ライの傷は深く、血管や筋肉、腱などあちこちが切断され、
もとの体に戻るには、半年以上の静養が必要だと診断された。

S−1の傷は、もともと、戦闘用の人造の肉体と言う事もあり、
三日と経たずに歩けるまでに回復した。

(半年も待たなきゃならないのか)とライの診断結果を聞いて、正直、
S−1は愕然となった。命が助かった、と聞いた時は本当に嬉しかったけれど、
半年もR−1に会えないまま、ここで徒に時間を過ごさねばならないと思ったら、
哀しくなった。食事も食べる気が全く無くなるほどだ。

(一人でも行きたい)と思うけれど、自分の所為でライはここまでの大怪我を負ったのだ。そんな薄情な事は出来無いし、自分を地獄の様な苦しみから救ってくれたのも、
生きる気力が尽き掛けた時、励ましてくれたのもライだ。

(今度は俺がライを支えなきゃ)と思い返し、どうしても萎んでしまう自分の気持ちを
宥めて、
(ひょっとしたら、動かずにいる方が俺を探しやすいかも知れないし)
ここに留まっていれば、R−1の方から自分を見つけてくれるかもしれない、と
そんな風に自分を励ました。

「私達は、いつまでもここにはいれないんです。ミルクさんの事、
くれぐれもよろしくお願いします」とライの部下達は、海軍本部からの命令で
この地を離れる事になった。ライが回復するまで、暫定的に新しい上官を迎えて、
その下での任務に就くと言う。
タキは、S−1に何度も「なにかあったらきっと知らせて下さい」
「ミルクさんが治ったら、私、どこにいても必ず、迎えに来ますから」と
後ろ髪を引かれるような思いの篭った言葉を残し、新しい任務地へと赴いて行った。

「半年も待たせないよ。三ヶ月で治って見せる」とライは言う。
「ありがとう」と答えたけれども、S−1はライの部下達がこの島を去った時から、
気持ちが変わっていた。

ライを必要としているのは、自分だけではない。
たいして多くはないけれども、毎日、ライの容態を案じていた
深い信頼と言う絆で結ばれている部下の海兵達と言葉を交わしていると、それが
痛い程S−1に伝わってきた。
ライが上官だからこそ、危険な任務でも勇気を持って遂行出来る。
ライが上官だからこそ、命がけの任務でも臆する事はなかった、皆がそう言っていた。

早く良くなって自分達の元へ帰って来て欲しい、とはっきりと口に出して言う者は
タキだけではなかった。ライの部隊が凶悪な海賊を駆逐すれば、それで助かる人達も
きっと大勢いるに違い無い。

だから、S−1は思い直した。
元の体に戻ったら、ライの帰る場所は部下達のところで、自分とどこにいるのか
わからないR−1を探して旅に出るのは、本来のライの姿ではない。
(ライの傷が癒えたら、今度こそ俺は一人でR−1を探そう)
そう心を固めていた。

灰色の子猫にS−1はやっと名前をつけた。
灰色はグレイ、だから「G」ジー、とS-1が呼ぶとどこにいても、姿を現す。
タキが手配してくれたおかげで、海軍病院の敷地の中にある海兵達が寝泊りする部屋に、
S-1と「ジー」は棲む事が出来た。

一人で、いや、S−1はジーと一緒にR−1を探そうと思い、そうなると、
それなりに資金も必要になってくる事に気付いた。

「仕事をするって?こんな海賊もウヨウヨいる様な港町で?」
「絶対にダメだ」
「どうして、急にそんな事を言うンだい?」とライは禄に理由も聞かずに反対する。
「ずっとライの側につきそう事もなくなったし、なにもかもライに都合つけてもらうのも悪いと思って」とS−1は曖昧に誤魔化した。
きっと、今、自分が考えている事をそのまま口にすれば、ライは
自分の体の治療に時間が掛るから、S−1はそんな事を言い出したと思い、
本来、時間をかけて、しっかりと回復させなければならない治療を焦るだろう。
だから、S−1は今は本心をライに打ち明けられない。
「俺は誰がなんと言おうと、一旦決めた事を止めるのはイヤなんだ」と耳を貸さない振りをした。

翌日。
S−1はどんよりと曇った空から雨が降ってきそうな気配を気にしながら、
港を歩いていた。
長い船旅に疲れている船乗りや、碇を下ろしたばかりの海賊達の目に、
その容姿は嫌でも目に入る。
露骨に自分の体を見つめている下卑た目線に、S−1はゾっと寒気を覚えた。
S−1の記憶には、まだ、クロやクロの部下達に嬲り尽くされた痛みがこびり付いていて、寒気はすぐに恐怖に変わった。
もう2度と、あんな苦しい目に遭いたくない。

(港から離れよう)海賊のいない場所がいい、とS−1は足早に歩く。
だが、過度に怯えて闇雲に歩くうちに、人通りの殆ど無い、倉庫が立ち並ぶ
一角に足を踏み入れてしまっていた。

ジメジメと湿り気に満ちた空気が澱んで、今にも物陰から海賊がヌっと現れそうな
陰気な気配だ。
(引き返そう、)とS−1が踵を返した時だった。

ニャ・・・ニャ・・・と猫の声が聞こえた。
聞き覚えのあるメスの猫の声だ。
自我を投げだして、生まれたての赤子同然となってしまったS−1の
世話を焼き、我が子の様にS−1を守って死んだ、ジーの母猫、あの猫の声にそっくりだった。
そう思った途端、S−1は立ち止まる。
死んだ母親の面影を探す息子の様に、S−1はその猫の声が聞こえてくる場所を
見つけようと耳をそばだてた。

