昼と、夜の営業の間。

ゾロが、ジュニアの病院からオールブルーのレストランに着いたのは、
そんな時間帯だった。

自宅ではなく、まず、レストランに船を寄せる。

「ジュニア君の容態は?」と 下準備に来ていた数人のコックが口々にゾロに聞いてくる。

「あいつはもう大丈夫」と、ゾロは 自分がいなかった間、
サンジを支えよう、と尽力してくれたコック達に柔和な表情を見せる。

「あいつは。」とゾロが尋ねる前に、
「オーナーは、自宅に。あの。」と、あの戦闘で顔に火傷を負って
まだ、頬に大きなガーゼを張りつけたままの若いコックが

「随分、無理をされてます。」
と、余計な口出しをしている、と言う自覚があるのだろう。
おずおずとそう言った。

「わかってる。」ゾロは頷き、そのコックの肩を軽く叩いて、レストランを後にする。

このレストランの誰もが、サンジを支えようとしている事が嬉しかった。


そのまま、桟橋を渡る。
破壊されて、途切れていた筈の桟橋は、素人の仕事だとすぐにわかるけれど、
支障なく仕えるように既に修理されてあった。


雲行きがあやしい。
今にも、降りそうだ、とゾロが空を見上げた途端、
その額に一粒、一粒、と降り始めた。


小雨だけれど、風にのって運ばれる雨の粒は冷たい。
自宅のある陸に辿りついて、ゾロは家の建物の方へと駈けて行く。

(いねえ)
ドアを開けても、家の中は物音一つせず、サンジの気配もない。
すぐに庭へと向かう。

黒いスーツ姿のサンジの背中が見えた。

ゾロは静かにその側に近寄った。

「花、全部枯れちまった。」

ゾロの気配を察したのだろう、サンジは背を向けたまま、そう言った。

足もとには、無残に萎れた花が雨に打たれている。

ゾロは言葉に詰った。

「アトリさんが種から大事に育ててくれたのに。」

恋人が遠く、孤独を感じない筈がないから、それを少しでも慰める為に。

サンジの部屋を、居間を、レストランのエントランスを、

客席を

ささやかに飾る為に、アトリが手塩をにかけて育てた花達は、
サムや、犠牲になった他の4人のコック達への手向けに使われた後、
誰に水を与えられる事も、その葉を食む虫を駆除される事もなく、
皆、枯れてしまっていた。


