夜、更けてサンジは部屋に戻った。

ゾロは目が覚めていたけれど、声は掛けない。
明かりをつける事もなく、サンジは足音を立てないように
そっと窓際に歩み寄り、足を止める。

随分、長い間、外を見ていた。

ゾロはそっと、目を開いて 身動き一つせず、
澄み切った夜空に浮かんだ月からの薄い光の中で
突っ立ったまま ただ、外を眺めているサンジを見た。

煙草の火がフィルターにかかり、もう、燻るばかりで
煙草の味などしないほど 短くなっているのに
それを咥え直す事もなく、サンジは 静かに立っていた。

静かな、そんなサンジを初めて見た。

喧嘩する、男相手に罵詈雑言を吐く、女に甘い言葉を捧げる。
食器や調理器具を扱う音、忙しなく動きまわる足音、

いつも賑やかで、この男の周りの空気から音が消える事は一度もなかった。

その男が静寂の中、何も見つめていないかのような 
あるいは 水平線を見るよりも遠くの物を見ているような
そんな風情で 佇んでいた。

不思議とそんなサンジを見て ゾロの胸の中に
言いようのない 違和感が産まれる。

不自然過ぎる、サンジの姿にどこか 釈然としない気持ち悪さを感じて、
それを払拭したいが為に、
サンジに声を掛けたくなった。

サンジの事など 殆ど知らない。
ゴーイングメリー号の仲間たちの中では
恐らく 自分が一番、サンジから遠い場所にいて、
無関心で、全く興味の沸かない存在だった。

だから、今、目の前の 見たこともないサンジの姿を見ても、
別になんとも 思わない。
それが 自然な自分の心の流れの筈なのに、

その姿を不自然に思い、そして、そんな姿を不快に思う、
自分の予想を裏切る、制御できない自分の気持ちの正体が一体なんなのか、
その疑問さえ まだ 沸かなかった。

声を掛ければ この気持ちの悪さは消える。
だが、じっと 視線を向けてはいても、喉から声がでなかった。

頭の中では かける言葉さえ浮かんでいるのに、
「おい、さっさと寝ろ。」と迷惑そうに言えば、それで元の、
自分の知っているサンジに戻る筈。


「さっさと寝ろよ。別にお前が寝るのを邪魔してねえだろ。」

横を向いたまま、サンジはゾロの視線に気がついたのか
顔を窓の外へ向けたままでいきなり 口を開いた。

その声も、いつもの 喧嘩ごしでなく、
どこか静かで、穏やかに感じた。

「あの尼さんと知り合いか。」

他人と他人との繋がりになど 今まで一度も興味がなかった。

なぜ、サンジに対してそんな言葉を掛けたのか、判らないが
いつものサンジとは明らかに違う様子にしたのは、
サンジが「マダム・クレイン」と呼んでいた、
あの尼僧との再会が大きく 関与しているのだとゾロは予想した。

「てめえには関係ない。」

そして、こうして無愛想に、自分の問いも跳ね返されることも
ゾロは予測していた。

「そうだな。」
それ以上、聞こうとは思わない。
無愛想に、自分を跳ねつけた。その反応が返って来るなら
何も 違和感を感じることはない。幾分、意味不明な胸の疼きが薄れる筈だった。

けれど、今夜は違う。
自分の心がゾロ自身にも理解不能な動きを見せて、それにゾロは狼狽した。
横たわり、無表情のまま、瞼を閉じて、そのざわめいた気持ちをやり過ごす。

自分の知らないサンジを知るのは不愉快だった。
誰かの所為で、自分の知らないサンジを見せられるのはもっと不愉快だった。

それが ずっと後になって この夜の事を思い出した時、
ゾロが気がついた、自分の心の疼きの理由だった。

けれど、今は、何にイラつくのか、何がもどかしいのか
何に胸が疼かされているのか、何ひとつ、判る事はなかった。


「シスター・テレサ。あの方はお知り合いですか?」

二人が起きて来る前、朝食の前の祈りが終り、
若い尼僧は サンジが「マダム・クレイン」と呼んだ尼僧に向かって
離し掛けた。

シスター・テレサは柔らかく、微笑んで頷き、胸に下げた
ロザリオに軽く手を添えた。

「私が知っているのは まだ、小さな少年だった頃。」
「生意気で、元気で、腕白で、」
「淋しがりやで、優しい坊やだった時の事よ。」

「看護婦をなさっていた頃の事ですね。」尼僧が 興味深そうに相槌を打った。



「いい加減にして下さい!」

もう、大丈夫だから退院する、と看護婦の事も、医者の言う事も聞かずに
無理を言い出す、バラティエのオーナーゼフに、
彼と あまり年かさの変らない、気の強そうな看護婦が
雷を落とした。

