漂流していた三人を乗せてから、何事もなく三日が過ぎた。
漁師だと言う老人と、船乗りだと言う若者は、さすがに船の上での作業に慣れていて、
非常に航海の役に立つ。
「まだ信頼し切ってる訳じゃないけど、」と言いながらも、ナミの彼らに対する警戒心は、
時間を追って薄れていった。
だが、まだ、ゾロは彼らに対する警戒心を解くつもりはない。
それは、ロビンが仲間になってから暫くの間、打ち解けなかったのと変りない。
それでも、子供に対しては別だった。
長閑な日和で、航海は順調、大人たちはそれぞれに持ち場や仕事があり、
誰も、「虹色の入り江」の話をした少年を構ってはいなかった。
上半身を汗まみれにして、ゾロはいつもどおり鍛錬に精を出しているのを、
少し離れた場所に佇んで、その少年はじっと見ている。
刈りっぱなしの坊主頭が伸びて、赤茶色の髪が「タワシにそっくりだ」と
ルフィは言い、
目はクリクリと大きく、顔が卵に似ていて、それをウソップは、
「ゆで卵にそっくりだ」と言う。
そんなタワシ少年は、英雄か、勇者を遠くから憧れの目で見る様な、
そんな顔つきをしてゾロを見ていた。
「…お前一人か。ルフィは?」
「え」
最初にルフィと仲良くなってからずっと、ルフィはタワシ少年を構っていたのに、
今側にいない事を不思議に思い、一旦手を止めてそう尋ねた。
急に声をかけられて、きっと少年は驚いたのだろう。
少年が絶句してしまったので、ゾロは少し声音を穏やかにし、
「ルフィだよ。麦わらの船長。仲良しだったんじゃねえのか」と重ねて尋ねると、
「あ、…船長さんは航海士のお姉さんの手伝いをさせられてる…」
少年は、おずおずとそう答えた。
そんな些細なきっかけで、少年はルフィの次にゾロに心を開いた。
変に大人に媚びるような事もなく、少し人見知りをするのは、このぐらいの年齢の
少年ならさして珍しい事もない。
そして、一度心を開けば、いかにも少年らしい、闊達で活発な少年だった。
退屈しのぎに相撲を取っている最中、タワシ少年は
「剣士のお兄さん、ボタンが取れかけてるよ」とゾロの胸元を指差した。
「ん?」
確かに、着ているシャツのボタンが、糸が緩んでブラブラと取れかかっている。
「…チッ…。面倒臭エな…」
ゾロは中途半端にぶら下がっているそのボタンをひきちぎった。
「お姉さんに縫ってもらうの?」
「いや。あいつらに頼むと金を取られる。こう言うのは自分でやるか…」
「器用なヤツに頭下げて縫ってもらうしかねえんだ」
「頭下げるのも、金を払うのも嫌なら自分でやるしかねえんだけど、そうチマチマした
事やるのは性にあわねエし」
「おいらが縫ってあげるよ」「あ?」
ゾロの返事を聞くまでもなく、
タワシ少年は、ポケットから小さな裁縫道具を取り出した。
「なんだ、お前。男の癖に、裁縫道具なんか持ち歩いてるのか」
「そう言うの、変だよ。料理人だって、仕立て屋だって、一流の腕を持ってる男の人、
一杯いるじゃないか」
「それに、海賊だって、雑用の内は、風で破れたマストをしっかり縫うのもちゃんとした
仕事だっていつも兄ちゃんが言ってる。なんでも上手に縫えるようになったら、
兄ちゃんが乗ってる船に乗せてもらえるように船長に頼んでくれるって約束してたんだ」
(海賊…?船?兄ちゃん?)
いくつのかの言葉が、ゾロの耳に引っかかった。
だが、それを聞き咎めたら、きっとタワシ少年は警戒してまた口を閉ざしてしまう。
何気ない風を装い、ゾロはシャツを「じゃあ、練習させてやるよ、」と手渡した。
タワシ少年はそれを受け取り、器用に、でも一生懸命に丁寧にゾロのボタンを縫いつける。
その手元をさり気なく見ながら、ゾロは(どっかの海賊がからんでるな…)と確信した。
けれど、このタワシ少年に詰問しても恐らく相手の正体がわかるくらいで、
どんな罠を張って待ち構えているかなど、詳しい事は、何も分からないだろう。
***
「名前も、素性も、何も話すな、としか言われてねえだろうな」
昼間の事を、夜、見張り台に夜食を運んできたサンジに話すと、サンジは
煙草を吹かして、そう言った。
「実際、あのガキだけ自分の名前、頑として言わねえんだよ」
「普通、タワシなんて呼ばれたら多少は嫌がると思うんだが」
「…それより、あのクソガキ、晩飯を残しやがった」
どんな罠を張っていようと、もう進路が決まってしまった以上、
その罠の中に突っ込んでいくのは避けられない。
なら、もう腹を括って、刺激的な冒険が待っていると思って楽しむか。
どうやら、サンジはそう頭を切り替えたらしい。
彼らが何者で、何を企んでいるかよりも、
本気でタワシ少年が食べ残しをした事の方が気に掛かる様だ。
「タワシには多かったんじゃねえか?」
「いや、昨夜だって昼食だって量は変りないねえよ。好き嫌いもねえって言ってたしな」
そう言って、サンジは腕を組んで見張り台の板に凭れ、首だけを傾けて、
タワシ少年が眠っている筈の男部屋の方へ顔を向けた。
夜の海風を孕んで、麦わらの海賊旗がバタバタと音を立てるのに、
その同じ風に音もなくサンジの髪がなびいている。
突風でも吹けばバランスを崩して落下していきそうなその立ち姿をゾロは
