「今度こそ、必ず、逃がしてやる。」
それを聞いて、S−1はまるで魂を取り戻した様に二人の男の顔を眺めた。
「駄目だ。」
「もし、また捕まったら」と言いたいのに、声が出ない。
何も答えないS−1を見て、男達はそれを「承諾」と受取った。
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