「もう、あの女医さんはいないんです。もしも、容態が悪くなったら
あなたを治せる人はもう、いないんです!」

ゼフの荷物を引ったくり、そのまま 側で どちらの味方をしていいのか
判らない風で 目を泳がせていた まだ、12歳のサンジに向かって
そのカバンを投げて寄越した。

「容態が落ちつくまで私どもの言う事を聞いてくださらないなら、
どうぞ、勝手に退院して下さって結構。」

サンジはその看護婦の背中を見上げた。

腰に手を置いて、ゼフの前に仁王立ちになった、雄雄しい背中からは、
まるで 熱湯が入ったヤカンから湯気が出ているのと同じ気配がする。

「半病人の作った料理なんて、誰も食べたいなんて思うもんですか!」
「無理して働いて、味が落ちて、結局大事なレストランも潰れて、」

「貴方の為に怪我までして 貴方を助けるために頑張ったチビナス君も
路頭に迷わせてね。それで気が済むなら、今すぐ。」

「どこへなりと行ってくださいな!」

そんな大声で男を怒鳴りつける女性を サンジは初めて見た。
市場で、威勢良く物を売る女達は見なれているし、
客の前でも おおっぴらに掴み合いの喧嘩をする夫婦も見たことがある。
夫を怒鳴りつける妻を見たこともある。

けれど、角が生えるかと思うほどの勢いで、ゼフを怒鳴る女を初めて見て、
驚き、そして、尊敬の眼差しで見つめていた。


その勢いに飲まれたのか、もう、面倒になったのかは判らないが
ゼフは大きく溜息をつき、渋々 彼女の指示に従う事にしたらしく、
「チビナス、カバンからパジャマを出せ。」と言った。

その途端、彼女の背中から急に 熱湯の気配が消え、
飲みごろのミルクティーのような温もりがそれに変った。

ゼフは心臓に瘤が出来、それを取り除く手術をしたばかりだった。

まだ、無理な運動は出来ない。
当然、レストランの厨房に立つ事など体を慣らして、
徐々に普段の生活に戻っていく段階を踏まなければならない。

それなのに、手術が終った翌日にはもう、退院すると言って、
大騒ぎだったのだ。

ゼフがもぞもぞとパジャマに着替え直している間、
その看護婦は、サンジがゼフを助けるために
海賊から貰った「海の雫」と言う宝石を必死で守った所為で
傷ついた右手の手当てをしてくれた。

「そいつの手、動くようになるか。」

小さな手の甲は、乱暴な男の足に踏まれて骨が折れていたし、
皮も酷くめくれていた。

ゼフは看護婦の作業を見て、横から口を挟む。
が、それをじろりと 不機嫌な目つきで看護婦は一瞥し、
「これくらいの怪我でどうにかなるわけないでしょう。」
「余計な心配をしている暇があったら、大人しく横になっててください。」と
無愛想に応えた。

ゼフはむっとしたような顔をしたが、黙ってベッドに横になった。

看護婦、マダム・クレインは、バラティエのオーナー、ゼフの担当看護婦だったのだ。

マダム・クレインとゼフは毎日のように 言い争いをする。
サンジが毎日 ゼフの所へ顔を出すたび、二人が鼻を突き合わせるように
怒鳴り合う姿を見ない日はなかった。

「あんな性悪な女は見た事がない。」とゼフはいつも不機嫌そうだった。

ゼフにとっては「性悪で意地悪な女」かもしれないが、
サンジは、「マダム・クレイン」のコロコロ変わる表情を見るのも、
温かい手も、ふっくらした肌も、優しげな こげ茶色の丸い瞳も
好きだった。

怒っている姿よりも、真剣な眼差しでゼフの腕に注射を打ったり、
脈を取ったり、している姿が綺麗だと思った。

「あのオニババアが綺麗だと?てめえ、目は確かか。」

マダム・クレインは、激務の割りにふくよかだ。
あれだけ忙しく働いているのに、どうしてあんなに太っているのだろうと
サンジも思うが、
もしも、もっと細かったら 知的な瞳やゆったりとウエーブした髪が
とても綺麗で上品な女性だろうと思うのに。

オニババア呼ばわりはあまりに失礼だ。

「ジジイがあの人の言う事を聞かないからだ。」とサンジが
ゼフを咎めても、ゼフはマダム・クレインを「オニババア」と呼ぶ事を
止めなかった。


そんな風にいがみ合いながらも、二人の心が自然な流れで寄り添って行く姿を
12歳のサンジはつぶさに見ていた。

退院してからも、マダムは時折、バラティエに来てくれた。

育ち盛りのサンジの洋服も、靴も、すぐに小さくなる。
マダムは、よく、綺麗に洗い上げられた衣服を持って来てくれた。

「お下がりでごめんなさいね。でも、自分の手で捨てられないの。」
「チビナス君が着てくれるなら。」

買えない金がない訳ではない。
ゼフから給料として金を貰っているけれど、マダムから貰える服を
着て見せて、それで嬉しそうに笑うマダムの顔が
幼いサンジは好きだった。

