S−1は眠らない。
タキに入水を止められる前から、ずっとS−1は眠るのが怖くて、
殆ど睡眠がとれなくなっていた。
それに付随するように、全く食欲が沸かない。
生きる活力自体が消耗している以上、それは無理もない事だった。
それでも無理に食べ物を口にし、飲みこんでいる。
自分が食べ物を残せば、またコックがクロに殺されると思っていたからだ。
だが、無理に胃の中に治めたら、後で胃が絞られるように痛んで、結局、
吐くまでその痛みは治まらない。
その上に、これ以上ない程の睡眠不足だ。
普通の人間なら、病気になって衰弱して行くだろうが、クローンの肉体は
まだ、健全な体の状態を保っていた。
「もう、お前が悲しむような事は絶対にしない。」とクロは何度もいう。
最初はそんな言葉を信じられなかった。
が、クロは実際、急に優しく、温かく、S−1を扱う様になった。
鎖で縛る事もなく、あの嫌な行為を無理強いする事もなく、常にS−1が
居心地良い様に、気を配っている。
それでも、S−1はなかなかクロを信用出来ずに、クロの言動に神経を尖らせて、
怯えていた。
S−1はクロが何故こんなに急に優しくなったのか、その理由が知りたかった。
「S−1、眠れなくてもいい、横になれ。顔色が悪い。」
タキに助けられてから数日後、ベッドに入ろうとしないで、ただ、窓から
海の上に浮かぶ月を眺めているS−1の背中にクロが声をかける。
懐柔するつもりの偽りの優しさのつもりだったのに、裏腹な筈の相反する感情が
クロの心の中に少しも浮かんでこない。
その代わりに、優しさを見せてやる度に、大きく見開かれ、そして怯えた色を浮かべる瞳を見る度、心の中に痛みが走り、
また、戸惑うようにS−1の口元が僅かに綻ぶ度、クロの心は甘く揺れる。
それはもう、偽りなどではなく、優しくし、それに答えて欲しいと言う正真正銘の
愛情だとクロはもう気がついていて、それを自分自身でも受け入れる土壌は
既に出来上がっていた。
S−1が愛しい。それだけを自覚すれば良かった。
そして、自覚した途端、優しくしたいと言う感情は止め処がない。
いつ、その感情が愛憎に変わるか知れないけれど、今は、傷だらけで、
羽根をもがれて飛ぶどころか、生きる事さえ危い小鳥のようなS−1を
籠の中であっても、再び、肉体が輝いて見えるほどの眩しい命を取り戻してやりたかった。
「クロ、」S−1はまだ冴え冴えとしている瞳をクロに向けた。
「俺、ずっと考えてたんだ。」
S−1は悪夢に怯えて眠れない夜に、ずっと何故、クロが急に自分に対して
優しくなったのか、を考え続けて、一つの答えに行き付いた。
「ずっと、俺は俺の事ばっかり考えてて、なんでこんな目に遭うんだろうとか」
「どうして俺にこんな事するんだろうとか。」
「辛い事ばっかりで生きていくのが辛くて、死にたかったくらい辛くて、」
「R−1のところに帰りたいってそればっかり考えてたけど、」
床に座りこんでいたS−1は子猫を胸に抱いたままクロの側に近寄った。
ベッドに腰掛けているクロの真正面に立って、更に話し続ける。
ランプの絞った灯りの中でも、S−1の銀の髪の色は闇に溶けない。
「ここんとこ、クロは俺に優しくしてくれて、俺、やっと判った。」
S−1は真剣な口調でクロを見据え、
「俺の事が好きなんだろ、クロ。」
「そうだ。」
尋ねるような口調ではなく、S−1が断定する様にそう言った言葉をクロは即座に
少しだけ表情を緩めて返事を返した。
「俺はお前を愛している。」愛、と言うものがどんなモノなのかは判らない。
だが、今クロの心の中にある嫉妬も、愛しさも、思いどおりにならないもどかしさも、
これからも側にいて、触れたい肉体の感触を乞う気持ちも全てを一言で
現すのに、これ以上の便利な言葉はなかった。
「それって、好きって事か。」アイシテイルと言う言葉をS−1は理解できずに、
クロに向かってそう尋ねた。
クロはゆっくりと腕を伸ばして、S−1の腕の中の子猫を柔らかな手つきで抱き上げ、
ベッドの上に寝かせた。
そして、子猫に視線を向けつつ、「ああ、だから、どうしていいのか判らないんだ。」と
心の底から深い溜息をつく。
「だから、苦しい。お前が笑いもしない、モノも食べない、眠らない。」
「それが全部、俺の所為だと思うと辛くて頭がどうにかなりそうになる。」
クロは自分の言葉をどこか冷静に聞いていた。
常に腹とは裏腹な事を口にするのは朝飯前だったから、真っ正直な人間なら
とても面映くて言えない事でも、その言葉がもたらす効果を計算するのが
習慣づいているのか、クロはさも、辛そうな表情を取り付くろって、
そんな言葉を吐き出した。
演技の筈なのに、本当に息が詰るほど苦しくなる。
