「枷を外してる時間がない、そのまま行こう。」
S−1に大きな服を着せて、男達は船にボートをそっと降ろした。
そのまま、島に向かって漕ぎ出す。
「クソ、こんなに側だったなんて。」
たった、数分漕いだだけでもう島が目前に迫っていた。
しかも、かなり小さい。こんなに小さな島で、逃げきれるか。
男達の顔が蒼ざめた。
S−1は「もういい、戻ろう。今なら、まだ間に合う。」と声を絞り出した。
「ダメだ。もしも、もう頭がお前のいない事に気がついてたら、どんな目に合うか。」
男達はS−1の意見に首を振った。
「でも、こんなに小さな島じゃ、すぐに捕まる。」
「捕まってからじゃ、遅い。」S−1は必死でそう言った。
「俺はこのまま戻るから、二人は逃げてくれ。」S−1はそう言うと、ボートの上に
たち上がった。S−1の突飛な言動に二人の男が呆然としているうちに、
S−1は、出せるだけの力を込めて海に突き落とす。
「早く、陸に上がらないと凍え死ぬよ。」とエスワンは二人に泣き笑いのような顔を
向けてそう言った。
こんなに小さな島では隠れる事も出来ないだろう。
すぐに見つかってしまうに決っている。捕まって、殺されても、こんな地獄のような生活から自由になるのなら、それでも構わない。けれども、自分の為に、命を賭けてくれた二人をクロに殺されたくない。
二人だけなら、きっと逃げられるだろうし、どんなにクロが怒り狂って二人を追うと
息巻いても、S−1は命懸けでそれを止める覚悟だった。
S−1は波間に漂いながら、自分を呼びとめる二人の男の声を振りきって、
クロのいる船に戻る為に、ボートを漕いだ。
「散歩か、S−1」
船に近付いた時、冷ややかなクロの声が真っ白な靄の上から降って来る。
その声を聞くだけで、S−1の全身が慄いた。
それでも、ボートの上からクロを見上げる。
「上がって来い。」その言葉とともに縄梯子が降って来る。
これを登ったら、また、どんな責め苦が待っているかを考えると、それを握る手が
震えた。
(時間を稼ごう。)なんとしても、あの二人がクロの追ってを振りきって逃げる事が
出来るだけ。S−1はなるべく、ゆっくりと縄梯子を登る。
「どこへ行くつもりだったんだ。」
「誰がお前を連れ出した。」
「俺から、逃げようとでも思ったのか。」
船に登り付いた途端、クロはS−1の髪を力まかせに掴んで引寄せ
すぐに尋問を始める。
既に追手は放ってあった。
自分の腕の中から、逃げようとした。そんな事、絶対に許さない。
二度と、こんな愚かな事を考えない様に、躾てやる。
憎悪なのか、これからS−1を自分の前にひれ伏し、泣いて縋る姿を想像し、
喜びを感じているのか、クロの心の中は、どす黒い感情ではちきれそうになっていた。
この船には、捉えた人間を奴隷商人に叩き売るまで一時、拉致しておく特別誂えの
部屋があった。
S−1はそこに引き摺り込まれる。
ほどなく、S−1を逃がそうとした男達が満身創痍で、縄でぐるぐる巻きにされて
S−1の前に叩き出された。
「こいつらが、お前を"散歩"に誘ったのか。」クロは右手に自分の武器を既に
嵌めている。出来る限り優しい声音でS−1に詰問をして、その反応を楽しむ。
(そうだ。)と言ったら、クロはどんな行動をとるか。
S−1は必死で考える。
自分がクロから逃げる為に手を貸した、となると絶対にクロはこの男達を
許さず、殺すに違いない。
真実を言えば、二人を助ける事は出来ない。
「俺が勝手に逃げただけだ。」とS−1は答えた。
(こいつらを庇っている)とクロにはすぐに判る。
それが気に食わない。自分が傷つけられるのを省みないで、自分以外の者を大切に思う。
そんな事をクロが容認する筈がない。
クロは無言で航海士の、ログホースが嵌められている方の手を手首から切り飛ばした。
「ぎゃあああ。」
凄まじい悲鳴にS−1の目が大きく開く。
その顔を見た途端、クロの心の中にいい様のない満足感が込み上げてくる。
「お前がこいつを庇うからだ。」とクロは頬に飛んだ返り血を拭いながら、
S−1に残虐な笑みを向ける。床に座り込んだS−1の体が小刻みに震えていた。
「俺が勝手に逃げたって言ってるだろ、誰も庇ってなんかない。」とS−1が叫ぶ。
「そうか、お前は勝手に逃げたんだな。この二人は無関係なのか。」とクロは
大袈裟にそう驚いて見せ、また、冷ややかな笑みを浮かべて、S−1を見た。
自分だけを必死で見上げている。余所見をせず、全ての感情が自分だけに向いている。
そう思うと背筋にゾクゾクとする歓喜が走った。
「死のうが、生きようが、お前には興味のない奴らか。」
S−1はクロの言葉に息を飲む。
