その海軍の将校は実に有能だった。
最小限の装備で最小限の犠牲で、的確に狙った獲物を捕える。

その為の準備は着々と、クロの知らないうちにその船団の内部で進行しつつあった。

冬の海域をでて、暫くは温暖な気候だったが、また、船は気温の低い海域へと
進んできた。

クロはS−1を船内で、もう自由に動ける様に一切の束縛を止めた。
鎖で縛る事も、S−1が苦痛に感じる事の全てを排除して、少しでもその心身が
穏やかである様に心を配った。

自分自身でも、その変貌に驚いていた。
そして、一番、S−1を喜ばせる言葉がなんなのか気付いた。

(俺らしくもない)とそんな自分自身が笑わすことの出来ない無能な道化の様で、
薄気味悪いとさえ思うが、既にクロの計算上で施した優しさを信じきって、

自分に向けられるS−1の、警戒も怖れもない素直な眼差しはそんなクロの心を
柔らかく包む。

(どこにも行かせるものか。)とその姿を目で捉える度に、自分に呪詛の様に、
言い聞かせる。このまま、懐柔していればいずれ、諦めるだろう。

だが、あれだけの苦難を与えてずっと今まで、
S−1がS−1の望む場所へ帰ると言う希望を持ち続け、
決して諦めなかった事を思い起こせば、
それがあまりにも淡い、なんの保証も根拠もない期待だと言うのは
その苦難を与えてきたクロ自身が一番、良く判っていた。

晴れあがった空にカモメが数羽、群れて飛んでいた。
強い北風に煽られて、それはとても飛びにくそうだが、はっきりと船が進もうとしている方向へと飛んで行く。
S−1はそのカモメ達を甲板から見送っていた。
ただ、遠くを見ているだけのようにも見える空虚な眼差しにも見えた。
けれど、その横顔をすぐ隣で眺めていたクロには、自由に飛べる鳥を羨ましいと思っているような眼差しにも見えた。

「S−1、次の島でこの船から降ろしてやる。」
「どこにでも、好きな所へ行け。」

クロは腹で何も考えずに溢れた感情のまま、言葉を声に出していた。

S−1は風と波、帆が風を受けて起こす騒音の所為でその声が良く聞こえなかったのか、
怪訝な顔でクロを見た。

「猫と一緒にどこへでも行くがいい。」搾り出す様に、クロはそう言った。

S−1が息を飲んでいるのがクロにははっきりと判る。
自分を言葉をなくしたままただ、見つめているS−1の紫色の瞳の中に
曖昧な猜疑心が混ざったのは、ほんの一瞬だった。

「ホントか。」とS−1が聞き返してきた声は少し震えている。

クロが「本当だ。」と答える前から、S−1の顔にはさざ波のように
喜びが広がり、
明確な笑みではないけれど、瞳一杯に喜びが溢れ出て、それが目許に光りを投げた様に
表情が冴えた。

初めて、S−1の、心からの信頼を勝ち取ったと言うのにクロの心に痛みが走った。
クロの言葉を信頼し、嬉しさを噛み殺す様に笑みを堪えるS−1の笑顔を見て、
(嘘だ。お前を離してなどやるものか。)とはもう言えなかった。

だが、そんな笑顔を見るとやはり離したくはないと強く思う。
今まで苦しめた事を一生を費やして償っても構わないから、側にいて欲しいと
言ったところで、S−1は決して首を縦には振らないだろう。

偽りの優しさも、その場限りの中身のない言葉をいい繕う事も、
護身の為の虚飾も知らず、傷ついても、汚されても、
常に、純粋で、ひたむきで、S−1の持つその資質は何があっても損なわれる事もなく、決して揺るがなかった。だからこそ、愛しい。
愛しい、などと思わなければ、ずっと繋いでいられたのに、とクロは
自分の想いに向き合って、自覚してしまった事を後悔した。

それから、数日が過ぎた。
波がやや高く、空はどんよりと曇っていた。
嵐、とまではいかないが、今夜の天候は少し荒れそうだ、と航海士が予測した。

「今夜は新月です。何があっても船長の部屋から出ないでください。」
甲板で小柄な男がそうS−1は擦れ違い様にそう囁いた。

どう言う意味かをS−1が聞き返そうと振りかえった時に、その声と小柄な体、
それに似つかわしくない銃身の長い銃に見覚えがあり、それが、少し前に、
自分が入水しようとしたのを止めてくれたタキだと判った。

S−1はすぐに後を追って、その意味を尋ねようとしたが、
タキの姿を夜の荒れる海に備えて雑然としている甲板の上で見失った。

「私は、タキ、海軍の兵隊です。」
「後、数日で、私の上官がこの船を攻撃してきます。」
「くれぐれもあなたや、非戦闘員を守る様に言われて、この船に潜入してるんです。」

