「このまま、意識は戻らないかも知れません。」とライに従事ている軍医は言った。
「まさか。」ライはその言葉を信じなかった。
さっきまで、よろめいていたとは言え、壁伝いに歩き、話をしていたのだ。
ライの袖口を掴んだS−1の手の力はそんな儚いものではなかった。
「これ以上、治療を続けても彼には苦痛だと」
「それは普通の人間だったらでしょう。」とライはきっぱりとした口調で、
軍医の言葉を遮った。中年の軍医はそのライの厳しい口調に驚いてまっすぐにライを見る。このミルク中佐がこんなに感情的になるのを彼は初めて見たのだ。
「必ず、意識は戻ります。僕が諦めるまでは絶対にドクターも彼を見捨てないで下さい。」
軍医はもはや、自分だけの力で呼吸さえ、体温さえ、ままならなくなったS−1を
溜息混じりに眺める。
そう言って、執念深く治療したライの部下が何人いただろう。
奇跡的に回復した者、軍医の診立てどおりに回復せずに死亡した者、その確立はおおよそ、
半分、半分だった。
ライは自分の部下の命を自分の命以上に大切にする。
人の命がかけがえのないものだと言葉ではなく、行動で示す上官だからこそ、軍医は
自分の技術と知識を総動員して従って来た。
だが、今、溜息をついたのは決してS−1に対する治療が億劫だった訳ではない。
「見捨てないで助けて欲しい」と言うライの気持ちに添えそうもない事が判っていて、
軍医はそれが辛かったのだ。
けれども、「判りました」と答えるしかない。
意識のないS−1の力なく投げ出された手をライは握って、名前を囁く様に呼ぶ。
「S−1、負けるな。」
それに答えるように、S−1の手はライの手を握り返してくる。
(聞こえてるんだ。)自分の声、自分の意志がS−1に届いている事が判って、
生きる事をS−1は決して諦めていないと判って、ライは期待する。
クローンが人間の数倍、いや、それ以上に治癒能力が高いなどとライも軍医も知る由もない。
S−1の体内では普通の人間では絶対に考えられない速度で治癒が進んでいる。
けれど、意識は依然として戻る気配がない。
体の傷はほぼ塞がった。
抉られた肉も、引き千切られた血管も縫合された個所が判らないほどになった。
「やはり、脳の傷が原因でしょう。」とS−1が昏睡に陥ってから三日目に軍医はそう断定した。
ライの手を握る、S−1の手の力は理性や加減を越えて、凄まじく強い。
S−1の手は、その指先が白くなりライの指の根に爪が食い込んで皮膚が破けるほどの強さで、素手のライの手を握り込む。
ライの手の甲の小骨がピシピシと軋む。
(・・・っツ・・・)ライは手が握りつぶされてしまうかと思うような痛みに耐えた。
素手で人の温もりに触れるのは、一体、何年ぶりだろう。
ライは打撲のような青痣が残る手を擦りつつ、本当の眠りについたS−1の寝顔を見ながら
考えた。
(やっぱりサンジさんの遺伝子なんだ。)
こうやって直に触れても、吐き気も悪寒も感じない。
ただ、違うのは同じ形、同じ触感の手を握っていても、ときめくような動悸を一切感じない事だ。
「S−1、僕の名前は本当はトレノ、じゃないんだ。ライって言うんだ。」
意識のないS−1にライは一方的に話し掛け続ける。
眠りもせず、禄に食事もせず、s−1の意識が戻る事を信じて、自分の怪我などお構いなしに、
片時も離れずにS−1の側にいた。
そして、1週間が過ぎた。
脱走したクロの行方は判らない。
朝が明けて、数時間が経った頃、なんの表情もなく眠っていたS−1が苦しげに眉を顰め、
ライの手をまた、力強く握る。
だが、この時は脳がS−1の筋肉の成長から算出した適正な握力でライの手を握った。
静か過ぎ、それでも整っていた呼吸が荒く、細くなる。
「S−1、S−1.」、とライはここぞ、とばかりにS−1の体を揺さ振った。
ほんのり、と汗の匂いがした。初めて出会うその匂いにさえ、ライは愛しさと懐かしさを同時に感じる。
普通、意識のない人間が覚醒する時、そんな乱暴な事は絶対にしないのだが、ライは
S−1の細い首がガクガクと揺れるほど強く、その細い体を揺さ振って
夢から醒めかけたS−1の意識を必死で呼んだ。
うっすらと薄い瞼が細く開き始める。
