「海軍だ!」船を操舵していた乗員が、いち早くそれに気付いたが、その声は
あらかじめ、船に潜入していた海兵達の決起によって掻き消される。

クロが異変に気がついたのは、甲板から尋常でない衝撃が自室にまで
響いたからだ。

(なんだ、一体。)奇襲に関しては、隙のない布陣を敷いていた筈なのに、と
クロはすぐに身支度を整える。

「S−1、大丈夫だ。すぐに追っ払ってやる。」
自分がまどろんでいる間にも、S−1は眠れなかったのだろうか、
不安げ、と言うには、余りに心細げな顔をして、船長室のドアを眺めていた。
その不安を和らげてやろうと、クロはそう言って声を掛け、自分の武器を
装備する。

まもなく、男達の怒声と悲鳴があがった。

(どうしたらいいんだ。)と自分が取るべき行動が判らず、濃い戸惑いを宿して、
S−1はクロを見た。只ならぬ騒音に怯えた子猫がS−1の膝に飛び込んで丸くなり、
震えている。

「ここにいろ。なにがあっても出てくるんじゃない。」
「お前は、俺が守る。」
クロの心の中に浮かんだ感情が紡ぎ出す言葉は、なんの変換も混ざりけもなく、
唇から飛出して行く。S−1に対して、クロは誰にも見せたことのない純粋な心、
偽りのない姿を剥き出ていた。

「クロ、」

S−1はクロに真っ直ぐな目を向けて、クロを呼んだ。
それから、自分でも何故、そんな言葉が喉をついて出たのか、理解出来ないとでも言うように、途切れ途切れに声を出す。
「気を」
一言、一言を区切る度、紫色の視線が乱れる。
「つけて、くれ。」そうして、どうにかその言葉を結び、その後、本当に心配そうな
眼差しで、またクロを真っ直ぐに見つめる。
「何も心配するな。」クロの心の中に華やかな嬉しさが芽吹いた。
S−1のその表情と心細げな声音で言った短い言葉は、
クロに自分だけを見、自分だけを案じている、と錯覚させるのに十分過ぎた。

次の島で降ろしてやる、と言う決意と引き換えにクロはS−1との信頼関係を
築いたと言うことさえ、一瞬頭の中から消えた。
(やはり、俺はこいつを離せない。)と心の中に芽吹いた感情のまま、
クロはそう思った。

しかし、戦況は予想以上に不利だった。
武器、弾薬、火薬の類がことごとく使えない。
こちらの目潰しになる閃光弾は、それを無効にする装備をしている海兵達には
おあつらえむきの光源になり、部下達は次々に狙い撃ちされていく。

「降伏しろ、キャプテンクロ、」
「貴様は。」

海兵達を幾人か、切刻んだ後、自分の抜き足の前に立ちはだかった
青いジャケットの海兵がクロに短い刀の切っ先を突き付けた。
その顔を見て、クロは歯噛みをする。

海に落ちて死んだと思っていた、トレノだ、とその体つきと声でわかった。

「海兵だったのか、貴様。」そのクロの呪詛のような声に「トレノ」こと、
海軍将校で、この艦隊の指揮官であるミルクは何も答えない。

他の者の目には、二人の動きは目に止まらない。ただ、甲高い、金属音が鳴るだけだ。
甲板にクロの手袋から欠け落ちた刃が乾いた音を立てた。

「キャプンテン!」とクロの部下達が次々とクロの戦闘に声援を送る。
指揮官さえ潰せば、海軍など怖れる事はない、と海賊達は海兵の戦術をそんな風に
理解している。
だが、ミルクはそれを承知の上、クロに挑む。
クロの戦闘能力の前にいくら部下達を武装させて数を揃えて挑んだところで、
部下の犠牲の方が大きいと踏んで、海賊こそ、「頭を潰せば崩れる」と踏んで、
クロに勝負を仕掛けたのだ。
海賊と海兵達が固唾を飲んで、その勝負を見守る中、甲板の上の疾風が
止む。その途端、誰の目にも、クロとミルクの姿がやっと捉えられた。
「海兵にしておくのは勿体無い奴だ。」とクロは肩先から血を流し、10本の刃のうち、
左右合わせて6本を叩きおられた姿で不敵に口を歪め、ミルクを蔑む様に笑った。

