「降伏する、だから、医者を。」
「こいつを死なせないでくれ、助けてくれ。」

「大至急、将校付きの軍医をここへ。」ミルクこと、ライは腹を抉られた傷を押さえ、
部下にそう命じた。普通の負傷兵を治療する軍医よりも将校クラスが負傷した時に
手腕を振るう軍医の方がはるかに技術が高い。

最早、戦意を喪失したクロに海兵達が踊りかかって、あっという間にS−1と
クロを引き離した。
今、離れたら2度と会えない、と言う確かな予感がクロの心を真っ黒に塗り潰す。
「S−1、死ぬな。」と気が違った様に怒鳴る事しか出来ない、
これほど、自分が無力な人間だとクロは初めて思い知る。

何物も怖れる事はなかった。麦わらのルフィに叩きのめされた後も、
何かに怯えた事などないし、怯える理由もなかった。
だが、クロは海軍に捕縛され、自身が世界政府の定めた法に乗っ取って、
死刑になるやも知れないと言う怖れなどよりも、自分をかばって海軍の銃弾の前に
倒れたS−1の命が費えてしまう事が怖かった。それこそ、全身の毛が総毛立つ程の
恐怖と哀しみだった。

ライは軍医がクロの船に乗り込んでくるのを待った。
抱き上げて装備の整った軍艦に連れて行くべきかと思ったが、今は、
無闇に動かさない方がいいと判断したのだ。

腹の傷の痛さなど少しも感じなかった。

想い続けている人ではないと判っていても、似過ぎている、まるで写しとったかと
思うほど、S−1はサンジに似すぎていて、ライも呼吸を忘れそうになるほど、
動揺している。

(死んじゃ、ダメだ。)と誰もが既にあきらめて、呼びかける事もなく、甲板に
横たえられたS−1をライは柔らかく抱き上げて血まみれの顔を覗きこむ。

「しっかり、目を開けるんだ、S−1.」
「もうすぐ、島に着く。」

そう呼び掛けたが、S−1の瞼は微動だにしない。
血を流し、息も絶え絶えのサンジを抱いているような錯覚をライは覚えて、
全身に汗が噴出した。

その数時間後。
ライ達の軍艦とクロの船団は最寄の島に到着する。
すぐにクロは独房に厳重に監禁された。

「S−1は助かるか。」とクロは自分を牢屋に投獄した海兵に噛み付く様に尋ねる。

「死ぬだろうな。」とその海兵は目に全く表情を宿さないで飄々と答えた。
日々、繰り返される海賊との闘いの中、命の尊さや価値に無神経になって行く
者は珍しくない。

「あいつが死んだら、貴様ら、一人残らず殺してやる。」とクロはうなる様にそう言ってぞっとするほどのすさまじい目つきを海兵に向けた。
「吠えてろ。」と海兵は淡々とした中にも僅かに蔑みが混じった声で言い、
「腹も胸も撃ち抜かれて、頭にも弾がめり込んでる。どうやったって助かる訳ない。」
「我々に発砲したんだから、銃殺されても仕方ないだろう。」

海兵はクロに止めを刺す様に、「保ってもせいぜい、朝までだな。」と答えて
牢屋から出て行った。

(腹、頭、胸、だと。)クロは海兵の言い残した言葉を反芻して愕然とする。
まだ、返り血がこびりついたままの両手で顔を覆った。

瞼を閉じると、脳裏に焼きついたあの瞬間の映像が浮かぶ。
今まで、銃で撃たれて死んだ者を数えきれないくらいに見てきた。
だから、S−1がどんな状態にあるのか、おおよその見当はつく。

腹、胸を撃ちぬかれ、頭の中にも銃弾を受けたなど、即死していても不思議ではない程の重傷の筈だ。

(違う、こんな目に遭わせる為に俺は。)S−1と出会ってしまったなどと思いたくはなかった。S−1を死なせる為だけに出会ったのだとしたら、それはあまりにも
残酷で惨めで、哀し過ぎる運命だ。誰に呪い、誰に祈っていいのかさえ、
クロには判らない。

「お前が彼を浚わなきゃ、彼はこんな目に遭わなくて済んだんだ。」

床にへたり込むように座り、両手で顔を覆って激しい後悔に身じろきできずにいたクロは牢屋の外、鉄格子の向こう側に、自分達を倒した指揮官であるライが
訪れていた事にさえ、ライの声を聞くまで気がつかなかった。

「違う、貴様が俺の船を陥れるような真似をしたからだ。」とクロは呪詛の様に
声を絞り出した。祈る相手は見つからなくても呪う相手は目の前にいる。

「俺は、この島でS−1を」解き放ってやるつもりだったと言うクロの言葉を
「彼がどれだけ辛い想いをしてたか、俺は知ってる。」とライは遮った。

「お前の所為で、彼は死んだ。」

ライの言葉を聞いて、クロの思考が止まった。
「カレハシンダ。」とライが言った言葉はただの音にしか聞こえず、
意味が理解出来ない。クロの感情がその言葉を理解する事を拒否しているからかも知れない。

