「ライから離れろ、クロ!」
S−1はそう怒鳴った。
膝頭が震えて、銃を持つ腕も小刻みに震えてそれを止められない。
クロの肩先から血が吹き上がったのを見た時、全身が戦慄いた。
ライを守らなければ。
そう思っただけなのに、体が勝手に銃を握り、そして発砲していた。
以前、海兵を撃ち殺した時と違って、S−1は意識を保っている。
けれども、それもかなり危かった。
目の前の景色が歪んで、グルグル回る。咽返る血の匂いに頭がくらくらし、
吐き気が込み上げた。足にも力が入らない。
S−1は熱射病に犯された人間の様に血の温度の変化に意識を浚われそうになりながらも必死で足を踏ん張った。今、意識を無くせば体がどう動いて何がどうなるか、
全く予想もつかない。
だが、そう判っていても目に映る映像のブレは酷くなる一方で、それなのに、
体は勝手に握った銃へと銃弾を装填した。その銃口は躊躇わずにクロに向けられる。
「クロ、離れて、早く!」S−1は泣きそうになりながら怒鳴った。
だが、クロはゆっくりと起き上がり、驚きとも、喜びともわからない表情を浮べて
じっとS−1を見ている。
(ダメだ、このままじゃクロの頭を撃ってしまう)S−1の背中に汗が噴き出る。
なんとか、意識の制御権をただの人造兵器として作られた本能から奪いとって、
体の自由を取り戻さないと、また惨劇の繰り返しだ。
照準を定め、引き金を引く一瞬前、S−1の左手は自由になる。
添えていた手で強引に銃身を握り、そのまま左足の太股に銃口を押し当てた。
「パン!」と言う音と共に左足を棍棒で叩き折られた様な衝撃にS−1は地面に
倒れた。
倒れ様、S−1は握っていた銃から手を離し、地面に投げ出す。
「S−1?!」クロが驚いた声をあげた。
一体、S−1が何をしようとしていたのか、判らなくて驚くのは当然だ。
「・・・っく・・う・・・」S−1は声を噛み殺しながらも地面に伏せて痛みに悶える。
クロは猫の手を慌てて脱ぎ捨て、S−1に駈け寄り、そして抱き起こした。
「俺を殺すつもりで撃ったんじゃないのか」とクロはS−1に尋ねる。
痛みに顔を顰めたまま、S−1は細く目を開けた。額から流れ落ちる汗が目に沁みて、
チリチリした。クロの質問に上手く答えを返せず、S−1は黙って頭を振った。
「俺はライを守りたかっただけ、」と切れ切れに答えるのが精一杯だった。
あの嵐の戦闘の後の事はS−1には全く記憶がない。
普通の人間なら、あれだけ酷い仕打ちをした海賊がいずれ死刑になると聞いたら、
「ざまあみろ」と思うだろう。だが、S−1はクロが捕えられたと聞いた時、
(今も生きているんだ)と思って安心したのだ。何故、安心したのかは誰にも
説明出来ない。過去にどんな仕打ちをされてもそれはあくまで過去の事、
クロはS−1を好きで、だから自由にしてやる、と言ってくれた。
S−1の記憶はそこで止まっている。
(やっと、俺が何を一番大事してるかって事をクロは理解してくれた)とS−1は
クロを信頼し、そして、その気持ちに少しでも自分なりに応えようとしていた
矢先の事だったから、クロが処刑されるのは心が痛んだ。だから、
その後逃げたと知った時、S−1はむしろ嬉しかった。
(これでクロは死ななくて済む)純粋にそう思った。
過去に何があろうと、S−1にとって大事なのは今現在とそして、未来に
R−1のもとへと帰る事だけ
そして、クロがライの部下を何人も惨殺した事も、S−1にはどうでもいい事だ。
自分を自由にしてくれたクロ、そしてR−1の元へ連れて行くと約束してくれたライ、
どちらをも守る為には、この方法しかなかった。
だが、それも考えての事ではない。咄嗟に取った行動に過ぎなかった。
「早く、逃げてくれ、もうすぐ海軍がここに来る」
「なんでお前は自分の足を撃った」クロはS−1の言葉に耳を貸さずに
また、質問をしてくる。(時間が無いのに、)とS−1は焦れた。
クロには海軍に捕まって欲しく無い。でも、きっと、銃を奪う為に殴って気を
失わせたタキが目を覚まし、やがてここに武装した海兵達を引きつれてやってくる筈だ。
「そうしないと、クロを撃つかも知れなかったから、」とS−1は自分の声が振動して
