S−1は息が苦しくて目が醒めた。

ここはどこだろう。
何故、こんなところにいるんだろう。

見上げたら、天井が見え、顔を横に向けたら真っ白なカーテンが見え、
痛いくらいに重い眼球を動かして自分の周りを伺うと、
たくさんの管やそれに繋がった液体の瓶がぼんやりと見える。

頭がクラクラして、視線が定まらない。
天井がグルリと回って銀色に光る器具がやけに眩しい。

自分の体がどうなっているのか、混乱しているS−1にはどうでも良かった。
その混乱の所為で、自分の名前さえ思い出せないのに、会いたい人がいる、
その人に会う事だけを切望して、S−1は起き上がった。

腕と首の根元に刺さっていた邪魔な管を抜く。

「R−1」、島に着いたら会える。
なんの、根拠もないのに、S−1はそれだけを希望にして数々の苦難を越えて来た。
そしてまた、なんの根拠もないのに、この建物を出れば、R−1が待っているような
気がして、名前をつぶやく様に呼び、ベッドから床に向かって足を下ろす。

ひんやりと冷たい床の感触と同時に腸全体に感じた事のない激痛を感じた。

S−1が目を醒ましたのは真夜中だった。

側に誰もいなかったのは、S−1が昏睡していて、容態が少し落ちついたから、
そして、収監されてきた囚人の一人が脱走し、その際、多くの海兵が斬殺され、
または重傷を負わされて、そちらへ看護兵、軍医が出向いていったからだ。

S−1は壁を伝ってフラフラと歩く。
包帯で巻かれた体は燃える様に熱くて、痛みに耐える為に食いしばった口の端に
額から滴る汗が流れて落ちる。

素足で歩く、ペタリ、ペタリと言う音が静まりかえった廊下に響いた。
はあ、はあ、はあ、と自分の息遣いが耳触りだった。
歩いても、歩いても、出口が見えない。

どれくらい無我夢中出歩いたか判らないが、闇雲に歩きまわった挙句、
ついにS−1は力尽きて、へたりこんだ廊下の一番近い、窓の側に這いずって行く。

「あー・・・・、」R−1、外にいるんだろう、俺はここにいるんだ、と
叫びたいのに、それしか声が出なかった。

声さえ出せば、きっと見つけてくれる、と力を振り絞る。
腹に力を入れると痛みで目の前が真っ赤に染まった。

この島に、この建物の外に、この窓を開けたら声が届くところにR−1はいる。
そう信じる事だけがS−1の命を繋いでいた。

ここまで生き抜いて来た理由は、たった一つしかない。
1度は諦めてしまいそうになったけれど、今は絶対に諦めない、
生きて、R−1に会う事も、
R−1に「S−1」と呼んで抱き締められる事も。

それなのに、もう力が出せない。
窓に手を掛けて、鍵を開けて、会いたくて、ただ、会いたくて、
それさえあれば他に何もいらないくらいに大切な人の名前を呼ぶだけの事が
出来ない。

床にぺったりと頬をつけてS−1は眼を閉じる。
(少し、休めば・・・・)力が出せるかも知れない。床と自分の頬の間に、
R−1からもらったピアスを埋め込んだ自分の掌をゆっくりと差し入れる。

ゴロゴロと少し違和感の有る掌の感触を頬に感じた。
その僅かな安堵は、細い糸の様にピンと張っていたS−1の気を削いだ。
全身の力がまるで、全身の毛穴から蒸発する様に抜けて行く。
そのまま、S−1は真っ暗な闇の中に引き摺り込まれそうになり、
また、息が細くなってくるのが自分でも判った。

(息の根が止まる)と言うのは、こんな事なのか、とぼんやりと思う。
口の中に生暖かく、生臭いモノが溢れてきて、唇の端からポトリと一滴、
零れ落ちていった。
死神の手がひんやりとした手でS−1の足首を掴んでいた。
その骨しかない手は、S−1の体温を奪って行く、その不気味な姿さえ見える様な気がした。全ての体温を奪われた時、あの真っ黒なマントに覆われて2度とR−1には
会えない所へ連れていかれるに違いない。

