「れ、礼なんか」とS−1は目を伏せた。体が強張って上手く話せない。
「そうかぁ」と赤髪の男はとても残念そうに大仰にがっくりと肩を落とす。
「・・・って事があったんだ」S−1はライのところへ帰って来て、港での
一部始終を全て話した。
「赤い髪の海賊だって?!」ライは大きく目を見開いてS−1までが驚くほどの
大きな声を出した。ライのそんな大きな声を聞いたのは初めてのような気がする。
「有名な海賊なのか」S−1がそう尋ねるとライは深く頷き、
「今の世の中で最高で最強、海賊の鏡って言われてる大海賊だよ」と答えてから
首を捻った。
「どうして、この島に・・」
「悪い海賊には見えなかったな」
「ああ、クロみたいな海賊じゃない。海軍の僕が言うのも変な話しだけど」
「グランドラインの英雄だ」
(じゃあ、もしかしたら)S−1はライの言葉を聞いて、ふと、思った。
そんな大海賊なら、どんな島のどんな情報でも手に入れられるかもしれない。
そして、海軍よりももっと行動範囲も広く、自由だろう。
(一緒に行けば、R−1を探しやすいかも)だが、そこまで考えて
(・・・でも海賊だ)海賊ダ、と言う言葉を頭の中で反芻した途端に、また頭に過った。
クロの部屋の風景、生臭い雄の体液にまみれた自分の体のヌルついた嫌な感覚。
それを思い出しただけで酷く眩暈がして、吐き気が込み上げる。
(もう2度と嫌だ、あんな目に遭うのは・・)と目をギュっと閉じ、何もかもから
目を塞ぐ様にS−1は俯いて、その嫌な気分を振りきろうと軽く頭を振った。
「大丈夫かい?海賊に会って怖かっただろ」そのS−1の素振りを見て、ライは
心配そうな顔をして自分を見ている。S−1はまだ怪我の所為で体が弱っているライに
(心配させちゃダメだ)と思い返して、明るい表情を作ろうとニッコリと笑って見せる。
「平気だ。別になんにもされなかったんだから」
その夜、S−1は中々寝つけなかった。眠ろうと目を閉じても頭の中で迷いが
グルグルと頭の中を掻き回す。
(あんなに優しい顔した海賊もいるんだ)海賊だ、と判った途端に体が竦んだけれど、
落ち着いて思い出してみると、ライが名前を教えてくれたあの赤い髪の海賊
「赤髪のシャンクス」はとても優しそうで、クロやその部下達の様な野蛮さや
残虐さ、冷酷さは少しも感じられなかった。どちらかと言うと、ライやR−1と
同じ種類の人間の様にも思える。
(でも、海賊なんだよな・・)S−1は少しもまとまらない自分の思考に徐々に
疲れて、溜息をつく。
シャンクスが確かにいい海賊だとしても、それに、自分の事を「ぼうや」と呼んだ、
あの呼び掛け方には自分が猫の「ジー」を呼ぶ時の同じ様な、愛玩する為の相手に
対して呼び掛ける、浅い優しさを感じた。
本当に心から慈しみ、愛している者を呼ぶ時の響きとは違う。
そこまで考えた時、頭の中で出せない答えにモヤモヤしていた思考が心の中から
溢れ出る感情に押し出されて消えた。唐突に、S−1は自分の名前を呼ぶR−1の
声を思い出す。
自分の名前を呼んで欲しい人は世界中でたった一人だけ。
傍らに誰もいない、人気の無い病院の片隅の一室でただ子猫だけを抱いて眠る
粗末な臥所の中でS−1は心に刻みついたR−1の声を何度も何度も思い出した。
(・・・R−1、)瞼を閉じるとはっきりとその姿を思い浮かべる事が出来る。
けれど、そうしたら、寂しさと心細さと会いたさがますます募った。
薄く点けたままの灯りが頬を伝う涙の雫に反射する。
(泣いても仕方ない)と思うのに、泣く事さえ出来ない程切羽詰まっていた状況を
ようやく潜り抜けて、やっと思う存分、寂しさ故の涙を流せる事に安心しながら、
S−1は声を立てず、涙を堪えもせず流れるに任せて、ただ、じっと瞼の裏にR−1の姿を、耳にR−1の声を思い出した。
そして、夜が明けた。