黙って眺めていた。
「…具合でも悪イのか…?」暫くして、サンジは口の中でそう呟く。
「それならチョッパーが気付くだろ」とゾロが言うと、「…だよな」とサンジはまだ
下に目を向けたままそう答えるが、どうも口調が明瞭ではない。
「体調が悪イから残したのか、味付けが口に合わなかったから残したのか、
それがはっきりしねえと、どうも落ち着かねえんだよな」
「どっちにしても、二度と食べ残しなんか許さねえけど」
* **
翌朝の朝食を、タワシ少年は半分も口をつけなかった。
それだけではなく、昨夜は薄いランプの灯りで分からなかったが、明らかに顔色が悪い。
サンジが食べ残しを指摘する前に、その顔色の悪さにチョッパーがすぐに気がついた。
「タワシ、大丈夫か?顔色が悪いぞ」と、チョッパーに声をかけられて、
「船に酔ったみたい…でも、大丈夫だから…」タワシ少年は、弱々しくそう答える。
けれども、それで放置する筈もなく、
「ちっとも大丈夫じゃないだろ?」
「それに船酔いするヤツならとっくに船に酔ってるよ」
「診るから、大人しくしてろよ」と、人型になったチョッパーがタワシを抱き上げる。
その途端。
「うっ」と両手で口を押さた。
「吐きたいのか?」とチョッパーが聞いても、必死に首を横に振る。
けれど、激しい「吐き気」の症状が出ているのは、誰の目にも明らかだ。
「お前、…昨夜から、気分が悪かったのか?」
そう言って慌てて側にあった大きめの食器をサンジはチョッパーに手渡す。
チョッパーはタワシ少年を床に降ろし、それを口元に宛がってやる。
すると、体を震わせて、食べたばかりの食事を吐き戻した。
「お、おい…」
タワシ少年のその様子に船乗りの青年が顔色を変えた。
その取り乱した様子は、ただの知り合いの子供が病気になったのを目の当たりにした、と
言う雰囲気にゾロには見えない。
ゾロに見えないのなら、恐らくロビンやウソップも、当然、サンジも、同じ様に
感じた筈だ。
「熱もある。ちょっと腹を押すよ」と言って、チョッパーはタワシ少年の嘔吐が
治まったのを見届けて、ロビンが広げた防寒用の布の上に横たえた。
「いつから気分が悪かったんだ?」などと、体を強張らせないように穏やかに
話しかけながら、右腹部を掌で押している。
「い、痛い…」チョッパーに腹を押されて、タワシ少年が顔を歪めて小さく呻いた。
それを見て、チョッパーはしっかりと頷き、
「大丈夫、これくらいならすぐに治るよ」
「ちょっと、お腹の中が腫れてるだけだからね」
「それを切っちゃえば、すぐに痛いの治まるから」と立ち上がった。
「切る?今から?ここで?!」
チョッパーに若者が血相を変えてそう詰め寄る。
「こんな揺れる船の中で、小さな子の腹を開くのか?手元が狂ったらどうするんだ!」
「薬を飲ませるとか、他にやりようがあるだろ!」
だが、どう怒鳴られてもチョッパーの方は全く表情を変えずに、
「熱を下げて、嘔吐を治めても、腹の中の腫れは引かないよ」
「むしろ、ますます酷くなって、悪くなってくだけだ」と、淡々と言い返して、
すぐにサンジへ顔を向けた。
「サンジ、お湯を沢山頼む。サンジとロビン以外は、ここから出てくれ」
「了解」と答えたサンジはすぐに湯を沸かす準備に取り掛かり、他のものは、
周りをチョッパーが使いやすいように手早く片付ける。
「死ぬ様な事はないよな、トナカイの先生?」と言う若者の肩に優しくナミが
手を添えて、
「弟のタワシ君は、うちの船医に任せておけば大丈夫よ」
「心配しないで、外に出ましょう、お兄さん?」と皮肉っぽく微笑んだ。
ギョ、として若者がナミの顔を見る。
「あ、あいつは俺の弟ってワケじゃ…」としどろもどろに言い訳しはじめても、
「言い訳は外で聞くわ。早くタワシ君の手当てして上げなきゃ…」と、
ナミは耳を貸さない。
「あと二日もしたら、島に着くはずだ、それまでなんとか腹を切らないでくれ!」
「それがダメなら、付き添わせてくれ!」と
未練がましく、チョッパーに何かまだクドクドと言う若者を
ナミは外へずるずると引き摺るようにして外へ連れ出す。
「大丈夫、こんな軽症のうちなら何も心配しなくていいよ」
「ずっと我慢してたら、手遅れになってたかも知れないけど」
ドアが閉まる間際に言ったチョッパーのその言葉は、その若者には
残念ながら聞こえていない。
* **
滞りなくチョッパーの処置は終わり、タワシ少年は痛みから解放されて、
すぐにスヤスヤと眠ってしまった。
「なんだ、これ?」と、チョッパーが切り取った少年の患部を見てサンジがそう尋ねると、
チョッパーは後片付けをしながら、「盲腸だよ」と答える。
「早く気がついてよかったよ」
「酷くなったら、お腹の中が破裂しちゃって死んじゃう事もあるからね」
そのチョッパーの言葉を聞いて、
「ふーん。じゃあ、昨夜食べ残してたのはやっぱり、気分が悪かったからか」
「俺のメシの所為じゃなかったんだな。良かった」
と、やっとサンジは納得でき、胸を撫で下ろした。
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