「君と手を繋ごう」−追憶の影法師ー




冬の空は、晴れ渡って他のどの季節よりも青く、そして高い様な気がする。
夏の刺す様な光で照りつける太陽と違って、日の光もどこか優しい。
時折気まぐれに訪れる温かな日は、ことさら、その太陽のぬくもりが
有り難い。

海上レストラン、バラティエのオーナーシェフのゼフは、昼の営業が終わってから、
一息つこうと、1人、甲板に出た。
ここ数日、時化ていて、気温も低かったから、外に出ようと言う気にはならなかったのだが、今日は、久しぶりに天気も良く、気温も春の様に温かい。

(・・・これくらいの事で疲れちまうとは・・・俺も歳だな)
ゼフは一人、苦笑いしながら、その静かな午後の光を浴びる。
ゼフの疲れた体を、日の光とほどよく暖かな空気は、優しく温め、撫でてくれた。

その心地よさに、自然、ゼフは空を見上げる。

疲れていても、心地よい。ほんのりと口元に笑みさえ浮かぶくらいに。
そんな感覚を何度味わった事か、手すりにもたれてゼフは思い出す。

どこにいても、同じ季節の空はいつも同じ色。
何年経とうが、同じ風景を見ている様な気にさせる。
何年経とうが、そうして空を見上げる度に、
あの小さな向日葵色の頭をした、生意気な子供と一緒に空を見上げた時の事を
思い出す。
そして、その思い出の一つ一つを鮮明に思い出そうとしなくても、
勝手に脳裏には様々な風景、言葉が溢れ出るように蘇って来る。

そんな風に、空を見上げて想い出を脳裏に描き続けていると、
だんだんと、心だけ時間を遡って行く。

それは想い出にするにはまだ新しすぎるような。
昨日の出来事を、今日、思い出している様な。

海の上に広がる穏やかな冬の青空は、ゼフをそんな気にさせてくれた。

あれは、まだ二人だけで小さな小さな店を開いたばかりの頃だった。

「リョウリヒョウロンカだって。飯代を払えって言ったら、オーナーを呼んで来いって
言うんだ」

厨房にいたゼフに、チビナスは首を捻りながらそう言ってきた。
「リョウリヒョウロンカ?」ゼフは、妙なアクセントでチビナスが言った言葉の意味を
一瞬、わかりかねて同じ様に首を捻る。
(リョウリヒョウロンカ・・・料理、評論家、か)
口の中でもう一度反芻したらすぐに意味が分かった。

「料理評論家だ。料理を食って、ウンチクを書き連ねるのが仕事のやつだ」
「誰であろうと、食った料理の代金は払え、って言え。ただ食いなら蹴り殺すってな」

ゼフがそう言うと、チビナスは不満そうに口をへの字に曲げ、
「ちゃんとそう言った」
「でも、お前じゃ話にならん、オーナーを呼べって言うんだ」と言う。

ゼフが(・・面倒だな、全く)と思いながらも渋々、厨房を出た。
客席は、テーブルがわずかに5つそれぞれ、4脚づつ椅子がある。
つまり、20人も入れば満席なる、小さな店だ。
けれど、ゼフとチビナス二人だけで切り盛りするにはそれが精一杯の広さだった。

客席を広げても、料理を出すのが遅くなって客を待たせてしまう事になる。
それに、早く料理を出そうとしたら、きっと、料理の質も味も落ちてしまう。
清潔な客席を維持し、いつも自分達が提供できる最高の味の料理を食べてほしい。
まだ半人前のチビナスを一人前に成長させる為にも、この店の広さは
とても都合が良かった。

目標である「海上レストラン」を開く為には莫大な金が掛かる。
失敗は出来ない。
必ず「海上レストラン」を成功させる為に、ゼフはもっとチビナスを鍛えなければ、
と考えた。

チビナスには、一流の腕を持つ料理人になって貰わなくてはならない。

誰からも尊敬されるくらいの腕と、度胸と、決断力を持ち、
そして、自分の夢と体を守れる強さも、同時に持たせたい。
そんな想いが込めて、ゼフはこの小さな店を開いたのだった。

「誰だろうと、食ったものの代金は払ってもらおう」とゼフはいつもどおりの
海賊っ気が抜けない口調で、昼の営業時の混雑が去って、静かになった客席に
1人、ふんぞりかえって座っている男にそう言った。

