ここには、その体に宿る命を助ける為の意志だけが残された。
言葉も、思考もなく、希望や、祈りや、欲求ではなく、
意志だけが存在していた。
人間の言葉などでは表現し得ない、自然の無機質で、明確な意志の
存在をゾロは感じていた。
この感触、この感覚。
ゾロはどこかで感じた経験がある。
(樹だ。)
サンジであって、サンジでない、呼吸が暗い地下牢に満ちている。
サンジの胸の穴に触手のような枝を突っ込み、自らの樹液を与えた樹。
そして、サンジを助ける為に、自らを燃やせ、と言う意志を顕した樹。
(そうだ、あの樹の感覚だ。)
ゾロの意識は、夢と現の間の曖昧なものだった。
だから、その感覚を感じたのも、まるきり現実味がない。
高熱にうなされてみる夢だと思っても不思議はなかった。
サンジの意識など、その樹の意志にすっかり同化して、
意地も、夢も、自我さえも
ただ、「ゾロを助けたい」と言う想いが引き出した力に飲みこまれて、
何も見えていないし、サンジとして何も認識出来ないでいる。
つまり、「サンジ」は眠ってしまって、
余計な物を完全に取り去った純粋で強烈なサンジの魂は、
サンジの体の細胞、一つ、一つに沁みこんだ、ピノという
不老不死の樹、ヒトヒトの実を食べた樹の意志を呼び覚ました。
樹液を与える術などないけれど、ピノの意志は、ゾロを助ける為に
渾身の力を振り絞る。
理由などなくていい。
消えそうな灯火に油を注ぎ込むためだけに必要な油と同じように、
ピノの意志も、力も、
サンジの魂も、今は、ゾロの命を救う為だけに存在した。
そのために、そのためだけに生まれて、そのためだけに滅する事を運命られた、
意志だけがサンジの体を隅々まで支配している。
だから、ゾロの目から見た時、不思議な光で包まれて見えたのだ。
ただ、泳ぎにくくなってしまっただけで、
「ヒトヒトの実」を食べた「樹」の樹液を体内にとりこんでしまった、
なんの役にも立たない筈のサンジの能力が初めて発動した瞬間だった。
だが、これは決して、サンジの自由にはならないのだ。
生命のやり取りに たかが人の意志などが介入しては行けないと言う
自然界の戒めかも知れない。
一体、どんな条件が整えばこの能力が発動されるのかは
まだ、何も判らない。
分かっているのは、サンジのエゴが何も残らないほど、
純粋に、ひたすらに、願い、想い、祈り、そんな言葉では追い付かないくらいに、
熱く、深く、強く、望まなければならないらしい。
それでも、この力には限界がある。
樹液を搾り取られた樹が枯れるのと同じだ。
しっかりと握りあった手が解けない。
土に根ざした樹の根が大地から引き剥がされないように、
サンジの手はゾロの手を包んだまま、固まっている。
かなり強く握られている筈なのに、少しも痛みを感じない。
胸の痛みも、頭の痛みも、潮が引くようにゾロの体から薄れて行く。
何もかもが夢の中の出来事だとしかゾロには思えなかった。
助かる、と言う喜びも、期待もゾロには浮かばない。
まるで、砂時計の上下の様に サンジの体から自分の中へ、
命の燃料が注ぎこまれているのを 「夢」だと思えないほど強く感じて、
ゾロは不安に駆られる。
名前を呼びたくても、声が出せない。
まるで、自分までが「樹」になってしまったかのように。
そして。
朝が来た。
鳥の鳴き交わす声が頭の上から聞こえて、明り取りの小さな穴から
弱いけれど、温かい光りが差し込んで、ゾロの髪をほんの少し、
温めた。
サンジの手はまだ、ゾロの手を握ったままだが、
昨夜のように固くもないし、いつものように、ひんやりと冷たい。
そして、名前を呼んで見た。
そっと、手を解き、ゾロはゆっくりと体を起こす。
昨夜見た夢の名残が自分の周りの空気の中にまだ 漂っているような気がして、
サンジがちゃんとサンジとして、側にいるかを確認したかったのだ。
どこにも痛みは感じなかった。
汗をぐっしょりとかいて、シャツが濡れている不快さはあっても、
呼吸も、鼓動も、普段どおりだ。
その事に驚きながら、それでも、サンジの存在を確かめる為に、
何度も小さく、無理矢理叩き起こさないで、
穏やかにサンジが覚醒する様に、声を潜めてサンジの名前を何度も呼んだ。
その動きと声で、サンジが身じろきをする。
今、目が醒めた、と言う感じで閉じていたまぶたを開きながら
ゾロの胸に体を乗せてまま、顔だけをあげた。
(朝?!)
