ニアとサニートは 入り江に帰ってこなかった。
夕方になる頃、サンジとゾロは身体中がどうにもむず痒くなり始める。

「おい、そろそろ元の姿に戻るぞ。」
通常、3日くらいの効果とされている 即効性で持続性のない
悪魔の実なのだが、二人が飲んだのは それのエキスであり、
チョッパーが良い具合に 希釈してくれていたので、
どうやら 一日で、その効果が切れるらしかった。

「痒くなりはじめて、3時間で元に戻るからそれまでに船に帰って来い。」と
チョッパーに言われている。

サンジが体をボリボリ掻き毟っているゾロに向かって、
その痒みの理由を言うと、ゾロは頷いて立ちあがった。



そして、昼前から、夕方まで、サニートとニアは、赤ん坊の母親が
戻ってくるかもしれない、とずっと 同じ場所で待っていた。

けれど、一向に戻ってくる気配はない。
途中、赤ん坊はオムツを濡らしたり、食べたものだか、飲んだものだか
定かでない 嘔吐物を吐いたりした。

ニアは、それでも 嫌がる事も、汚い、という事もなく、
自分のハンカチや服を使って、赤ん坊が心地よいようにと 気を配っている。

その手馴れた様子にサニートは少なからず驚いた。
赤ん坊自体、サニートは殆どみたことがないし、どう抱いて良いのかさえ判らず、
ただ、ニアの言うとおりに動くしかなかった。

「どうして、そんなに赤ん坊を扱うのに慣れてるんです?」と尋ねる。
サニートもビビの手で育てられたけれども、それは アラバスタでも
かなり異例な事で、高貴な家に生まれた子供は、大概 乳母と教育係に育てられる。

だから、おそらく、ニアもそうだろうに、とサニートは思ったのだ。

「私は兄弟が多いので・・・。」とニアはサニートの方から
話し掛けられると はにかんで俯いてしまう。

(あ、そうだった。)
サニートは思い出す。ニアには11人も兄第がいて、全て チャカの直属の部下である。
ニアの母親が生んだ子供のうち、たった一人の女の子である。

つまり、ニアがサニートの婚約者に選ばれたのは、確実に将来、男の子を
出産する可能性が アラバスタの貴族階級の娘たちの中で一番高いから、かも
知れない。

それだけではなく、ニアの父親には 大勢の愛妾がいた。
だから、必然的に 屋敷の中に たくさん 子供がいて、
その多くの異母兄弟達は全て男だったから、乳母の手も 回らない。

ニア自身も、本妻の子ではなく、愛妾腹だったから、肩身狭く育ち、
自然、同じ愛妾の腹から生まれた弟達の面倒を見なくてはならなかった。

そんな素性のニアが 皇太子妃になり、ゆくゆくは アラバスタの王妃になると
言うのだから、臆して当たり前なのだ。


それにしても。


もう、日が沈み、月が輝き出す頃になっても、結局 母親らしき女は戻ってこない。
「仕方ない。一旦、船に戻ろう。」、と二人は 
進展があったのか、なかったのか、良く判らない一日を振り返る事もなく、
ゴーイングメリー号へと 赤ん坊を抱いて戻った。



そして、当然、ちょっとした騒ぎになる。

「どこで拾ってきたんだ?」とまず、船長のルフィが驚く。

実は、・・・と サニートが 服を着替える為にナミの部屋に行った
ニアに替わって、麦わらの一味を前に 説明をする。

赤ん坊は、もう、元の姿に戻ったサンジの腕の中で大人しくしていた。

「チョッパー、どうも、熱がある見たいだぞ、この赤ん坊。」

赤ん坊はそうでなくても、やたらと体温が高く、抱いていると
腕にじっとりと汗をかくほどなのだが、
サンジは 赤ん坊の潤んだ蒼っぽい白目と赤すぎる顔、腕に感じる熱さから、
発熱の可能性を見て、チョッパーに診せた。