「私の名前を知らない料理人がいたなんて、驚きだよ」
「全く、場末の店はこうだから嫌になる」と男は大きなため息をついた。

黒々とした髪を整髪剤かなにかでべったりと硬め、眉も髪と同じはっきりとした黒で
しかもやけに太い。髭も相当濃い様で、頬から耳までびっしりと青い剃り跡が残っている。服装は派手でもなく、地味でもない。
だが、いかにも上質そうなスーツを着ていて、履いている靴も艶々と磨き上げられていて、確かに景気の良さそうな雰囲気を醸し出していた。
「ま、突っ立ってちゃ話しにくい。座りたまえ」と顎で自分の真正面の席に
座るようにと、ゼフに顎をしゃくって、その場所を示した。

ゼフは一目でこの男を(・・・気に食わねえ野郎だ)と思った。
料理人を、見下している。
自分は料理人よりずっと偉いのだ、頭を下げろと言いかねない程の高圧的な態度が
どうにも鼻持ちならない。
「代金を払わねえって言うならただ食いだ。つまみ出すぞ」とゼフが低く凄むと、
男は、ごそごそと持っていたカバンから数冊の本と、いくつかの新聞を取り出して、
テーブルの上に乗せて、指し示して見せた。

「私は、料理評論家だ。この店の料理を食べて、本やら雑誌やらに宣伝してやる
事が出来るんだよ」
「・・・私を知らない、と言うのなら、ちょっとこの本だの新聞に眼を通してみたまえ」と得意げに言って、ゼフにその本などをぐい、と手で押しつけてきた。

ゼフは一冊の雑誌を手に取り、パラパラとめくる。
(・・・ふーむ・・・)思わず、読み入ってしまった。

この男の名前などには興味はないが、何ページがめくれば、ゼフでさえ聞いた事のある
名店の名前が眼に飛び込んでくる。それだけではなく、料理と店の中の写真つきで、
それに添えられている文章を読むと、美辞麗句、賛美賞賛、たくさんの華美な
言葉でいろどられ、それに、なんなく、食欲と好奇心をそそられる。

(この店に行けば、すばらしい料理が食べられる)、とそう思わせる様な
書き方、表現の仕方だった。

「この雑誌に乗れば、客の入りは二倍、三倍、もっともっと増える」
「半人前のガキを雇って、ちまちました店でちまちま料理を作らなくても、
いい腕の料理人を雇って、もっと大きな店でバリバリ稼げるようになる」

男はゼフの興味をそそる様に、そう小声で囁いた。

半人前のガキ、と言う言葉がゼフの胸に引っかかって、ふと視線を感じ、
雑誌を見ていた目をあげる。
心配そうに事の成り行きを眺めていたのか、突っ立ったままのチビナスが、
ゼフの視界に入った。
(てめえは何も心配しなくていい、)と眼でそう言うと、チビナスは小さく頷き、
自分の仕事をするために、厨房の奥に引っ込んだ。

「余計なお世話だ。この店の、この狭さにはちゃんと意味がある」
ゼフがそう言うと、料理評論家の男は、
「だから、それは、あのガキがあんまり使えないから、仕方なく、なんだろ?」と
さも、気の毒そうな顔と声音を使ってそう言い返してきた。

そして、大きく一つ咳払いをし、いずまいを正した。
そして、「50、だせば雑誌に載せてやろう」とまた小声で囁く。
「50?」ゼフは思わず聞き返す。
「50・・・って、50べりーか?」
男は鼻で笑った。
「面白い冗談だ、オーナー。そんなんじゃ、飴玉だって買えないだろう」
「もと海賊の船長がやってるってだけでも、この店は不利なんだじゃないか?」
「そこを伏せて、料理が絶品だった、雰囲気が最高だったって書いてやるって
言ってるんだよ」

「・・・つまり、都合よく書いて貰う為に賄賂を寄越せ、と言うんだな?」
ゼフは答えを聞かずに立ち上がった。
新聞も、雑誌も力任せに丸めて男に投げ返す。

「そんな金を払うくらいなら、いい食材を買って、客に食べてもらう方がよほどいい」
「料理の代金を払って、とっとと帰れ。料理を食いにくる以外の用でまた
顔見せやがったら、そのあぶらぎった面、蹴り潰す」