「俺がどうして生きてるんだ。」

慰めて欲しくない。
生きている事を喜んでなど欲しくもない。

何度も、繰り返し思うのは、何故、自分が死なず、
なんの罪もない者が犠牲にならなければならなかったのか。

「そんな風に言うな。」

どんな言葉もサンジを癒す事など出来ないと知っていても、
ゾロは 口に出さずにはいられなかった。
慰める積もりでも、命ある事を喜ぶつもりでもない。

サンジの心の痛みが誰よりも判る。
判るだけでなく、感じる。

傷ばかり増え、少しもその傷は治癒の気配を見せず、
日々、小さな傷が増えて行くだけで、

疲れ切って、けれど、休む事も、壊れる事さえ出来ない、
抉るような、締めつけられるような、突き刺されるような
いい様のない、痛みが ゾロには伝わっている。

「もう、自分を責めるな。」
「お前は何も悪くねえ。」

強引に肩を掴んで 向き直らせる。
目を伏せた、サンジの瞼から雨に混ざって、温かい雫がこぼれた。

「お前は悪くねえ。」

サンジを慰めようとする、誰もが同じ事を言う。
聞き飽きるほど、言われた言葉。
ゾロの口からほとばしるように言われても、サンジの心には
沁み込んではいかない。

「俺はお前になにもしてやれねえのか。」

抱き寄せないで、ゾロはサンジの顔を真っ正面から見た。
瞼を閉じ、静かに、まだ、泣くことを堪えたサンジの苦渋に満ちた顔を
直視する。

「側にいるだけで、お前がどれだけ苦しいのか、」
「判ってても、俺にはなにも出来ねえか。」

無力だ、と痛烈に思い、ゾロは口を閉ざした。

世界一の強さを持っていても、
そんなものは、今、なんの役にも立たない。

たった一人、何より大切な存在の悲しみを 取り去るどころか、
薄らげる事さえ 出来ないのだ。

サンジは、まだ、何も答えないで ゾロを見ようともしない。
自分一人で 背負った苦しみと戦おうとしているように、
ゾロには見えた。

「俺を見てくれ。」

苦しいのも、悲しいのも、共に感じ合える筈だ。
「俺も苦しいんだ。」

何もしてやれない。
何もさせてくれない、もどかしさに 何を言えば伝わるのか、
ゾロは判らなくなった。

同じだけ悲しくて、同じだけ、苦しさを感じていると
どう言えば、どうしたら 判ってくれるのだろう。

名前を呼ぶ、その声が詰まり、震えた。
目が痛い。

雨に混じって、ゾロの頬にも温かなしずくが伝った。

それをサンジの、やっと開いた蒼い瞳が映した。

「俺はこれからどうしたらいい。」とやっと、ゾロに問い掛ける。

「どうやって、償えばいいか、わからねえ。」
塞ぎ切っていた感情が、一気に吹き出す。

どちらともなく、腕を伸ばしてお互いの肩に顔を埋めた。

「俺の所為で。」何度となく、繰り返した言葉をまた、吐き出した。
けれど、その先の言葉は続かず、ゾロに縋りつくように体を預けて、
サンジは 押さえていた感情をもう、とめる事が出来ず、
身を震わせて 泣いた。


「お前の所為じゃない」
「お前の所為じゃない。」

自分でも訳が判らないほど、ゾロは同じ言葉を繰り返した。

お前の所為じゃない。

一緒にこの苦しみを越えて行くしかない。
同じように悲しみ、同じように苦しんで。

「側にいてくれ。それだけでいい。」

思いやりの言葉や、労わる気遣いではなく、
共に罪を背負ってくれるだけでいい、とサンジは言う。

それが出来るのは、ゾロ、お前だけだ。

ゾロは強く、深く、その言葉に頷いた。

「あなた方を通してはいけない、と。」

ライの直属の部下だと言う青年が、その病室の前で
ゾロを遮った。

サンジは、すぐ側のジュニアが手当てを受けている病院の一室で、
ぐっすりと眠っている。

その間に、ゾロは、意識を回復したというライの様子を
見に来たのだ。

「なに?」当然、ゾロはその海兵の言葉を訝しく思った。
「ヒナ嬢から、ロロノア氏にも、サンジ氏にも ライさんを会わせてはいけない、と」
「命令されているので、お通しする訳にはいきません。」とその
若い海兵は 言い切って テコでも動こうとはしない。

「容態だけでも教えてくれねえか。」
ゾロの言葉は あくまで へりくだっているようでも、
その口調と眼差しは その海兵を威圧していた。

「そ、それは。」と海兵は口篭もる。
それさえも、ヒナは禁じているのか。

「意識は戻ったんだろう。」
ゾロは海兵に詰め寄った。彼の額に、威圧的な剣豪への怖れか、
玉のような汗が噴出した。

「急変したわ。」
「絶対安静で、面会謝絶よ。」
「わたくしも、まだ、会ってないわ。」

凄腕の海軍太佐ともなれば、ゾロでさえ 気配を感じれない身のこなしが
自然に出来るのだろうか。
黒檻のヒナがゾロの側に佇んでいた。

口には、火の付いていない煙草を咥えて、
慄然と、まるで 業務連絡をしているような 抑揚のない口調だった。

「今朝までは、口を利けたそうよ。」
「でも、あの子、何を思ったか、病室を抜け出して どこかへ行こうとしたの。」
「でも、酷い怪我だもの。そのまま、昏倒して意識不明。」

ヒナは、まっすぐにゾロを見た。
冷たい、なんの感情も篭らない目をしていた。

無言で、ゾロはヒナの前を通り過ぎる。
その背中をヒナの声が追い掛けて来た。

「あの子にとって、オールブルーのサンジって、一体なんなの。」

ゾロは瞬間、立ち止まり、
「昔馴染みだ。」とだけ、答えた。

ただ、それだけではない事を、わざわざ、立ち止まって、
海軍の、ライの上官に教える気にはならない。
会えないほど容態が悪い、と聞いて ゾロは暗澹たる気分になっていた。


ライは、
(サンジか、ジュニアのところへ行こうとしたんだ)とゾロには判る。

サンジが大切に育てているジュニアをその身を挺して庇った、
その自分が無事だと、サンジに伝えたかったのだろう。
そして、ジュニアの無事を、自分の目で確かめたかったのだろう。