「本当だ。」

赤ん坊をテーブルに寝かせて診察すると、丸々と肥えているけれど、
熱は確かにある。

「信じられねえな。病気の赤ん坊を身も知らない人間に預けるなんてよお。」と
ウソップが 露骨に憤りを言葉と顔に出す。

「よほどの訳ありなのよ、きっと。」
それでも、やっぱり、信じられないわね、とナミも相槌を打つ。

「いらねえから、捨てたんじゃねえか。」
ゾロはボソと呟いた。

実際、そう考えるのが一番簡単だ。
そうでなければ、ウソップの言うとおり、通りすがりの人間に
こんな乳飲み子を押し付ける訳がない。

「ジュニア、リンゴの汁を持って来い。」
サンジはテーブルの上の赤ん坊を抱き上げた。

「捨てられたんなら、俺が貰っちまおうかな。」と 他の者が困惑しているのに、
一人、何か 新しい玩具を買ってもらったような
浮かれた顔をしている。

「そんな事してたらお前のレストラン、そのうち孤児院になっちまうぞ。」と
ウソップが呆れ顔で、側に近づき、赤ん坊の顔を覗きこむ。

「どうしましょうか?」とサニートがルフィに顔に困惑した顔を向ける。
厄介ごとを持ちこんでしまって、申し訳ない、と言いたそうな顔をしている
サニートに、ルフィも、麦わら帽子の上から 頭をボリボリと掻いて、
ナミの方へ視線を流した。

判断できないから、ナミ、なんとか言え、と言う合図だ。

「明日、この島の海軍駐屯地にでも届けましょう。」
「この熱さだもの、置き去りなんか出来ないわ。」

海賊がわざわざ、捨て子を届けに海軍の駐屯地へ?とサニートが
驚くと、
ウソップが
「ジュニアとサンジ、お前は 賞金首じゃないだろ。」
「それか、ニアちゃんなら 身元もしっかりしてるし、大丈夫だ。」と答える。


そして、夕食が済み、皆がそれぞれの休む場所へ戻る頃、
ジュニアがシンクに残って翌日のミユの所へ持って行く
弁当の下ごしらえをしていた。

サンジは赤ん坊と一緒に 今夜は格納庫に行って、チョッパーと
かかりきりになっている。

そこへ、ゾロがのっそりと入ってきた。

「おい、ジュニア。」
テーブルに座って、酒でも飲むのかな、とジュニアは
声を掛けられたので ゾロの方へ振りかえる。

「何?お酒飲むの?」
「いや、それが終ったら甲板に来い。」

ゾロはそれだけ言うと すぐにキッチンを出て行ってしまった。
そう、機嫌が悪いわけでもなさそうだが、
今夜はいつもにも増して 無愛想だな、とジュニアは感じた。

喧嘩でもしたのかな?それで、間を取り持ってくれとか?
それとも、サンジが浮気してないかか、俺に聞きたいのかな?

ゾロから 用事を言われるのは珍しい。
酒の用意も、肴の準備も よほどのことがない限り、サンジがしていて、
そうでなかった事は ジュニアが知る限り 一度もない。

ジュニアは、仕事を終らせるとすぐに 甲板へ出た。

月明かりの下、ゾロは刀を抜いて、慎重にその手入れをしていた。

「何?」とジュニアは、いつもどおり、気軽に声をかける。

ゾロはちらり、とジュニアに一瞥をくれると、
いきなり、抜いていた刀を真っ直ぐにジュニアに投げつけてきた。

「!!っ!」

まるで、矢のような早さで、ジュニアの脇腹を掠め、銀色の刃は走り、
高い金属音を立てて 甲板に転がる。

咄嗟に体を捻る、けれど、普通の人間なら、おそらく 腹を真中から
ぶっさり串刺しにされていただろう、正確なゾロの投げた刀の軌道は、
明らかにジュニアの急所を狙っていた。