もと、海賊の、しかも船長をしたゼフにそう凄まれて、ただの男がそれ以上
何か言える訳がない。
男は、震え上がり、竦みあがって、食べたランチ代だけを置き、
逃げるように店を出て行った。

それから、三日後。
その日が雨だった事を、ゼフは不思議に覚えている。

「雨だからかな。今日は暇だ」
昼時になっても、いつもの半分も客が来ない。
窓越しに雨を眺めて、チビナスが退屈そうに頬を膨らませた。

「暇だったら、仕事を見つけろ。ボケっとしてるんじゃない」とゼフは
チビナスを叱ったが、実際、その日は夜も客足が芳しくなかった。

日毎に客の数が減っていく。

料理評論家の男を叩き返してから、10日過ぎた日などは、昼時でも
客は常連客数人以外は、誰も来なかった。

「オーナー、そりゃ、あんな酷い事書かれりゃ、客は来なくなるよ」
「酷い事?」
ゼフとは海賊時代からの顔なじみの漁師が、客足が遠のいたわけを教えてくれた。
その訳を聞いて、ゼフは絶句する。

毎日人が読む新聞に、でっちあげの酷い記事が載っていた。
そして、有名な雑誌にも。

誰がどうして流したのか出所の知れない噂までもが、ゼフとチビナスの店の周りに
漂っていた。

新聞には、「鮮度の悪い野菜を乱雑に切り刻んだだけのサラダ、腐った魚のスープ」
「子供の手垢が入っていそうな料理は不潔極まりなく・・・。肉料理は、特に注意。
オーナーが海賊だった為に、時折人肉が供される事もあると言う・・・」だなどと、
全く事実無根の事が書き連ねてあった。

雑誌には、料理の事以外にも、ゼフとチビナスがいかがわしい関係にある、と匂わせるような書き方さえされていた。

「こんなの、全部でたらめだ!」
「あの野郎、ぶっ殺してやる!」

ゼフよりも、チビナスの怒りの方がずっと激しかった。

「やめとけ」
「なんでだよ!嘘ばっかり、言いふらされて黙ってろって言うのか、ジジイ!」

猛り立つ気持ちは良く分かる。
だが、ゼフは堪えよう、と思った。

「お前ならあんな男、本当に殺せるだろう」
「だが、それからどうなる?人はどういうか、分かるか?」
「酷い事を書かれて、腹いせに殺した、と思われるだけだ」
「平気な顔をして、お前の仕事をやってりゃいい」

誰に対しても、後ろ暗く思わなくていい。
料理人として、誇り高くあり続ける為に、大事な事をしっかりとだた、貫けばいい。

そう、ゼフはチビナスに教える。

「自分に嘘をつくな」
誰に対しても、自分に対しても、正直に自分の仕事を誇れる、と胸を張って言えるか。
胸を張れるだけの仕事をしていると言い切れるか。

「自分を誤魔化すな」
自分はこれくらいの仕事しか出来ない、と自分の力を見くびってはいないか。
「自分に負けるな」
辛くても、料理人として成長したいと、夢を掴もうと思うなら、
どんな時でも、どんな事でも、負けてはならない。
負け、と言うのは夢を手放す事だ。誰が決めるものでもない。
それを決めるのは、自分だけだ。
自分に負けた瞬間が、夢を諦めた瞬間になる。だから、
誰に負けても、決して、自分にだけは負けてはいけない。

「わかるか」とゼフは尋ねた。

自分に嘘はつくな。
自分を誤魔化すな。
自分に負けるな。

それ以外の言葉は言わなかった。長々とした説教をする必要はない。
その短い言葉に込めたゼフの気持ちを理解出来ない程、チビナスはバカではない、と
ゼフは信じていた。

「わかった」チビナスは深く頷く。
「ジジイの言うとおりにしてれば、こんな下らない嫌がらせなんかに負けないよな」

けれども、来る日も来る日も客はこなかった。
やがて、その日の料理を作るための材料さえ、買えなくなった。

そんな窮地を救ってくれたのは、
ゼフの教えを肝に銘じ、泣き言も愚痴も言わなくなったチビナスだった。


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