その訳は、歯の浮くような言葉でも、今回はそれ自体が紛れもないクロの本心だからだ。
「紅茶色の髪もこんなに真っ白になって。」
「お前に好かれるような事をなに一つ、出来ない自分に腹が立つ。」
「ごめん。」
俯いたクロの頭の上から思い掛けないS−1の言葉が降ってきて、クロは思わず、顔をあげ、S−1を見上げた。
「もっと前にそれに気がついてたら、嫌な思いをしなくて良かったんだよ。きっと。」
「好きな相手に嫌われてるなんて、辛いに決ってる。」
S−1は言葉を整理し、考え、考え、一生懸命に自分の気持ちをクロに伝えようと
懸命な眼差しをしていた。
「俺、ずっとクロが大嫌いだった。」
「死ねばいいって思うくらい、大嫌いだった。」
「動物みたいに俺を扱って、
「辛くて、憎くて、ここから逃げる事とクロを憎む事しか頭になかった。」
「好きな相手にそんな風に思われてるなんて、辛いよ。」
「せめて、優しくされたいって思うよ。」
S−1は立ち尽くしたまま、じっとクロを見つめて、言葉を続ける。
「それなのに、俺、ちっともクロに優しくしなかった。」
「だから、今、クロは辛いんだろ。」
「S−1、」クロは愕然としてS−1を見上げた。
「お前は、」
俺を許すと言うのか、と喉まで出掛かったが言葉に出来なくて、クロは息を飲む。
「クロは俺に優しい顔を見せてるけど、」
「例え、それが俺を騙すつもりのモノだとしても、」
「クロの辛いって気持ちだけは俺、信じてもいい気がする。」
「どうやって、人に優しくすればいいのか、判らないけど、」
「俺の所為でクロが辛いんなら、どうやったらそれが無くなるのか、教えてくれ。」
S−1の言葉は、打算も媚びも塵ほども混ざっていない。
恐ろしいほど透明で真っ正直で、裏表が無い分、人の心に深深と浸透する。
「お前は今のままで十分過ぎるくらい優しい。」
「お前がずっと俺の側にいると言うなら、俺に優しく振る舞えばいい。」
「だが、本当に帰りたい場所があってそれを諦めていない間は、」
「俺に優しい顔を見せるな。」
クロはS−1を力一杯抱き締めたいと思う衝動をぐっと堪える。
今、こんなに動揺した気持ちのまま抱き寄せてしまったら、
今以上に愛してしまう。そうなったら、取るべき道は一つだけに絞られる。
思いどおりになら無いもどかしさもS−1への愛を継続していくのに
必要不可欠な要素なのだ。
心の底から、真剣に想い、労わり、優しくするのが、本当の愛だと言うのなら、
自分の側に縛りつけておくのは間違っている。
けれど、それを認めてしまうくらいなら、歪んだ要素にまみれたままで
自分の進もうとしている道にS−1を無理矢理引き摺って二人とも傷だらけになりながら生きて行く方がいい。そう、クロは思い定めていた。
「なんでだよ、意味が判らねえぞ。」とS−1は怪訝な顔でクロの言葉に含まれる
意味を尋ねる。
「俺から生きて逃げたいと思うなら、これ以上俺に優しくするな。」
「俺から離れた途端、きっと俺はお前を殺したくなる。」
「クロは俺を殺せない。」そう言って、S−1は腕を伸ばして、クロの眼鏡を
指で摘んで取り除いた。
「今まで、何度だって俺を殺そうとすれば出来たのに、そうしなかった。」
「だから、きっとクロは俺が何をしても俺を殺さない。」
ほんの僅かでも薄笑いを浮かべていたなら、勝ち誇って思い上がってそう言ったと
クロは思っただろうが、S−1はただ、ただ、真剣で、懸命な表情を崩さないで
クロの顔を見据えている。
その眼差しを受けて、クロはなにも阻む物が無い視界の中、透明な紫の宝石の
様なS−1の瞳をじっと見つめる。
「眼鏡、掛けない方が若く見える。」とS−1は急に表情を緩めて、そう言って
微笑んだ。
「きっと、髪もそんなにテカテカにしない方が海賊らしくてカッコイイかも知れねえ。」
不思議な物で、アイシテイル、と口に出した日から、クロはS−1の体を抱く事が
出来なくなった。心が近付いたと感じる分、S−1が自分に抱かれている間、
その時間はS−1にとって、ただ、苦痛でしかないと判ってしまったのだ。
抱かなくても、側にいるだけで満足を感じた。
S−1のありのままの姿と、飾らない言葉とそれを伝える為の声と、
拙い言葉で自分の気持ちを伝えようと力が篭る瞳が手の中にある。
だが、愛しいと思えば思うほど、辛さは増して行く。
S−1の本当の歓びを決して叶えられない自分が憐れだった。
そして、自分の気持ちを既に知っていながら、応えようとせず、
残酷なまでに無垢な優しさを差し出すS−1を憎みたくても憎めない、
自分が憐れだった。
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