「それだけの度胸と腕を持っていながら、世界政府の犬扱いか。」
「降伏しろ、キャプテンクロ。お前に勝ち目はない。」

クロの言葉にミルクは一片の迷いも動揺も見せず、抑揚のない声で答える。
「降伏しなければ、部下を皆殺し、この船を沈める。」

「勝ち目はあるさ。」とクロは、自分の手で与えた、ミルクのダメージを目で
確認しながらほくそ笑む。
右手首、左足の太股を突き刺した。そのおかげで、刃を2本、失ったけれど、
時間を引き延ばせば、勝手に失血して死ぬだろう、と計算している。

「貴様を殺せばいい。」クロが動いたのと全く同時にミルクは刀を右手から
左手に持ち替え、その途端、クロの刃を狙い済まして、
ミルクの刀身がバネで弾かれたように飛んだ。

(仕込み刀かっ)と思った時には、クロの利き手にミルクの刀から飛ばされた鎖と
刀身がぶら下がり、動きを拘束される。

すぐさま、クロは手袋を脱ぎ捨て、後に飛び退った。
その足になにやら、柔らかいモノを踏んだような感触を感じる。

「シャッ〜〜ッ」とクロの足の下で猫が悲鳴をあげた。

(な)
なぜ、猫がここに、とクロはその猫を見て蒼ざめる。
灰色の子猫、S−1の心の拠り所だった、あの子猫だった。

クロは着地の際、その猫の尻尾を踏んづけていたのだ。

(ッチっ)この猫を安全な所へ移動させないと、と戦闘に向かっていた気が削がれる。
もしも、この猫が戦闘の巻き添えを食って死んだら、S−1が悲しむ、
部下の誰一人をも庇った事のないクロが、子猫を守る為に
海兵に背を向けた。

クロは身を翻し、部下達の頭上高く、跳躍する。胸に灰色の子猫を抱いて。

「撃て、逃がすな!」とミルクは狙撃手達になんの迷いもなく、命令を下す。
狙撃手達は、一斉に照準を合わせた。

膠着していた戦局がまた、大きくうねる。

不備な武器では訓練され尽くして万全な装備を整えている海兵達に太刀打ちは
出来ず、為す術はない。
それでも、クロは猫を優先した。猫のいないところで再び、ミルクを対峙し、
そして、ミルクさえ殺せば、海兵達など何十人いようが、所詮は雑魚の寄せ集め、切刻んで海に投げ込んでやる、と言う気力は尽きていない。

一人の狙撃手が盲滅法発射した銃弾だった。
杓死の動きに近いスピードで動くクロを目で捉えられず、狙撃手達は物音を頼りに
闇雲に闇雲に銃を発砲していて、その一発がクロの太股を撃ち抜いた。
疾風の様な自分の動きの衝撃にクロは吹っ飛んで、甲板に叩き付けられる。
それでも、胸にはまるで、S−1自身を守るかの様にしっかりと子猫を抱いたままだった。

「っくっっ・・・っ!」降伏した、と見せかけて、ミルクが近付いたところで
胸を一突きにしてやる、とクロは猫を抱いて、クロは起き上がり、追い縋ってくる
敵を待ち構える。

「武器を捨てて、甲板に伏せろ。」ミルクは距離を取って、クロにそう言い放った。
「その前に、猫を預かってくれないか。」とクロは灰色の子猫をミルクに差し出す様に柔らかな首根を掴んでぶら下げて見せた。

