この戦闘で、クロの船団は大きな損害だった。
だが、結果的には生き残った者達で船団の規模を縮小すれば、それだけ身動きが
しやすくなり、機動力は増す。

「すぐに戦力は立て直せる。」と言うクロの言葉を生存した部下達は信じた。
「頭」として、クロは部下達からは十分に信用されている。
だから、プライベートで何をしようと、誰もそれを咎める者はいなかった。

人を信用させるのはかつて、「百計のクロ」と言われた男にとっては、
実に簡単なことだ。

S−1の人格の中に、あれほど冷酷に、冷徹に人の命を奪える面がある事を知って、
クロは驚いた。そして、ますます、S−1と言う不可思議な存在に強く惹かれた。

どんな非道な仮面であろうと、それのおかげでS−1の自我が戻って来たことが
嬉しくてならない。ガラスのように綺麗な心は、乱暴に扱えばすぐにひびが入る。

もう二度と、暗い穴の中に叩き落すような馬鹿な真似はすまい、と思った。
自分の中のS−1を愛しいと思う感情をもう、否定はしない。

人を愛せば、自分が自分らしくなくなると怖れ、S−1を愛している事を必死で
否定しては、S−1をただ、傷つけた。
敗北の苦い味よりも、命を落すかもしれないと言う恐れよりも、S−1の心が
全く見えなくなった時に感じた、心の痛みは生まれてはじめて経験するほど、
辛かった。

あの大雨の戦闘の直後、甲板に転がっているS−1が撃ち殺した海兵達の死体を、
動ける部下達が無造作に海に投げ込んでいる姿を眺めつつ、
クロは血にまみれた体のまま、S−1を自室に連れて戻った。

抱かかえる様にしてやらねば、歩くことさえ出来ない程、S−1は激しく動揺し、
その所為で、呼吸さえままならない。

しっかりと胸に母猫の骸を抱いているその小刻みに震える体に触れていると、
心臓の音がまるで、振動のように強く感じ、クロにその胸の中にある激情を伝えてくる。

「酷い事を言って済まなかった。」
S−1の自我が戻った事、そして、自分と同じ様に残虐な人間性を共有している事が
嬉しくて、クロはありのままをS−1の目の前に突きつけてしまった事を
S−1をベッドに腰掛けさせてからやっと、後悔する。

「俺、一体何をしたんだ。」子猫がS−1の足に擦り寄ってくる。
母親の匂いを感じたのか、空腹を訴える鳴き声を立てた。
それに構う事無く、クロは沈痛の面持ちのまま、淡々と答える。
「見たままの事だ。」
「少し、眠れ。」起きるまでに、全て、夢の中だったと思えばいい、とクロは
S−1の胸からゆっくりと柔らかな手つきで血まみれの母猫の屍骸を取り上げた。

それを自らの上着で丁寧に包む。
「これは夢だ。お前は、悪い夢の中にいる。」
「お前が人を殺す訳がない。」

クロはその日、初めて、S−1をただ、静かに眠らせる為にその体を抱いた。
抱いてやらねば、と性欲を抜きにして、そう思った。
悲しい事や辛い事だけで感情を支配されて、泣く事さえ出来ない程
傷ついたS−1に安心と穏やかな眠りを与えたかった。

だが、そんな感情を剥き出しには出来ない。
S−1を憐れに思い、どれだけ愛しいと思っていても、S−1は絶対に自分を
愛しいとは思わない事を知っているからだ。
S−1にこんなに苦しい運命に縛りつけたのは、紛れもない自分だと言う事を
クロは忘れてはいない。
だからこそ、「愛しているから、愛してくれ」と言う単純な言葉が出せないでいる。

「俺もお前と同じ悪い夢を見てやる。」
「お前がずっと悪い夢を見続けるなら、俺も同じ夢を見続けてやる。」
「お前が血で汚れるなら、一緒に汚れてやる。」
「そんな事が出来るのは俺だけだ。」

「だから、俺の側にいろ。」

全ての髪が真っ白になろうとも、ここにいる事自体がどれだけS−1にとって
苦痛であろうとも、S−1を手放す事などもう出来そうにない。

人に優しくして、信用を勝ち取る術は知ってる。
その行動と言葉がどれほど心とは裏腹でも、かつて、田舎村の富豪の娘を騙した
手管と同じで、いくらでも人に「優しい素振り」を見せる事が出来る。