そのタキの言葉とさっき言われた言葉を繋ぎ合せて、S−1ははっと気付く。
(今夜、海軍の襲撃があるのか。)

それをクロに言うべきか、どうか。
S−1は迷った。言えば、出所を問われる。
タキの事を言えば、タキは絶対に殺される。

(進路を変える様に言うか)とも思った。だが。
進路を変えれば、島に着くのが遅くなる。

「次の島でこの船から降ろしてやる」とクロは言った。
どこかで必死に迷子になりながらも自分を探しているR−1と会う為にも、S−1は
1日も早く、船を降りたいと思っている。

海軍との戦闘になれば、この船の海賊も何人もまた傷ついたり、死んだりする。
それを避ける為には、進路を変えて、海軍の襲撃を回避するのが一番だ。
(でも、)次の島にR−1がいるような気がしてならない。
早く辿りつかないと行き違いになって会えなくなるような、焦りを
S−1はどうしようもなく、感じる。

(誰が傷つこうが構わない。R−1のところへ帰りつけさえすればいい。)と
考えつく事が出来たらS−1は何も迷わなくて済んだのに、
そんな事は塵ほどもS−1の頭には浮かばなかった。

「クロ、」(タキさんの事、もしもバレたら俺が)守ろう、とS−1は決めて、
夕食を取る為に自分の部屋にいたクロに意を決した様に声を掛けた。

「なんだ。」とクロはどこか緊迫したS−1の声に訝しげな表情を浮かべた。

「今夜は荒れるって言ってただろ。」
「進路を変えて、どこか近くに島があればそこで嵐を避けて欲しい」

(珍しい事を)とクロは思った。
S−1が船の進路云々など言い出すのは初めての事だ。

「嵐って言うほどのモノじゃない。ただの風雨だ。もののニ、三時間で抜けられる。」とクロはS−1の言葉を一笑に伏した。

「この風に乗れば、明日の朝には島に着けるんだぞ。」とクロが言うと、
「いいよ、少しくらい、時間食ったって。」と
S−1は足もとにじゃれつく子猫に構う事もせず、
なんとか、自分の言い分をクロに承諾させようと必死になる。

「ダメだ。」とクロは首を振った。
「俺の気が変わるかも知れんからな。」
「変に時間を食う事があったら、やっぱりお前を手放したくなくなって。」
「また、鎖で繋ぐかも知れんぞ。」
「それでもいいのか。」とS−1の側に歩み寄って、そっと顎の下に指を沿え、
からかう様にそう言った。

そう言うと、S−1の瞳が動揺に揺らぐ。
実に判りやすく、顕著な表情の変化にクロは愛しげに目を細めた。
「お前は嵐が怖いんじゃなくて、また、人を殺す夢を見るのが怖いんだろう。」と
クロはS−1を柔らかく抱いて、そう言った。

「そんなんじゃない、クロ、」
「海軍がこの船団を狙ってるんだ。」とS−1はそれを振りきって真っ直ぐに
クロを見据えてそう怒鳴った。

「いつだって狙われてるさ。そんなモノにびびってちゃ、海賊などやってられない。」

クロは、S−1の言葉に耳を貸さずにそのまま、船を進めた。

真っ暗な闇の中、夜も更けて、雨が降り出す。
見張り台の上の身張り役の男達は、全て、ぐっすりと眠っていた。

武器庫の銃器の銃弾は全て抜き取られている。
火薬の樽には、何時の間にか水が滴るほどに濡らされていた。

相手の船に乗り移る時に使うロープは短く切断され、おのおのが携帯している武器以外の剣、刀など、針金で鞘と刀身が縛りつけられてすぐには抜けない様に細工してある。

その事にクロの部下達は、誰も気がつかない。
気がついているのは、この船に潜入している海兵と彼らに保護されるべく、
一箇所に集まって身を潜めている非戦闘員と各船に数人はいる奴隷として捕えられている人々だけだ。

雨と風の音しか聞こえない。視界は船の舳先に吊るされた大型のランプの頼りない灯りだけだった。
大きく波がうねり、船体が高い波の壁を斜めに滑り落ちる。
そして、再び、波のうねりに乗った時、船体も帆も真っ黒に塗った海軍の軍艦が二隻、唐突にクロの船団の目の前に現れた。

音もなく、警笛も警鐘も無い。
海軍の戦法ではなく、それは明らかに賞金稼ぎか、海賊同士の戦闘での奇襲とも言える
戦術だった。
「海軍だ!」船を操舵していた乗員が、いち早くそれに気付いたが、その声は
あらかじめ、船に潜入していた海兵達の決起によって掻き消される。