薄紫の瞳がその隙間から見えた。
ベッドに伸しかかる様に覆い被さり、S−1の背中に腕を通して半ば強引に抱き起こした。
空いている手で汗ばんだ額を掌で撫でて、反対側の目を覗く。
紫色の瞳よりも、ライは蒼い色の方を見たかったからだ。
「ライ。」とS−1はか細い声で「ライを確認できた、」と伝えようとその名前を呼んだ。
「聞こえてたんだね。」と答えるライの表情に笑みが滲む。
「僕はライだ。」
「R−1は?」とS−1はライに抱きこまれたままでそう尋ねた。
ライは首を横に振る。
「なんで。」とS−1は眼を閉じた。
「俺がこんなに待ってるのに、なんで来てくれないんだ。」と呟くと同時に
閉じた瞼のまなじりからぷっくりと一滴、朝露のような雫が膨れ上がった。
「俺は、サンジ・・・ってヤツのクローンなんだ。」とS−1は独り言かと思うくらいに
小さな声でそう言った。
「あーるわん、はロロノア・ゾロってヤツの。」
判ってる、あんまり話しちゃダメだ、体に触る、と言い掛けたライを唐突にS−1はぱっと目を見開いて見上げる。
さっきまで意識をなくしていた、半分屍の様だった人間とは思えない、たくさんの
感情が篭った眼差しだった。
寂しさ、辛さ、孤独、そして、それにもはや耐えられなくなった苦しさ。
サンジと同じ顔、けれども、両の目の色が違う様を露骨に見た時、ライははっきりと
彼は、サンジではない、似ても似つかない他人だと言う認識が心に根ざすのを感じた。
サンジとは全く違う種の感情がライの心の中に生まれ出る。
寄る辺のない子を見つけた。その子を愛らしく思い、また憐れに思い、そして愛しいと思う。
そんな流れがライのS−1に対する感情を形作って行く。
「R−1は本当はサンジが欲しかったけど、それが出来なくって俺を作ったんだ。」
「こんなに俺が呼んでるのに来てくれないのは、」
その不安はクロの船に拉致されてから、心に浮かんでは何度も打ち消してきた事だった。
それを認めてしまったら、生きていく気力など持てる訳ががない。
R−1が助けに来てくれる。
自分にとって、R−1以外の人間など要らないと思うくらいに、R−1も自分以外の者などに
目もくれない筈だから、きっと自分を探し出して助けてくれる。
その日の為に生き抜かねば、と思って来た。
だが、ずっと寄生虫の様にS−1の心に潜んでいた不安はこの瞬間に唇をついて噴出した。
「もう、俺の事は要らないと思ったのかも知れない。」
「また、俺を造った見たいにもう一人のサンジを創ったのカモ。」
「バカな事言うんじゃないよ。」とライはポタポタと白いシーツへと零れ落ちる
S−1の目から降る雫を見つめて優しい声でそう言った。
「あーるわんってヤツがロロノア・ゾロのクローンなら絶対にそんな事はしない。」
「それは僕がよく知ってる。」
そう言いながら、嗚咽が漏れない様に口を塞ぐS−1を包み込む様に抱き締める。
抱き締める、と言うには余りに柔らかく、優しく、温かい抱擁だった。
「迷子になってるだけだよ。」
「きっと血眼になって君を探してる。」
「そんなの、なんの根拠もねえ。」とS−1は驚くほどの明朗な声でそう答えた。
ライに頭を抱き込まれ、その胸に顔を軽く押しつけられる。
涙が止めど無く溢れた。
誰かに違う、そんな事は有り得ない、と言ってもらいたくて自虐的な言葉ばかりが
頭に浮かぶ。けれどそれを整理して、はっきりとした言葉で話せるほどs−1は
冷静ではいられなかった。
嗚咽しか喉をついて出て来ない。
R−1が自分を探している、と言う揺るぎ無い事実だけが欲しかった。
慰めやなんの根拠もない憶測など聞いても、最早、気休めにさえなりそうにない。
「S−1、落ちついて聞くんだ。」ゆったりとしたライの声で、S−1は幾分、
理性を取り戻す。
子供みたいに泣いてみっともない、とほんの少し恥かしくなり、顔をあげられないままで、
ライの話しに耳を傾けた。
「僕は、ロロノア・ゾロともサンジさんとも、一緒に旅をした事がある。」
「ロロノア・ゾロって人がどんな風に人を愛するかって事を僕はずっと知ってる。」
「だから言えるんだ。」
「大丈夫、君のR−1を信じぬいていれば、必ず会える。」
トップページ 次のページ