呻き声を上げ、ゾロの口から「ゴボッ」と静か過ぎる地下牢の中で
信じられないほど大きな音を立てて、

血が吹き出した。

それでも、高熱にうなされたまま、意識は戻らない。

(胃から出血し始めてるんだ)

冷静でいなければ。
取り乱しても、なんの解決にもならない。
いっそ、取り乱して混乱した方がずっと気持ちは楽かもしれないのだが、

サンジは、必死で冷静さを自分に強いていた。

この場所に閉じ込められて、もう、5日も過ぎているのだ、と
ゾロの症状で知る。

飲み水は、僅かな光源である鉄格子の嵌った窓から滴り落ちてくる
露と雨水で、
ただ、それだけで二人は、生きていた。

飢えや渇きなどに苦痛を感じる状態ではなく、
ただ、

(ゾロを死なせたくない)事ばかりをサンジは考え、それだけに集中した。

その間。

ゾロは意識を僅かに取り戻した時の事だった。

目を開いた時、すぐにサンジの顔を探した。
暗い視界の中でも、海色の瞳が恋しくて、それが目前にあると確認した途端、
意識しないままに、ゾロは微笑んだ。

声を出したくても、そんな力さえ出せない。
思いつくのは、甘えるような言葉だけだった。

人に甘えたい、など初めて思った。

(そういや、俺、こいつに甘えた事なんか、一回もなかったな。)と
思いながら、

サンジに腕を伸ばした。
けれど、届く前に自分の腕の重みさえ支えられずにゾロの腕は
小刻みに震えながら、ゆっくりと床へと沈む。

「ゾロ。」

何か、言いたいのだろう、とサンジはその腕を掴んで、
我から、ゾロの口の側に顔を寄せた。

自分の名前を呼ぶ声だけで、ゾロは肉体の苦痛から来る
不安が薄れるのを感じた。

つまり、安心する。

(俺は死なない。)と確信していても、体の中から、
目にも見えないほどの狂暴な蟲に食い荒らされて行くおぞましさは
拭えない、それが不安になっていた。

「お前、指どうした。」

どうにか、声が出せた。
意識を失って、夢をみていても、酷くすりきれて、爪も剥がれていたサンジの
指の事がよほど 気になっていたのか、

サンジの指がポロポロと枯れた樹の枝のように 掌から抜け落ちて行く夢を見たのが、
気味悪かった。

「俺の事より。」とサンジは眉を潜めたが、
「見せろ。」ゾロは最後まで言葉を聞かずに、横柄にそう言った。


見たところで、何が出来るというのだろう。
そう、自問自答さえゾロはしなかった。

出来なかった。

意地も、恥かしさも、余計なモノは何もなくなって、
ゾロは感情の赴くまま、それが全ての行動を司る。

サンジは、言い争う事でゾロが体力を失う事を気遣って、
素直にゾロに自分の指を、掌を握らせた。

「酷エ事になってるじゃねえか。」
自分の声が酷く掠れていて、耳触りだと思いながら、ゾロは呟く。

指の腹も、爪も、肉が削げていた。

必死で落下する壁に爪を立てた所為で、指の背も第一関節にまで、
酷い擦り傷がついていた。

このままだと、膿む。
膿んだら、痛む。

壊死するような事があったら、切り落さなければならなくなる。

自分の体の中に、人の命を食む蟲が巣食っているのに、
ゾロは
傷まみれで、血がこびり付いたままのサンジの指の傷を

傷についたままの血ごと、砂塵ごと、ゾロは舐めた。

もう、血の味さえ感じない。
匂いも感じない、ただ、サンジの指のぬくもりと、指の存在感が
舌先に感じるだけだった。


まだ塞がらない傷を強く吸えば、僅かにゾロの咥内へ 滲み出たサンジの血の雫が
流れ込んでいき、自然、ゾロはそれを飲み下す。


あと、2日。
その時間をどうやって計ればいいのだろう。

朝も、昼も夜も定かに判らないこの場所で、ゾロの命が燃え尽きるのを
手をこまねいて 待つ事しか出来ないサンジは

朦朧としながらも、自分の指の傷を癒そうとするゾロの行動に
息が出来なくなるほど強烈な感情に揺さぶられた。

悲しいのか、焦りなのか、諦めなのか、
驚きなのか、苦しさなのか、説明など出来ない。

瞳から湯の温度の塩辛い水がボタボタと夕立が降り始めた時のような
大きな雫になって、ゾロの頬へと落ちて行く。

半分、意識がなかった事にゾロは濡れた自分の頬に違和感を感じて目を開けた。

どんなに辛い事があっても、こんなにはっきりとゾロに
涙など見せた事がなかったサンジが、
自分を見ながら泣き顔を隠す事もなく、泣いている事に気がついた時、
内臓の痛みや、割れそうだった頭の痛みなどを瞬時に忘れる。

自分だけを見ている事に対する嬉しさと、
何よりも大事だと想う存在を誰よりも傷つけ、悲しませたと言う
罪の意識からくる心の痛みとを 同時にゾロは感じ得た。

搾り出すようにサンジは言う。

「俺には、もう、どうすることも出きねえ。」
「ここから出る事も、お前を。」
「死なせないで済む方法も何も考えつかねえ。」
「なんの根拠もねえ、お前の約束を信じる事しか出来ねえんだ。」

それを聞いて、ゾロは熱でぼやける視界の中、また、腕を伸ばした。
一秒たりとも、サンジの匂いや、感触を手放していられない。

耳から声を、掌に体温を、視界には、
出来る事なら、泣き顔ではなく、自分の約束を信じ切った顔が欲しかった。

だが、現実はそう甘くはない。
自分の体がどんな状況かを 同じ症状を経験して来たサンジには、
どんなに強がっても知られてしまう。

「俺はお前を信じられねえ。」
「俺がどんな目にあったか、どんな気持ちでどれほどお前の所に帰りたかったか、」
「何も知らないで、暴走して、俺を騙して、俺を助けて」
「それでお前は満足か。」

どんな目にあって?
どんな気持ちでどれほどお前の所に帰りたかったか?

ゾロはサンジのその言葉だけを理解出来た。
後の言葉は熱で蕩けている脳味噌では受け止めきれずに、
まるで音楽のように聞こえただけだ。

「いつの話しだ。」と尋ねて、サンジの答えが帰って来る前に
ゾロは気がつく。

サンジの傷が完治して、やっと以前と同じ生活を取り戻せたのは、
本当につい、最近の事だ。

「やっと、帰って来れたと思ったらこの有様だ。」

優しく、労わりの言葉を吐いて、命が助かるなら、
喉が潰れても構わない。
けれど、そんな事は無駄だと判り切っているから、
サンジも、感情を剥き出しにする。

ゾロが投げ捨てた筈の和道一文字は、鞘は割れてしまったものの、
突然、二人が落ちてきた穴から降ってきた。

どこかに引っかかっていたのが、自然に刀身の重さに傾いで、
落ちたのだろう。

それを見た時、サンジは腹を括った。

ゼフから託された夢を ゾロの命を奪って永らえた体で追い駆けられない。

「お前が人生の最期に見るのは、多分、俺の死に顔だぜ。」


トップページ   のページl