何か、気配を感じて目が覚めた。
「おはよう、良く眠ってたねえ」
「!!!」
目を開くと鼻先が触れそうな程近くに人の顔があった。
聞き覚えのある人懐こく、温かみのある声、焦点が瞬時に合わなかったが、
それが誰なのか、S−1はすぐに判っても咄嗟に声が出せない程驚いた。
シャンクスはS−1の体の上に覆い被さって、上からS−1の顔を覗き込んでいたのだ。
「な、なに、ど、どうしてこんなトコに・・・っ!?」
やっと我に返ってS−1は跳ね起きようとしたが、起き上がれない。
「痛っっ」思わず、顔を顰めたが、シャンクスは悪戯をしている少年のような
表情で、笑顔でS−1を見下ろし、
「おやおや。無理に起き上がろうとすると綺麗な髪が根こそぎ抜けちゃうよ」と
ククっと軽く喉を鳴らして笑った。
シャンクスは右手でS−1の長い髪を一まとめにしてしっかりと握り込み、枕の上に押し付けている上に、S−1の胸の上にさほど体重をかけ無いよう膝で自分を支えながらもしっかり馬乗りになっているのだ。これではS−1は身動き出来無い。
(嫌だ、やっぱり海賊はっ・・)S−1の顔色が青ざめる。
「大丈夫だよ、なにもしやしない。ちょっとからかっただけだ」
「いい子だからそんなに怖がらないでくれ」S−1の顔が見る見るうちに白くなって行くのを見て、シャンクスは慌ててS−1の体の上から退いて、髪から手を離した。
それでも、S−1は警戒心を剥き出しにしててシャンクスを怯えながらも睨みつける。
だが。
「ニャア」シャンクスの足許でジーがじゃれている。
なんの警戒もせず、すっかりシャンクスに心を許している様だ。
「おまえさんより先に子猫ちゃんが懐いちゃったなあ」とシャンクスはジーを
掌に抱き上げた。両手で抱かれる事になれている筈のジーが大人しく
されるがままになり、そして、シャンクスはその手をS−1に差し出す。
ジーはポン、とシャンクスの掌から、S−1の胸の中へと飛び込んできた。
S−1はそれを抱きとめ、改めてまじまじとシャンクスの顔を見つめる。
相変らず、ニコニコと人の良さそうな優しそうな、邪気のない表情を浮べて、
穏やかな眼差しでS−1を見つめている。
(一体、なんの目的で?)興味本位だとしか思えない。
珍しい動物を見つけて、それを面白半分に追い駆け回している顔だ、とS−1は思った。
うっかり油断して、怒らせたら、いきなり豹変するかも知れない。
そう思うと、自然に言葉遣いも丁寧になる。
「赤髪の・・・お、お頭は、」S−1は海賊の中で暮している時、その海賊の首領を
「お頭」あるいは「オヤジ」と呼ぶ、と知った。
それに昨日、ライと話して赤髪のシャンクスが仲間内では「赤髪のお頭」と呼ばれていると聞いていたから、思わず、シャンクスに向かって「赤髪のお頭」と呼んだ。
「おや。俺の事をちゃんとお勉強したのかい」とシャンクスは相変らず子供相手に
話すような口調で受け答えをする。
「なんでこんなところに?なんの用で?」S−1がそう尋ねると、シャンクスは
指の腹でS−1の腕に抱かれているジーの喉を軽く擦りながら、
まだ、さっきからのどこかしらおどけたような口調で
「アバズレ猫が子供を産んだよ。子猫も母猫も元気だ」とまるで見当違いなことを
答えた。
「まさか、そんな事を言いに、海軍の病院に?」S−1がそう重ねて尋ねると、
シャンクスはやっとS−1に向き合い、座りなおした。
「少し前に、うちの副船長が率いている船団がある海域で逸れてね」
「ログホースも壊れ、食料も水も無く、もうダメかと思った時、」
「近くの島で、革命騒ぎがあって、その戦争に向かう途中のある海軍の船が」
「たまたま近くを通りかかって、助けてくれた」
「弱っているヤツを介抱し、自分達の食料を分け与え、死んだヤツを手厚く葬って」