ゾロはそこまで考えて、立ち止まり、ヒナを振りかえった。
「意識が戻ったら、必ず、教えてくれ。」

「仲間だから?」とヒナは敵意剥き出しになった、眼差しで尋ねる。
背を向けられていた所為で、表情を隠していなかった。

「あの子の過去については、わたくしだって、承知しているわ。」
「判ってるなら聞くな。」
そんな目つきをされたら、ゾロも険しい口調、目つきになる。

ヒナはそれでも怯まなかった。
気圧される事もなかった。

「あの戦闘で負傷したのは、ライ一人じゃないでしょう。」
「負傷した私の部下、一人一人を見舞ってもらいたいものだわ。」

二人ともが、
やり場のない怒りと憤りとやるせなかさの吐き出し口を求めている様な光景だった。

自分らしくない、とヒナも思っている。
ゾロも、理不尽な言いがかりめいた事を言う、ヒナに対して、
腹立ちを感じても馬鹿馬鹿しいと判っていても、

苛立つ気持ちを押し殺す事もできず、静かな廊下で 
憎しみ合う者同士さながらに、鋭い視線をぶつけ合った。

「あなたでなく、オールブルーのサンジにね。」
ヒナは捨て台詞のようにそう言い放つとゾロに背を向けた。

ゾロは それに対して何も答えない。
こんな所で、無駄な諍いをする気も、時間も惜しかった。



ゾロがサンジを強制的に休ませる手段も、あれ一度きりだった。

翌日から、サンジはまた、忙しく、神経も、体も休ませることなく、
動き続ける。

例の戦闘を目の当たりにしていた客から噂を聞いて、
サンジに わざわざ、慰問しにくるお節介な客も多かった。

大変だったね、だの。
オーナーが無事で良かったよ、だの。
どうか、元気を出して、だの。
頑張ってください、だの。


口々に、サンジを慰める言葉を、簡単に掛けて来る。
それを聞くたび、サンジの心に傷が増えて行く。

本当は、きっと、誰にも会いたくないだろう。
何もしたくないだろう。

悲しいなら、悔しいなら、身を捩って泣き、
悲しみ抜かなければならないのに、今のサンジには、その時間がない。

同情や、慰めの言葉こそが、サンジをますます深く、傷つけていても、
それを拒絶する事さえ出来ず、

それに絶えている姿を側で ただ、見ているだけしか出来ないゾロにも、
辛さが募って行く。

「サンジ、ちゃんと食べてる?」
「ちゃんと、休んでる?」とあれほど、自分のことだけを考えろ、と言われているのに、
ジュニアはサンジの様子を気に掛けていた。

「食べてるし、休んでるから、心配するな。」と ジュニアの前でさえ、
サンジは気丈に振舞っている。

ゾロは、ずっと、ジュニアの側にいて、サンジと顔を合わせるのは、
ジュニアの病院でだけだ。

サンジが来ないある日、ジュニアがゾロに言い出した。
「俺、もう つきっきりでなくても大丈夫だから、ゾロ。」
「サンジの側にいてあげて。」

ゾロは、細い腕に一日中、点滴の細い管を突き刺され、
頭に白い包帯を巻いまま、ベッドから身動き出来ないジュニアの
髪を撫でた。

「お前は、本当に強くて、優しいな。」
あの時の戦闘がよほど、怖かったのか、ジュニアは夜中にうなされたり、
唐突に目を醒ましたりする。
幼い頃から危険な目に数えきれないほど遭っていても、壮絶な経験が
やはり、ジュニアの神経を逆立てているのだろう、と医者は言っていた。

そんな状態なのに、ジュニアはサンジを気遣う。
まだ、11歳、普通の少年なら、誰かに甘えて縋り付き、弱音を吐いて
泣いたり、我侭を言う方がずっと自然な筈なのに。

「お願いだよ、ゾロ。」

ゾロの優しい目を見て、ジュニアは更に言い募る。
必死で言わないと、ゾロは自分の言うとおりにはしてくれない。
そう思った。

こんな子供にまで、心配掛けて、あのバカは。

ジュニアはゾロの小さな呟きを聞く。

「あいつはもう、大人だ。お前が心配する事じゃない。」

ジュニアは、ゾロのその言葉に首を振った。
「判ってるけど、心配なんだよ。ゾロもそうでしょう。」
「ゾロが行かないなら、俺が行くよ。」
「俺がサンジの側に行く。」

「ジュニア。」サンジにとって大事なら、当然、ゾロにとっても、
ジュニアはなにより、愛すべき存在だと今更ながら 気がつかされる。

思わず、起き上がったジュニアの体をゾロは抱き締めた。
「お前が生きててくれて、本当に良かった。」

不謹慎だとは思う。
けれど、ゾロは痛烈に、ただ、それだけを思えば、言葉が勝手に唇をついてこぼれ出ていた。

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