サンジは弱い光が差し込んでいる事で、今が夜ではなく、
自分達が朝を迎えた事に気がついて、愕然とした。
いつのまに、(俺は寝ちまってたんだ)。
あれだけ、必死でゾロに取り縋って、取り乱して、錯乱しかけて、
とても、ぐっすりと眠るような精神状態ではなかった筈なのに。
何一つ、サンジは昨夜の出来事を、自覚出来ていなかったし、
ゾロも夢だとばかり思っている。
だが、何故か、サンジがいたから助かったのだ、という想いだけは
確かにあった。
ゾロの心臓の音がはっきりと聞こえる。
もっと、よく聞きたくてサンジは耳が押しつぶされてしまうほど、
強く、強く、ゾロの胸に押しつけた。
規則正しく、強く、打つ、ゾロの心臓。
なにものにも犯されていない、健全な肉体の温もりを全身で感じた。
生きている。
何も変わらずに、ここに在る。
それがどうしようもないほど、嬉しくて、サンジは何も言葉を思い浮かべられずに、
ただ、ゾロの心臓の鼓動を感じる為に目を閉じた。
「良かった。」とゾロが溜息混じりに呟く声が頭の上から聞こえる。
サンジを泣かす事なく、悲しませる事なく、生きていられた。
その想いからゾロが呟いた言葉だとは サンジには判らない。
ゾロがどんな気持ちで何を言うか、など今のサンジには どうでも良い事だった。
ゾロの命がここにある事、何も失わずにいれた事を何度も、何度も
繰り返し 確認して、その喜びに浸っているだけで
今まで生きて来て、これほど、幸福だと感じた事はなかった。
「約束 守ってくれたんだな。」とだけ、やっと言葉を口に出せた。
ゾロは体を起こし、サンジの妙に力の入っていないたおやか過ぎる体を
抱き締めた。
ゾロの肩に頭を預け、サンジもゾロの背中に腕を回した。
「もう、二度とあんな事しねえ。」
「許してくれるか。」
あんな事、と言うのは何のことを差すのか、それさえも
サンジは聞き返さない。
いつものような皮肉や、強がりが頭に浮かびもせず、
「もう、なにもいらねえ。」と自然に感情が言葉に変換されて
口から零れ出ていく。
生きて、自分の名前を呼んで、抱き締めた、それ以上の何を今、
望めると言うのだろう。
サンジを助ける為とはいえ、サンジを欺き、サンジを陵辱し、
サンジを悲しませた事をゾロは 許してくれるか、と尋ねたのだが、
その答えがあまりに
あまりに、いじらしくて、愛しくて、ゾロも何も言えなくなった。
自分が死ななくてすんだ事よりも、
この恋人を悲しませなくて済んだ事を喜ぶ感情で心が一杯になった。
愛されているとこんなにはっきりと、強く、感じたのは初めてのような気がして、
胸が詰るほど、
息をするのを忘れてしまうほど、嬉しさで心を乱された。
こんな喜びを与えてくれるのは、サンジしかいない、と改めて思い、
今は、体が溶け合ってしまうほど強く抱きしめたかった。
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