痛む足の傷を手で押えながらそう答える。「銃を撃った途端、頭がぼんやりして・・」
「また、前みたいに訳が判らなくなって人を殺してしまいそうで」
「しっかりしなきゃ、クロの頭を撃ちぬいてしまうって思ったら」
「これだけ痛い思いをしたら、きっと正気に戻れるって思ったから」
「だから、撃った」
クロは言葉を無くし、息を飲んでS−1を見つめている。
「バカな・・」そう低く呟き、クロは唇を震わせた。
「俺を撃ち殺さない為に自分を撃つなんてなんてバカな事を」
「銃を撃たないとクロはライを殺すだろ」
S−1はそう言ってクロの体に目を配った。
ライがつけた傷跡から血が滴り落ちている。
そして、ライを振りかえった。
血が沢山流れて、今にも死んでしまいそうだ。
(俺は生きてるだけでこんなに人を傷つける)
S−1は血まみれの二人を見てそう思った。悲しくなり顔を伏せながら、
クロの腕を解いて、足の痛みを堪えて立ち上がる。
泣きたいと思ってもいないのに、哀しみが心から溢れて雫が頬を伝った。
足を引き摺って、ライの側に歩み寄る。
「ライは俺をR−1のところに、」
S−1はライの体に触れた。まだ温かく、その温もりに思わず吐息が漏れる程
安心する。S−1はなんの武器も持たないまま、ライをゆっくりと優しく
傷ついた体を労わる様に抱き起こし、そして胸に抱いてからクロを振り返った。
「俺が一番帰りたいところに連れて行ってくれるって言った大事な友達だ」
「だから、これ以上、ライを傷つけないでくれ」
「何故、そいつなんだ」クロは悔しさや悲しさや、もどかしさに顔を歪めて
一歩、一歩、S−1に近付いて来る。
「俺だって、お前を」「クロには無理だ」俺だってお前の望む場所にお前を連れて行ける、と言い掛けた言葉をS−1は遮った。
「何故だ」「何故でも」クロの質問にS−1は即答する。
答えはきっとクロなら判る。
言葉で説明するのは愚か過ぎるからS−1は言わなかっただけだ。
思い上がりではなく、クロが自分を好きだと思う気持ちがクロを傷つけて、
狂暴にした事を今のS−1はしっかりと理解している。
自由にする、それだけがクロの精一杯で、それ以上の事は絶対にクロには出来ない。
クロにはR−1の元へS−1を送り届けるなどと言う事、
そこまで深く、無償の愛をクロが持ち得ない事をS−1は見抜いている。
だから、「クロには無理だ」と言う言葉が出たのだった。
「ライはたった一人だけを大事に想う気持ちを判ってくれる友達だから」
「俺はライと行く」
「生きててくれて、嬉しかった」そう言って、S−1はその言葉通りの気持ちを
満面に浮べてクロを見上げる。
クロの眼鏡には、鮮やかに優しく、そしてこれ以上無い程素直で思い遣りに満ちた
S−1の笑顔が映り込んでいた。
クロは言葉を失ったようにただ、佇んでS−1を見下ろしている。
悲しい程、その顔は無表情なのに、眼鏡の奥の眼差しは、為す術のない現実と
今だ消えないS−1を愛しいと想う心が苦しげにあげる悲鳴に揺れていた。
「S−1、お前は人の気持ちが判ってない」とクロは呟いた。
遠くで大勢の人間が足音を響かせてこちらに近付いて来る気配がする。
「どんな事をしようと、どんな目に遭おうと変えられないモノがある」
「例え、お前が目のまえからいなくなっても、俺は」
「お前が愛しい」
「お前がアールワン、とか言う奴をずっと想うのと同じだ」
「だから、お前に何を言われても何をされてもこの気持ちのやり場はどこにもない」
「そんな男がいる事をお前は一生、覚えておけ」
そう言うと、クロは身を翻した。
そして、あっという間にS−1の視界から消える。
その素早さを見て、S−1はどんなに海兵達が追い縋っても決してクロには
追い付けないだろうと確信して、安堵の溜息をついた。
ライとS−1はすぐに到着した海兵達によって手当てを受け、ただちに病院に
運び込まれる。
「ライさん!しっかり!」と運ばれる担架に乗せられたライの側につきっきりで
タキは声を張り上げる。
(ごめん、タキさん)タキの必死な顔を見てS−1は心が痛くなる。
だが、それも束の間、S−1も出血が酷くて眠る様に意識を失った。
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