クロの耳たぶを弾丸が掠めた。
その背後にいた、海兵の額にそれはのめり込み、脳味噌を抉って貫通し、
海兵の命を一瞬で奪う。
クロの真正面から、クロの背後を狙って間違いなく発車された弾道、
その引き金を引いた者が目の前に立っている。
クロは信じられないモノを見、あまりの衝撃に言葉も思考も止まった。
「S−1、」
クロなど目にも入らない様に、S−1はクロの横を摺り抜けた。
無造作にその銃口は更に、海軍兵へと向けられ、一発の無駄弾を弾く事無く、
海軍兵の命を断ち続けた。
取っ組み合いの真っ最中、クロの部下の肩をS−1の銃弾で撃ち抜かれた。
が、それは馬乗りになっていた海軍兵の心臓を射抜く。
敵の戦力を削ぐ為なら仲間を傷つける事など一切気にもしない、そんな戦略だった。
R−1は、ロロノア・ゾロの遺伝子から作られたクローンで、
戦闘兵器として開発された、人造の生命体だった。
そのノウハウをそのままに、R−1はS−1をこの世に誕生させた。
普段は、普通の人間として当たり前の感情を持ち、普通の人間となんら変わらない。
が、戦闘兵器としてのスイッチが入ると、その瞬間からもう、人間としての感情は
消え去り、ただの武器としての思考しか出来なくなる。
敵を倒す。その為に最良、最大、最速の方法を取る為に、行動する。
だが、そんな状態になる事はありえない筈だった。意識や自我がはっきりしていれば、
そのスイッチを入れる為の信号は、彼らを生み出す技術を開発した医者以外は
R−1でさえ、知らないのだ。どんなに生命的な危機がクローンを襲う事があっても、
その医者だけが知っている、特殊な信号を受取らない限り、そのスイッチは発動しない、と言う仕組みになっているからだ。
S−1のスイッチが入ってしまったのは、不安定な精神状態の中、激しい感情の動きが
あって、どういう訳か、勝手にそのスイッチが入ってしまった。
銃を撃っていても、それはS−1の意志ではない。
本能とも違う、兵器としての性能が正確に作動しているだけだった。
激しい雨の中、視界は決して良くはない。
だが、S−1と言う性能のいい銃は、戸惑いも迷いもなく、クロの敵、
この船を力でねじ伏せようとする海軍の兵力を削ぎ、敵の命を実に簡単に
消して行った。雨の中なのに、硝煙の匂いが船に立ち込める。
部下達の呻き声、荒れ狂う波と風の音、そして、淡々と響く銃声。
人の命を確実に奪っているとは思えないほど、S−1の銃声にはなんの躊躇いもなく、
ただ、あまりに無造作だった。
大きく戦力を削がれて、やがて、海軍の軍艦は敗北を察したのか、クロの船団から
遠ざかって行く。
屍累々、とは良く言ったもので、クロの船には海兵達の死体が足の踏み場もない程
残された。
人の命をあれほど、大切に想っていたS−1の突然の変貌に
クロは呆然とするばかりだった。
人が変わったのか、狂ったのか。何かが取り付いたのか。
そんな馬鹿げた事がクロの頭をかすめる。
「S−1、」と呼びかけても、やはり返事などない。
だが、いつもの頑なな人形のような無表情とは違う。もっと冷たく、もっと無機質で、
クロでさえ、S−1の冷ややか過ぎるその目に一瞬、鳥肌が立つ。
「銃を寄越せ。」
S−1は短時間に様々な銃を扱っていたようだった。
銃身の長いもの、破壊力の大きなもの、被弾した途端、銃弾が飛び散るもの、
あのS−1に、こんな銃の扱いが出来るなどと、今目で見たばかりなのに、
クロは夢を見ているかのように思えた。
クロの言葉にS−1の表情はなんの反応もせず、けれども、手に握っていた銃が
ガチャリと大きな音を立て、甲板に投げ出される。
(一体、どう言う事だ。)海軍の姿が去った後、クロはゆっくりと銃を手にぶら下げたまま、無表情で突っ立っているS−1に近付く。
不思議に思った時、ネコの声がした。
必死な様子の声だった。
S−1の瞼が僅かに痙攣するかのようにピクっと反応する。
「ニャア、」とまた、母猫がいつも、S−1を呼ぶ時の声がクロの部屋の方から聞こえた。ネコの声がする度に、S−1の目に感情が戻ってくる、それがクロにも、
重傷を負い、甲板に転がったままの多くの部下達にも判る。
「お前、猫を守る為に銃を。」クロはそう言って、S−1の肩を引寄せ、
その顔を覗き込む。既に、いつからか、失ったとばかり思っていた、S−1の自我が
紫色の瞳の中にくっきりと戻って来ていた。
「俺達が生き様が、死のうがなんの興味を示さなかったくせに、猫の為に、」
「これだけ大勢の人間を簡単に撃ち殺したのか。」
クロがクローンとして誤作動してしまった、S−1の特性など知る訳がない。
自分がどれだけ大切にしたいと思っていたか、と言う気持ちが
たかが、猫に負け、そして、裏切られたと歪んだ解釈をした瞬間に、
また S−1に対する愛憎が心の中に吹き出した。
「俺がなにを。」
誤作動した性能は、結果的に激しい刺激から自我を守る為に固い、固い、殻の中に
閉じ篭っていたS−1の心を無理矢理引きずり出してしまった。
長い、長い、眠りの夢から醒めた様な感覚しかないS−1には目の前に広がっている
風景に愕然とし、体が強張る。
「猫の為に、ホラ見ろ、お前は、これだけの人間を撃ち殺したのさ。」
クロは不思議な歓喜が心の中で渦巻くのを感じながら、S−1の顔の前に側にあった、海軍の死体を突き付けた。血にまみれ、目さえ閉じていていない死体にS−1の体が
寒さではなく、恐ろしさに竦んで震えはじめる。
「嘘だ、」そう言った、S−1の手をクロは無理矢理掴んで、その顔に押しつける。
「嘘なものか、お前の手からは硝煙の匂いがするだろうが。」
「そこの海兵も、あっちの海兵も、皆、お前が殺した。」
クロの言うとおり、S−1のスイッチは、「猫」だった。
クロの自室になだれ込んできた海兵が、S−1を守ろうと歯向かって暴れた猫を
邪魔げに捕まえ、壁に叩きつけ、更にサーベルで斬った。
その映像を見た事だけはS−1の記憶に残っている。
「トレノ」が側にいるようになってから、S−1の自我には映像の記憶が残るまでに
回復していた。相変らず、外部からの刺激に対して、反応を返すまでには
至らなかったけれども、何事もなければ、数日でかなり回復できただろう。
だが、母猫はS−1を呼び、S−1の自我をはっきりと取り戻したのに
安心したのか、全く自覚のない状態であるとは言え、数えきれないほど多くの
人間を撃ち殺した事に激しく動揺し、立っている事さえ出来なくなったS−1の膝の上で息を引き取った。
残されたのは、まだ乳離れもしていない、子猫だけ。
「お前も俺と同じ、血で汚れた人間になりさがったって訳だ。」
「俺の側から離れる訳にはいかなくなったな。」
そう言って、クロは楽しそうに笑ってS−1を力任せに抱き締める。
トップページ 次のページ