倉庫の裏手、廃材なのか朽ち掛けた木材が乱雑に突っ込まれてある塀と煉瓦造りの
倉庫の間からどこか苦しそうな猫の声が聞こえて来る。
(怪我でもしてるのかな?)とS−1ははっきりと猫の声が聞こえる廃材と
廃材が重なっている隙間を身を屈めて覗きこんだ。

お腹がパンパンに膨れた猫がゴロリと横になって、体を小刻みに震わせている。
(そっくりだ)とS−1はその猫を見て、息が止まるほど驚いた。

違うのは、S−1の顔を見た途端、その猫は全身の毛を逆立て、顔をクシャ、と縮め、
牙を剥き出しにし、「シャー!」と威嚇してきた事だ。
「どっか痛いんじゃないか・・・?」とS−1は手の甲に爪を立てられるのも
構わず、その猫の膨れ上がった腹を撫でて見た。
(うわ、なんだ石見たいにカチンカチンだ!)動物の体に触れているとはとても
思えない程、その猫の腹は固い。痛い場所をS−1の手でゆっくりと撫でられて、
少しは楽になったのか、牙も爪も直し、目を細めたが、息は荒い。

手を伸ばし、その廃材の隙間に頭を突っ込んで、S−1は猫を胸に抱いてしゃがみこむ。
(病気なのか?)
哺乳類が子供を産む事くらいは知っているが、それがどんな有様なのか
見たことのないS−1には、その猫が臨月で今にも子供が生まれそうになっている猫だとは、夢にも思わない。
S−1は苦しそうな猫を抱いて、何時の間にか降り出した雨に濡れるのも構わず、
猫の腹や背中を温め、痛みが薄れる様に撫でてやる。

(ど、どうしよう?R−1ならどうするだろう?)とだんだん不安になってくる。
やがて、猫の尻あたりからプックリと緑色の液体の入った風船のようなものが
ぶら下がってきた。
「な、なんだこれ!」とますますS−1は慌てる。
どうしていいのか判らず、とにかく、苦しそうな猫を擦ってやる事しか出来無い。

必死になるうち、足音が近付いて来るのに全く気づかなかった。

「おや、うちのアバズレ猫はこんなところでお産をしてたのか」
突然、背中で飄々とした男の声がした。
ハっとして、S−1は振りかえる。
気配を全く感じさせず、自分に近づいて来たのだ、普通の人間ではない、と
本能でそう悟った。港にいる、普通の人間で無い男、何者かと言えば、
海軍兵か(海賊だ)とS−1は身を固くする。

「猫が子供を産もうとしてるだけだよ、坊や。死ぬ事アない」
「でもありがとう、うちの汚エアバズレ猫に優しくしてくれて」

黒いマントに不精髭、真っ赤な髪の中年の男はにこやかにそうS−1に
話し掛けてきた。だが、間違い無く、海賊だと人目で人相、風貌、服装どれをとっても
どこからみても、海賊だと判る。

S−1は思わず猫を抱いて後ずさった。
海賊と言葉を交わすだけでも足が竦んだ。

「その猫はうちの船の猫なんだよ、坊や」
「返してくれないか」そう言われて、一言も言葉を出せないまま、猫を
赤髪の男に差し出した。

「海賊がそんなに怖いかい?」
「よほど、クロのところで怖い思いをしたんだねえ、可哀想に」

そう言われて、S−1は心臓が止まりそうになる。
(なんでそんな事を)クロの事を知っている、という事は、自分の事も
この赤い髪の海賊は知っている、と思って間違いは無い。
その事が何故、こんなに怖いのか自分でも判らないけれど、S−1はただ、怯えて、
呼吸さえままならない。

「ど、どうしてクロの事を・・・」と独り言の様に小さく呟いたS−1の言葉を
聞いて、赤髪の男はクス、と笑った。
人の良さそうな、S−1が知っている海賊とは全く違う、温かみのある笑顔だった。

「海賊の間でチョイとした噂になってたから知ってるだけさ」
そう言いながら、雨からS-1をかばう様に黒いマントをその頭の上に翳し、
「死体でいいから海軍から奪い取ってくれなんて、あちこちの海賊に依頼してたからな」
「生きて、お目にかかれるとは思わなかったが、噂どおりの姿格好だから」
「港で見掛けた時、すぐに坊やがエスワンだって判ったよ」

一体、自分を見付けてどうするつもりなのか、S-1には皆目見当もつかない。
判っているのは、なんとか逃げなければ、また海賊に酷い目に遭わされるかもしれない、と言う恐怖だけだった。

「そんなに怖がらなくても、何もしやしないよ」
「むしろ、お礼をしなきゃならないと思ってるくらいだよ」と赤髪の男は
悪戯っぽく微笑んで、馴れ馴れしく、S-1の肩に手を回す。
「アバズレ猫だが、ネズミを獲るのは世界一上手い猫でね」
「こいつを見つけてくれて、親切にしてくれた、そのお礼をしなきゃならない」
「俺の船においで。絶対怖い思いはさせないから」

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