背筋がぞっと凍り、ジュニアは咄嗟に声が出ない。

「な・・・な・・・」何をするんだ、と言いたい言葉が喉に使えて出てこない。

「もう、十分、一人前だと思うんだが、一体何が足りねえんだろうなア。」

投げた本人は 蒼ざめて膝をガクガクさせているジュニアに
弁解する事もなく、しきりに首を捻っていた。


「なにするんだよ、俺を殺す気?!」

ジュニアは顔面蒼白になってゾロに 怒鳴った。

ゾロは眉毛一つ動かさず、
「死んでねえのにガタガタ騒ぐな。」といい返し、
「ちょっと、来い」と ジュニアへ手招きをする。

死んだら騒げないだろ、とジュニアは口の中で 悪態をつきつつ、
素直にゾロの側に近づく。

座っているゾロの前にジュニアが立つと その腕や腰周り、
太股あたりの肉のつき具合をゾロは バンバンと音が出るほど
乱暴に叩いて確かめた。

さすがにサンジが 栄養のある物をバランス良く食べさせ、
しっかり鍛えているだけあって、
申し分ない肉付きだ。

「お前、今年で幾つになるんだっけか。」
「確か、13歳だったよな。」

ゾロは 不気味な物を見ているような顔付きをしているジュニアの
年を確かめる。

「そうだよ。」
「まだ、そんなガキなんだよな。」とジュニアの答えを聞いて溜息をついた。

「ああ、サニートよりしっかりしてるが、まだ13歳か、お前。」

コックとしても、レストランを任せるオーナーにするにしても、
まだ、ジュニアの年齢は幼すぎる。

一人前になれば、とサンジが言っていたが、それには少なくてもまだ
5年以上はかかりそうだった。

「一人前になるにゃ、まだまだ 掛りそうだなあ。」と軽い落胆を隠さないで
言うと
ジュニアは、ようやくゾロの行動の意味を理解したらしく、
「それで、俺を試したの?」と聞いて来た。
ゾロは 無言で頷いて、肯定する。


ジュニアは
「一生懸命勉強もするし、体も鍛えるよ。一日も早く、」
「サンジに認めてもらえる様になるのは 俺の夢でもあるんだから。」と
言いながら、ゾロの刀を拾う。

「ただ、強いだけじゃレストランは守れないんだってサンジがいつも言うんだ。」
「客が美味いと思う料理、また食いたい料理を作って、」
「また、来たいと思わせる店を作らなきゃダメだって。」

ゾロに刀を渡し、ジュニアはストンとゾロの隣に腰を下ろした。

ゾロは ジュニアをマジマジと見た。
本当に まだ13歳だと言うのに、つい、サンジの描く未来が
どれほどの距離にあるのかを知りたくて 無茶をしてしまったのだが、

ジュニアはその訳をすぐに察して、
その後は ゾロを責める事無く まるで自分がまだ
サンジに認められない未熟さを ゾロに詫びるような口調で言うのを聞いて、
急に 自分の大人気ない行動が恥かしくなった。

「すまん。」
「え。」

ゾロは素直にジュニアに頭を下げた。
自分の投げた刀くらいは十分に避けるだろうと予測してはいたものの、
いくらなんでも あのやり方は乱暴過ぎた。

ジュニアは、ゾロに頭を下げられて ドギマギする。
サンジとゾロが喧嘩する姿を小さな頃から 見慣れているが、
ゾロが頭を下げるのを見たことは 今だかつて一度もなかった。
(サンジがゾロだけでなく、誰かに頭を下げるのを見たことも一度もないのだが。)