「遭難してる海賊を海軍が見殺しにしたって誰も文句は言わないし、責めはしない」
「むろん、助けたからって誉められる事もないし、むしろ罵倒されるくらいだ」
「それなのに、その海兵は俺達の仲間を大事に扱ってくれた」
「その礼を言いに来たってワケだ」
(これは嘘じゃない)、
真っ直ぐに自分を見つめて話すシャンクスの口振りと眼差しを見れば判る。
「ここに?」とS−1がシャンクスの仲間を助けたと言うその海兵がこの島に
いるのか、と短く尋ねた。
「そう言う事、この病院にいる。良く知ってるんじゃないのか?」
「ミルクって海兵だ」
(ライが?)S−1はシャンクスから聞いて驚く。
が、すぐに(らしい話しだな)とも思った。
シャンクスとS−1がそこまで話した時、建物の外がやけに騒がしくなる。
どうやら、シャンクスの手下達がS−1が寝泊りしているこの建物の近くに
大勢控えていたらしかった。
「おや、誰か来た見たいだよ」とシャンクスはそう言ってニヤリと笑い、
外へ向かって「ベン!」と大声を上げた。
「話しはここでする」
「お前も来い」
そう言ったシャンクスの顔つきはさっきまでの優しいだけの顔ではなかった。
グランドラインでも屈指の海賊団を率いる頭としての威厳を充分に漂わせ、
けれど、それはS−1を怯えさせる様な猛々しいモノではなく、凛として
重厚な気配だった。
シャンクスと並ぶとライはとても若く見える。
部下達に慕われ、尊敬されているライは、ライだけ見ていると充分に風格もあるし、
威厳らしきものもあるけれど、シャンクスと比べればまだまだ格が違うと言う事だろうか。
S−1を心配してすぐに杖をつきながら病室を飛び出して来たライの前に、
シャンクスの部下達がひしめき合っていた。
(赤髪のシャンクスには手を出すな)と上層部からの厳命がある。
一度怒らせれば、どれほど厄介な相手か、海軍だけではなく世界政府高官までもが
警戒している大海賊だ。個人的な感情で突っ走るワケにはいかない。
(どうすればいい)と一瞬、ライは戸惑った。
S−1がどれほど怯えているか、それを思うと戸惑う時間などない筈なのに、
海軍の人間として思うままに動けなかった。
だが。「おい、ミルクさんだ!礼を尽くせ」と誰がかそう怒鳴った声がした途端、
皆一斉にライに頭を下げたのだ。
「え?」思わず、ライは拍子抜けし、唖然として立ち尽くすと一人の男が進み出てきた。
「赤髪のお頭がお話があると」
「あ、あんたは・・。」自分に声を掛けて来た男にライは見覚えが有った。
ほんの数ヶ月前、とある島の革命に介入する為にその島へ向かう途中、遭難していた
海賊を助けた事があった。
海賊ではあるけれど、飢えて乾いて死に掛けている人間が目の前にいて素通り出来無い。
人を助ける為の戦争に赴く途中に、数10人を見殺しにするなど矛盾している。
例え海賊でも、救助を求めている者がいるならそれを救うのは人間として当然だと
思ったから助けた。ただ、それだけだった。
助けた相手が、赤髪のシャンクスの腹心、ベン・ベックマンだったなどと
夢にも思ってはいない。その時、ベックマンは酷く衰弱していて、口も禄に
利けなかったからだ。
「あんたのおかげでうちの副船長をはじめ、大勢の仲間が助かった」とシャンクスに頭を下げられて初めて、ライは自分が助けた相手の素性を知ったのだった。
「で、モノは相談なんだが」とシャンクスは下げた頭をあげた途端、態度を急に
友好的な、和やかな物腰に豹変させて、ライの鼻先にぐっと自らの鼻先を
近付けて、ニヤリと笑って言った。
「あんたは海兵なんかやるより、海賊向きの人間だ」
「どうだ?ミルクなんて甘エ名前捨てて、海賊トレノとして生きてみないか?」
「歓迎するぜ?」
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