どう答えれば、いい。目の前の二人を助ける為に自分はどう答えていいのか、
S−1はクロの顔色を窺いながら、必死で考える。
そうだ、と答えたら。
そうじゃない、と答えたら。
(どっちにしても、この二人は殺される。)S−1はそれに気がついて、
言葉を出せなくなった。悔しさと憎しみと恐れが混じった瞳を向ける事しか出来ない。
「俺、なんでもするから。」必死で出した答えはこれしかなかった。
「二度と逃げようなんてしないから、二人を殺さないでくれ。」
そのS−1の言葉をクロは冷ややかな目つきで聞いていた。
「なんでもする、だと。」侮蔑した口調でS−1の言葉をなぞる。
自分の言いなりにする為に力と薬を使った。
それでも、S−1は自分に抗って来た。そのS−1が自分の意志を守るよりも、
人の命を尊重する事にクロの感情が逆立つ。
そこまでして、こいつらを庇うのか。
そんなにこんな奴らの命が大事か。
「この二人の命を助けたいと思うなら、お前が死ね。」とクロは刃先を
S−1の白い喉元に当てた。
「そしたら、その二人を助けてくれるのか。」と強張っていたS−1の表情が
クロの言葉で揺るんだ。
ギリッと歯噛みしたいような苦痛がクロの心に走る。
あーるわん、とかのもとへ帰る為に生き延びたいと言って、どんなに責めても
苦しめても、生きようとしていたS−1が。
自分の命よりも、この二人を守りたいと言うのか。
心の中の痛みが一気に激しい嫉妬に変化する。
「ああ、そうだな。」とクロは淡々と答えて、刃先の先端だけをS−1の喉笛に
走らせた。紅い糸のような傷がそこに刻まれる。
そしてそのままの軌道で、クロは手を横へ滑らせた。
S−1の喉に引っかいただけの傷を残したその刃は、ずっとs−1の世話をして来た
男の両眼を切り裂く。
「うあああっ。」また、頭にガンガンと響くような男のわめき声が狭い部屋に
木霊した。
S−1が荒い息を吐き、その様を見つめている。
紫色の瞳が見る見るうちに潤って行く。
自分が庇えば、庇うほど、クロは二人を傷つける。
どうしていいのか、S−1は判らない。拳を握り締めて、のたうち回る二人をただ、
見ている事しか出来なかった。
そんなS−1を満足そうに眺めて、クロは楽しげにもう一度、S−1に尋ねる。
「どうだ、まだこいつらを庇うか。」
「それとも、こいつらが、死のうが、生きようが、お前は興味ないか。」
どう答えても、クロはこの二人を嬲って殺す。
S−1はようやく、それに気がついた。
これ以上、こんな仕打ちには耐えられない。気が狂ってしまう。
「俺を殺せよ、もう、さっさと殺せよ!」
「お前なんか、大嫌いだ、こんなトコで生きてくくらいなら死んだ方がマシだ。」
死んだ後なら、この二人が殺されても辛い想いをしなくてもいい。
とうとう、S−1はキレた。
悶絶している男達の声さえ聞こえなくなるほど、S−1は大声で怒鳴った。
そんな声を出すのは、数日ぶりで、クロはそのS−1の悲痛な声にさえ驚きもせず、
口元を歪め、笑って聞いている。
R−1の所に帰る、常にそれだけは諦めずにいたのに、この瞬間、その事すら頭に浮かばなかった。
「いい声だ。」とクロは気味の悪いほど優しい声でS−1にそう言った。
「もっと喚け。」
自分を見下ろすクロの目には、冷酷な光りが宿っていた。それを見た途端、
S−1の感情が凍りつく。
「どうした。」
怯えるS−1.自分に他人の命を乞う、憐れなS−1.
自分だけに感情の全て、眼差しの全てを向けている事がクロは嬉しくてならない。
「もっと喚かんか。」
そう言って、目を切り裂いた男にわざとゆっくり刃を振り上げた。
S−1がその男を庇って、飛出して来る事を計算して。
予想どおり、S−1はその男の体を覆い被さる様にして庇う。
クロはその動きを十分、目で捉えることが出来る。
それだけ自分の動きの早さに視力が適応しているのだ。
そして、杓死よりも少しだけ遅い技巧だが、それでも、常人の動きよりも数倍早い。
S−1の目の前で、その男の頚動脈が血を吹き上げた。
耳を劈くような悲鳴は、命を絶たれた男の声ではなく、S−1の声だった。
数分後。
二人男の返り血を浴び、全身を真っ赤に染めて、S−1は呆然と床に座り込んでいた。
焦点が定まっていない瞳は何を見ているのかわからない。
クロは手袋を脱ぎ捨て、S−1の側にしゃがんで表情を窺う。
目尻から零れ落ちる涙を指で何度も擦ってやるが、S−1はなんの反応も返しては来ない。
「俺が嫌いだろう、S−1」と皮肉めいた口調で尋ねても、S−1の耳には
まるで届いていない様だった。
「お前が俺だけを見ないからだ。お前の所為だ。」クロはそう呟き、
魂の抜けたようなS−1を抱き上げる。血で汚れた体は冷えきっていた。