「なんで謝るのさ。好きな人と早く一緒にって思うのは当たり前だろ。」
「俺、頑張るからさ。」

そう言って、ジュニアは白い歯を見せて笑った。
ゾロは、恥かしそうに口を歪めて笑いながら、
ジュニアの固い黒い髪を乱暴にグシャグシャと撫でる。

「あはは、久しぶりだね。」

ジュニアは 乱れた髪を手早く整えて、懐かしげに言った。
「小さい頃、サンジに怒られた後、いつもこうやって撫でてくれたよね。」

そういうとゾロは 表情をますます弛めた。
「あいつの怒り方は極端だったからな。」
「お前の根性がひん曲がらなかったのは奇跡だぜ。」


わずか4歳のジュニアに船の操舵技術を教えこもうと サンジは
かなりジュニアに厳しかった。

幼すぎて、不器用にしか動かない指で、太いロープの縛り方、一つ一つを
完璧に結べるようになるまで、
ジュニアは何度も 鼻血を出すほど頬をサンジに張り倒された。

風の方向、海図の読み方、気圧計の見方などを 字の読み書きを覚える前に
ジュニアは覚えた。

その教え方も厳しく、ナミがジュニアを抱いて庇っても
サンジは その腕からジュニアをもぎ取るようにして 自分のやり方を貫いた。

「ナミの言う事に歯向かったのは、後にも先にも、お前の事だけだからな。」と
ゾロは思いだし笑いをする。

「でも、俺、感謝してるよ。」
「サンジが俺を庇って怪我をしたのも、覚えてるし。」

でもさ、とジュニアは面映そうな顔つきでゾロを見上げて、
「サンジが厳しかった分、後で必ずゾロが誉めてくれたから」
「小さな頃はそれが嬉しくて頑張れたんだよ。」

良く頑張ったなって、頭をさっきみたいにぐしゃぐしゃってされるのが
凄く嬉しかったんだ、と言って微笑んで立ち上がった。

「俺に刀を投げたことは、内緒にしておこうか?」
ジュニアはもう寝るつもりなのか、格納庫へ向かって歩き出し、
ニ、三歩歩いて振りかえった。

「そうだな。悪イがそうしてくれ。」
「また、ギャーギャー言われるのも面倒だ。」

ゾロは苦笑いを浮かべて返事をする。

おやすみ、と言って向けられたまだ 幼い背中にゾロは無言のまま
語り掛ける。

お前は、俺達の自慢の息子だよ、ジュニア。



翌朝。


あきらかに眠っていない様子のサンジが朝食の準備をしている。
足で、ウソップが急ごしらえで作った、樽を切って作ったゆりかごを
適当に揺らしながらの作業だった。

「懐かしい風景ね。」

ナミは、朝食前に絞りたての蜜柑ジュースを飲みながら
サンジの後姿を見て微笑んだ。

ウソップが欠伸をしながらキッチンに入って来て、その樽の中の
赤ん坊を覗き込んだ。
その途端、甘えるような泣き声を上げた。

「奇怪な面見せるから 泣いちまったじゃねえか!」とすぐに
サンジがウソップの行動を責めて罵声を浴びせる。

すぐに樽から抱き上げた。

ナミの隣で同じように サンジ特性の美味なジュースを飲んでいた
ニアがその自然なサンジの動きを驚きの表情を隠さずに眺めている。
その真正面に座っていたサニートも同様の顔付きをしていた。

「どうしたの、二人とも?」とナミがその不思議そうな顔の理由を
優しげに尋ねる。

サニートとニアは一瞬、顔を見合わせた。

「だって、あんまり赤ん坊の扱い方に慣れてる見たいだから。」
適当な言葉が咄嗟に出てこないらしいニアに変わってサニートが答える。

ニアはともかく、サニートはサンジとゾロの関係を知っている。
結婚どころか、子供を育てることなど 全然無縁の筈のサンジが、
扱いなれない赤ん坊を触る事など少しも 怖がっていない様子が
とても不思議に思えたのは 無理のないことだった。

「あら、サニートはジュニアから聞いてないの?」
「ジュニアは殆どサンジ君が一人で育てたようなもんなんだから。」

サンジに抱かれていた赤ん坊が泣き止んだ。



別におどけた顔をしてみたり、甘い声をかけたりした訳ではなく、ゆっくりと胸に抱いて暫く 
椅子の上に越し掛けていただけで、
赤ん坊は安心したかのようにサンジを見上げている。

「不思議だわ。」ニアは小さく呟いた。

「じゃあ、ニアちゃん、悪イが頼むよ。」大人しくなった赤ん坊を
サンジはニアに手渡した。

「熱も下がったし、朝飯を食ったら海軍の駐屯地へ連れていってやってくれ。」

サンジがそう言い終わった時。

「大変だ!皆来てくれ〜〜〜っ。」と言うチョッパーが甲板から叫んでいるのが聞こえてきた。



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