「息子から連絡はねえのか。」

バラティエが休みの日、そして、マダムの仕事が休みの日が重なるのは
滅多にない事だった。

その日はその滅多にない日で、買い出し用の船に乗り、
3人は穏やかな海の上で それぞれ、釣り糸を垂らしていた。

「この前、手紙が来たわ。投函されたのは3年以上も前のだけどね。」と
マダムは暢気そうに応える。

マダムの息子は、20をいくつか 過ぎた頃だろう、と言う。
海軍に入って、グランドラインのどこかの部隊に配置されているらしかった。

二人で出掛ければ言いのに、とサンジは思っていたが、
二人の雰囲気はまるで 旧知の友達同士のようで
側にいても 別に気恥ずかしくなることは何もなかった。

マダムの事は相変らず、「オニババア」と呼ぶし、
マダムはゼフの事を サンジと同じように呼ぶ。

そして、サンジがゼフに対して素直に接することが出来なくなるようになっても、
マダムとゼフの間柄はいつまでもそのままで、

マダムとサンジの間柄もずっとそのままだった。




船に戻って、サンジは 修道院から貰ってきた野菜で
夕食を作った。

別れ際、今は「シスター・テレサ」となった、マダムにサンジは
しっかりと抱き締められた。

「私の言葉を決して忘れないで。」

瞳を潤ませながら、微笑む「シスターテレサ」にサンジは頷いた。


ゾロは無言で一礼し、その場を離れたのだ。
が、また、得体の知れない、気掛かりが心に残った。

「忘れません。いつか、そんな日が来たら思い出します。」
「誰かを愛する事に迷った時にね。」


何気なくサンジが口にしたその言葉が ゾロの心に 
疎外された不快さとは違う、
正体不明な物を見た、けれどそれになんの影響も、危害も与えられないもどかしさを
強く感じた。

(わからねえ。)

サンジと二人になってから、どうもおかしい。

自分の知らないサンジを見て、心がざわめく。

(もっと、こいつの事を知れば。)このイラつきからも、この意味不明な
胸の疼きが薄れて行くのだろうか。

知らないから、薄雲のような、捕らえどころのない、あやふやな物に囚われるのだ。
もっと知れば、知らない部分がなくなるまで知れば、
どんな姿を目の前に晒されても 動揺することはないだろう。


「今日は、また、随分地味だな。」

サンジが作った食事に対して、感想を述べたのは初めてなのだ。
自分のいつもと違う気持ちに同調するように、
行動も言動も いつもと違っている事に
実際、本人は気がつかないまま、ゾロは何気なく テーブルに並んだ料理を見て、
思ったままを口にした。

「ちょっと、目先を変えて見た。懐かしい人に会ったんでな。」

見た目をどう言われようと サンジは一向に構わなかった。
今日の料理は見た目じゃなく、味でその真価を発揮するのだ。

ゾロはテーブルについて、その料理を口に運ぶ。

うまい言葉で表現は出来ないが、飾らない、けれど 優しい、
・ ・・・そんな言葉がぴったりと当てはまるような味だった。

「クソうめえだろ。」

サンジはニッと歯を見せて笑う。
たまにはなんとか言って見ろ、と無理に感想を強いたりして
口論になるが、その前に
サンジがゾロにそんな風に 素直な笑顔を見せるのは
珍しい。

いや、初めての事だろうとゾロは思った。

いつも、サンジの料理はよく舌に馴染む。
喉を滑らかに通る。内臓に心地よく沁みこむ。

けれど、素直にそれを誉めることは出来なかった。
サンジを喜ばせるつもりなど 毛頭ないし、
自分が素直に気持ちをサンジに晒したら、結果、
サンジの鼻が膨らみ、調子に乗るのが判っていて、
その浮ついた顔を見るのは癪に障るからだ。

けれど、素直なサンジの笑顔につられた。

「ああ、すげえ美味い。」

そう言うと、本当に嬉しそうに、けれどそれ以上
素直に気持ちをゾロに見せるのが気恥ずかしかったのか、
そこから 表情こそ変化はなかったが、
蒼い瞳の輝きが増した。

「これは、ジジイに教えてもらったんじゃねえ。」
「俺がジジイ以上の味を出せるとしたら、これしかねえんだ。」

そういえば、この料理は初めてゾロが見る物だった。
何故、仲間に作らない料理を自分に作ってくれたのか。

「なんで、ルフィ達には作ってやらねえんだ?」
「こんなに美味いのに。」

嬉しさと疑問が一度に浮かんだ。

自分だけが特別扱いされていると感じて、それが嬉しいと
そんな浮ついた感情だとは全く気がつかないで
ゾロは思ったとおりの言葉をそのまま口にする。

「恥かしいんだよ。」とサンジは肘をついて、
椅子に深く腰を下ろした。

ゾロがサンジの話の続きを促すような目つきをしたので
サンジはそのまま 言葉を続けた。

「ママの味ってやつを男が作るって事がなんとなく・・・な。」

トップページ    次のページ