(なぜ、もっと早くこうしなかったのか)とクロはドサクサ紛れの曖昧な
愛撫でも、酷く疲れて眠ったS−1の、色褪せた髪を弄びながら自嘲した。

優しくしていれば、S−1をこんなにまで傷つける事もなかっただろう。
今、自分がS−1に見せている優しさは、あのカヤに見せた擬物と同じなのか。

(同じに決っている。)筈なのに。
心の中に薄笑いが浮かんでこないのは何故なのだろう。
まだ、足りない。そんな焦りだけが心の中に澱んでいる。

もっと、優しい言葉を。
もっと、優しい愛撫を、
もっと優しい時間を、
もっと、温かい空気を、
もっと、明るい日差しを、
もっと美味い食事を、

足りないものが多過ぎて、クロは心の中に薄笑いではなく、息苦しくなるような
悲しみが広がって行くばかりだった。

S−1の心の中は悲しくて、それ以外の感情は何も浮かばない。
そして、次々に浮かぶ言葉は本来の性格からは程遠い、
陰鬱で、絶望的な事ばかりだった。



俺が生まれて来たのは、R−1の為。
でも、今、ここにいたんじゃ、生きてる意味がないじゃないか。

生まれて来た意味なんか、ないじゃないか。
R−1の側に帰りたい。今、どこにいるのか、どうして助けに来てくれないのか。
(体が邪魔なんだ。)ふと、そんな考えが頭をよぎる。

魂だけになれば、きっとどこへでも行ける。

S−1は子猫を撫でていた掌を目の前に翳した。
R−1がくれた、ピアスがこの手の中に埋まっている。
涙で濡れた髪が一筋、その手に絡んでいた。

(こんな色、R−1が作った色じゃない。)会っても俺だって判らないかも知れない。

この手も、この手を眺めている目も、髪もなにもかもがR−1の為の物だ。
それなのに、どれだけの人間が自分に触れた事か。

R−1の為の物で、誰にも汚されていない物は、この手の中の宝石と
自分の心だけ。

「ごめんな、名前もつけてあげられなくって。」
乳離れしていない子猫はS−1がスポイトでミルクをやらないと育たない。
それを放り出してしまったら、この子猫も死んでしまうかも知れない。

でも、もう限界だった。
誰かの為に、何かの為に、必死に生きて行く事、
その為に必要な力を振り絞る事に、S−1は疲れ切り、これ以上、その力を
出す事は出来そうもない。

クロにどれだけ優しい言葉を掛けられても、抱き締められても、s−1にとっては
そんな物、何一つ、必要のない物なのだ。
本当に欲しいもの、必要な物はここにはない。
世界中で一人だけ、一つだけの場所へ。

(帰ろう。今すぐに)
泳ぐよりも早く、走るよりも確実に、R−1の所ヘ帰る方法がある。

それだけを想って、気がつけば、真夜中の甲板に立っていた。
穏やかな波に月明かりが揺らいでいる。

そこへ飛び込むのに、勇気などいらなかった。
S−1は船べりに足を掛けて、その上に昇った。
足でその板を蹴れば、簡単に飛べる。そう思って、足を踏ん張った時だった。

「ダメ、待って!」その声がした途端、
いきなり、S−1は誰かに武者ぶりつかれて、そのまま、仰向けに甲板へ転がり落ちる。

「イタタ・・・。」S−1を船べりから引き摺り下ろした人影は、腰を擦りつつ、
ムクリと起き上がった。

小柄な体に、高い声だった。
(女の人なのか?)S−1は薄い月の明かりの下、目を凝らす。

「S−1、さんでしょう。辛いでしょうけど、もう少しだけ、我慢して。」
「きっと、助けが来ますから。」

少年かと思ったのは、やはり、若い女性のようで、甲板にへたり込んだままの
S−1ににじり寄って来て、そう言った。

「あなたは?」S−1は不思議に思って尋ねる。
この船に、女性が乗っているなど今まで全く知らない事だった。

「私は、タキ、海軍の兵隊です。」と彼女は小声で、早口でそう答えた。
「後、数日で、私の上官がこの船を攻撃してきます。」
「私は、くれぐれもあなたや、非戦闘員を守る様に言われて、この船に潜入してるんです。」
「女の人にそんな危険な事をさせるんですか。」とS−1は事も無げに自分の任務を
明かしてくれたタキに、驚いてそう言った。
「女も男もありません、上司の役に立つなら、どんなに危険な事でも喜んでやりますよ。」タキはそう言って笑った。

「あと、もう少し辛抱しててください。約束します。」
「私の上司が助ける、と言ったら助けるんです。」
「自暴自棄になっちゃダメですよ。」
そう言って、タキはS−1の手をしっかりと握った。

「頑張って。今日まで頑張れたんだから、ね、もう少し。」
「ありがとう。」S−1はタキの手を握り返す。
もう出せない、と思っていた力、生きる為に振り絞らねば出せず、自分の中では
遂に枯れてしまった力がそのタキの手から流れこんでくるような気がした。


トップページ   次のページ