「大事な猫なんでね。」ミルクがトレノだったのだから、この猫の意味が判っている筈。
猫を受取る為に絶対に近付いて来る、とクロは読んだ。

「判った。」「ミルクさん、危険です!」ミルクは抜刀したまま、クソ真面目に答えると
すぐに側にいた狙撃手が反対の意見を喚いた。

この猫の意味。
クロは猫を庇おうと船内を逃げまわっていた。猫が傷ついたり、死んだりしないように、ミルクに差し出す、と言う事は、やはり、
S−1をこの上なく、大事に思っている証拠だと判断出来る。

「S−1を無事に保護しよう、約束する。だから、降伏しろ。」

そう言えば、クロは降伏するだろう、とミルクは咄嗟にそう計算した。
一歩、一歩、と甲板に力尽きた様な態で座り込んだクロにミルクは近付く。

警戒はしていたつもりだった。

「甘エ、所詮貴様はそれだけの男さ、」とクロが嘲笑った。
ミルクの顔面に猫が投げつけられ、腹に一文字に焼け付くような一閃が走った。

撃て、と言う指示はなかった。

猫が甲板にふわりと降り立つ。
ミルクが膝をついた、その背中ごしに彼の部下達の照準がクロの頭に合わせられた。

彼らの引き金が引かれる、一瞬にも満たない刹那の直前、
クロの目の端に銀色の髪が映った。

銃声が先に起こったのは、S−1の手に握られた銃口からだった。
S−1の発射した銃弾はミルクの二人の部下達の手から銃を弾き飛ばした。

そこからの映像も音も、クロにはあまりにゆるやかに感じられた。
目に映る映像だけが鮮明で音が消えた。





プスっプスっと言う乾いた、軽過ぎる音だけしか耳に入らなかった。
その音は、S−1の肉体に穴を穿って、めり込む音だと言うのに。

自分の怒鳴り声でさえ、夢の中で魘されているかの様だった。
遠くで誰かが怒鳴っているのを聞いているのに似ている。


「「S−1っ。」」クロとミルクが怒鳴った声はぴったりと重なって銃声の余韻を追う。


「撃つなっ、撃つんじゃない!」ミルクは腹を押さえ、部下達を振りかえり、
形相を変えて怒鳴った。

「S−1、S−1ッ。」

クロは甲板を這い、崩れ落ちるS−1を抱き止めた。
S−1の瞼が震えながら閉じられつつある。

抱き締めたS−1の背中からもクロの手に温かさを感じる赤い液体が滴り、
潮風よりもずっと濃い鉄の匂いが立ち込め始める。
銃を握っていた手から力が抜けて、ゴトリと甲板に銃がずり落ちる音がした。
クロは狂った様にS−1を揺さ振る。

「なんで、こんなところにいるんだ、S−1っ」

S−1の息は短く、荒く、不規則でか細い。
今にも、止まってしまいそうだった。

「島、に。」口から涌き水の様に鮮血が零れ落ちてくる。それでもS−1は
瞼を閉じそうになるのを堪えて、クロを懸命に見上げようとしている。
けれど、紫色の瞳も、銀色の髪の隙間から見える蒼色の瞳も大きく揺れて、
焦点が定まり切れない。唇から出る言葉は血の匂いが濃かった。

「いつ、」薄い胸が小刻みに上下する。
自分自身が撃たれたようにクロの全身にS−1の体の痙攣が伝染して、
クロの体もブルブルと震えた。

「着く」島に、いつ、着く?と尋ねた最後の一言は大きな溜息の様だった。
その溜息を吐いて、S−1の体から一切の力が抜け、血まみれの瞼は
ゆっくりと閉じられる。

「降伏する、だから、医者を。」
「こいつを死なせないでくれ、助けてくれ。」

生まれて始めて、クロは命を乞う。
見苦しいほど、取り乱していた。自分でそれを自覚出来ない程だった。


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