(誰か、)助けて欲しい、とS−1は心の中で叫ぶ。
R−1のところに俺を連れて行ってくれる者なら、誰でも構わない。

「エスワン、しっかりするんだっ。」

誰かが呼んだ声でS−1は忘れそうになっていた呼吸を再開する。
目を開けて見ると蒼い目と蒼い髪が真っ白な天井の寒寒とした光りの中に
見えた。

「・・・トレ、」ノ、とS−1はその男の名前を呼んでみる。
トレノだと、すぐにわかった。

(ああ、)良かった、とS−1は嬉しいと感じた。
R−1と似た掌の温もり、声の質、自我を表に出せなくても、トレノが優しくして
くれた事はしっかりと覚えている。
海に沈んで死んでしまったとばかり思っていた、生きててくれて嬉しいと思った。

「大丈夫、大丈夫だから。」
「大丈夫だから。」

大丈夫、とトレノは何度も言った。
それ以外の言葉を知らないくらいに、必死にそう言ってS−1を励ましながら、
抱き抱えて走る。

「すぐに君の会いたい人に会える、きっと会えるようにするからしっかりするんだよ。」

ライも結構な重傷で、安静を言い渡されていた。
自分が捕縛した、キャプテンクロが脱走した、と聞いてすぐにその指揮を取るつもり
だったのだが、医者に「脱走した海賊を追うのはあなたの任務ではない筈です。」
「せめて、内臓の傷が塞がるまでは安静にしていて下さい。」と厳しく言われ
ジリジリしながらもベッドにいた。

しかし、ふと、胸騒ぎを感じて、誰もいなくなった病院の中、S−1の容態を
案じてS−1の病室へ来たら、案の定、S−1がいない。

窓の側で見つけた時、脈も呼吸も鼓動も、止まる寸前だった。

すぐにS−1をベッドに横たえ、朦朧としているS−1の耳元で、
「今、先生を呼んでくるからね。大丈夫、すぐに楽になるから、頑張るんだよ。」と
怒鳴る。

「トレノ、」駆け出そうとするライの袖を、S−1は唐突にギュっと握って呼びとめる。

体の中の全ての力を集約して、やっと出せた力はライが驚いて目を見開き、
息を飲むほどの強さだった。

「R−1のところに」
「俺を、」
「連れて行ってくれ。」

視線を固定出来ないくらいに危険な状態でs−1は切れ切れにそう言った。
「わかった。約束する。俺が、必ず、君をR−1のところに連れて行く。」

ライは戸惑いなく、まっすぐにS−1を見据えてそう答えた。

「うん。」とS−1は頷くとゆっくりと掴んでいたライの袖口を離し、意識を失った。

ライはすぐに将校付きの医者を手配して、S−1の治療に当たらせる。
ついで、病院のまわりの警戒を強める様、部下達に指示した。

そして、「S−1の生死については絶対に口外してはならない、」と厳命する。

クロには「S−1は死んだ」と伝えた。
そうすれば、奪還する事を諦めるだろうと思ったからだ。
(まだ、諦める気はないのか、それとも)自分の嘘などお見通し、と言う事か、と
クロの執念深さを不気味に感じた。

S−1は昏睡状態に陥った。

体にめり込んだ銃弾よりも、脳へのダメージが最も大きいと言う。
だが、医者は「有り得ない治癒のスピードです。ひょっとしたら助かるかも知れない。」とライに明るい見とおしを伝えてくれた。

(でも、もし、目が醒めても彼はそれだけじゃ幸せにはなれない。)とライには
判っている。

サンジにゾロが必要なように、S−1にもR−1が必要なのだ。
幸せになる為ではなく、生きて行く為に水が、空気が必要なのと同じ様に。

クロがS−1の事を諦めていないのなら、体が治ったからと言って
海軍の保護から放り出してしまえば、またあの苦しいだけの生活が待っているだけだ。

(俺が。)

どれだけサンジに焦がれて、サンジを愛しても、報われない。
サンジを守りたいと妄想しても、自分よりもサンジは強く、またサンジを守るべき者は
自分とは比較出来ないほどの強い男であり、サンジの人生において、
自分は全く必要のない人間だとライは知りすぎるほど知っている。

けれど、知っているからといって想いを堰止める事を出来ずにいる。
それが苦しくてずっとその苦しさを胸に抱えて生きている。

例え、一時でも構わない。
例え、偽りでも構わない。

S−1を守る事でその苦しさから逃れて、イミテーションの宝石でも満足してしまう
愚行であっても、ライは夢を見たかった。

(俺が、守る。彼の望む場所に俺が送り届けよう)

海軍の中で戦いつづける事だけを自分の生きる道だと思い定めてきた事を
ライは初めて曲げた。

海軍の将校、と言う肩書きを捨てて、S−1とR−1を再会させる旅に
出る決意をする。


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