「嘘だ。」だが、理性は数秒凍結しただけで正常に動き出す。
「嘘じゃない。」とライはさっきの海兵と同じ様に抑揚のない口調で言う。

「お前は2度と、彼に会うことはない。」
「嘘だ。」クロは鉄格子に体をぶつける様にして、背を向けたライに怒鳴った。

「S−1を助けると言っただろう、貴様!」「あれは嘘か。」
「貴様、殺してやる。」クロは思いつく限りの罵声を喚いた。
信じたくはない。信じられる筈もない。亡骸を見るまでは絶対に信じたくなかった。

脳裏には閃光の様にS−1と過ごしてきた日々の映像が浮かぶ。
「嘘だ。」何も答えず、牢屋からライが去った後、クロは全身の力が抜けきったように
ズルズルと崩れ落ちる。「俺の所為、俺の所為なのか。」

初めて心から愛しいと思い、愛しくてどう扱うべきかさえわからないほど
大切な存在だと思ったS−1とこんな形で引き裂かれるなど、クロは
予想だにしなかった。信じたくないと言う猛烈な思いと同時に、
それと同じくらいの強さで後悔が心の中に噴出してくる。
何故、もっと優しくしなかったのか、何故、あんなに悲しませる様な事ばかりを
繰り返したのか。

けれど、「S−1、」と慟哭しても、クロは諦められなかった。
亡骸でも構わない。それならばいっそ誰にも触れる事がない様に、
海軍などに渡してはならないと、目から止めど無く溢れる涙を拭って
唇を引き絞った。

「待ってろ、S−1.」クロの目に悲しみの光りではなく、その所為でより狂暴になった光りがくっきりと浮かぶ。

「ドクター、どうですか。」とライはこの基地で最も医療設備の整った部屋を訪ね、
その部屋で危篤状態である患者の枕もとにいた看護兵に声を掛けた。

「ミルクさん、どうしてこんなところに。」とその女性看護兵はライに声を掛けられ、
すぐに振りかえり、大仰に声を荒げた。

「まだ、動いていい、と言う許可は出ていない筈ですけど。」
「こんなの、怪我のうちには入りません、それより、彼は」

ライは看護兵が自然に見やった視線をなぞって、その部屋の奥のベッドに
横たえられている「彼」を見つけた。

「手術で銃弾は全部、摘出して。」
「でも、普通だったら生きてるワケがない、って怪我でした。」

看護兵の言葉を聞いて、ライはほ、と顔を和ませた。
「そうですか。」

「この三日間がヤマですよ、ミルクさん、」と将校つきの軍医がライの背中から
声を掛けてきた。「こんな患者は私も初めてで、的確とは言えませんが、」
「じゃあ、まだ、予断は許さないって事ですか。」とライは軍医に僅かに
眉根を曇らせて尋ねた。
「ええ、助かる可能性は五分五分だと思っててください。」

ライはそれを聞いて、そっと「彼」が死の淵にある病床へ近付いて、すぐ側に
ひざまづく。
荒い息は高熱の所為だろう。見れば見るほど、サンジそのものだ。

「頑張れ、S−1.」
「もうすぐ、君のロロノア・ゾロが迎えに来るから。」

その声に反応して、S−1の瞼が僅かに動く。
(意識が)戻るかも知れない、とライは更にS−1に呼び掛けた。

「S−1、」
「あ、」瞼が開くより先、S−1の口から声が零れた。

「何?」とライはすぐに耳をS−1の口に寄せた。屈んだ腹のあたりで「ビリッ」と痛みが走ったが、気にもしない。

「あーる、ワンは、」
(あーるわん?アールワン、R、1、)ライはs−1の言葉を聞いて、
暗号を解いたように急にその意味が判った。でも、有り得ない事だ。

(エス、ワンってサンジのS、Rって、ロロノア、のRか。)
まさか、人間のクローンを培養して、いきなり19歳に育てる技術があるなど、
ライが知っている筈もなく、S−1とR−1の名前の由来に気付いたからと言って、
それがなんの役に立つと言うワケでもない。

今は、そんな事よりもS−1を励まし、生きる気力を奮い立たせて
三日、と言う山場を乗り越えてもらえるように出きる限りの事をするだけだ。

「アールワンはいつ、ここに来る?」
S−1は消えそうなほどか細い声でライにそう尋ねた。



「明後日だよ、きっと連れてくる。だから、辛いだろうけど、頑張らなきゃ。」

(さっきから嘘ばっかり言ってるな)とライは自分の言葉に呆れながら、
S−1の手を握る。その肌の色も爪の形もやはり、忘れた日などない、
幼い少年の日に口付けたサンジの手、そのものだった。

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