「だから、休養しなければならない、と言ったんですよ.」

コックの誰かが、海軍から医者を呼んだ。
だが、ゾロがサンジを離さないので、部屋の外からサンジの様子を
副料理長のビルから聞いて、顔を顰めて医者はそう言った。

「体も硬直しているようですし、完全に事切れてるようですな。」
「先生、」

なんとか、自分だけでもしっかりしなければ、とビルは眼を真っ赤にしながら、
取り縋るような口調で、「なんとか診て下さい。心臓マッサージとかすれば、
甦生するかも知れないじゃないですか.」と懇願した。

「しかしねえ。」

そう言って、初老の医者は再び、痛々しい面持ちで部屋の中のゾロと、
横たわるサンジと、ジュニアを眺める.


ゾロは、ただ、サンジがこれ以上、冷たくならない様に、
少しでも体が解れて、体温が戻ってくるように、手のひらでサンジの体を
擦っていた。

こんな事、絶対に夢だ。

同じ言葉が頭の中にぐるぐる回るだけだった。

目を開けてくれ。
何か、答えてくれ。

何度同じ言葉を繰り返しても、サンジの瞼は固く閉ざされたままだった。

「ロロノアさん、」ビルが困窮しきった表情で何度もゾロを呼び、
どうにか、振りかえらせた。

なんとか甦生させてもらうから、とビルはゾロを引き剥がして、
医者にサンジを診てもらう。
けれど、もう、為す術がない、と医者は溜息を吐くばかりだ。

解剖しなければ、死因が判らない、と医者は言う。
今、サンジのレストランにはこの状況下で冷静でいられる者は誰もいない。

サンジが使っていたコック達は殆どが海賊出身か、船乗りだった気性の荒い連中だ。
サンジを解剖する、つまり、サンジの体を切刻む、と言った途端、
全員が、医者に向かって、口々に罵詈雑言を吐いた。

誰の目も、涙で濡れていた。だが、泣き崩れる者は誰もいない。
誰一人、サンジの死を認めたくはない。
何かの間違いだとか、医者の誤診だとかを誰もが望んだ。

そして、その騒然とした中、コック達を静かに押し退けて、リビングに
いつもどおりの格好をしたアトリが入って来た。

コック達はその瞬間、全員の頭の中に同じ疑問が浮かぶ。
サンジの留守中、ゾロの妻の如く振舞いをしていたアトリが。

「あんたがオーナーを殺したのか。」

誰も口にしない言葉を、ビルが声を震わせながら尋ねる.
アトリはビルの嫌疑の目を真正面から見据えて、目を逸らす事無く、
真っ直ぐに見かえした。

アトリの顔色は真っ青に近い、紙のような白さだった。

「嘘でしょう、アトリさん。」

ゾロの隣で魂を抜かれた様な顔で座りこんでいたジュニアがやっと口を開いた。
涙で潤んだ黒い瞳を見て、アトリの強張った、無表情な眼差しが少しだけ
揺らぐ。

アトリの体は小刻みに震えていた。

そこにいる全員が固唾を飲んで、アトリと、ゾロ、ジュニアの様子を
見守っている。

「サンジさんがいたら、私はいつまでも幸せになれない、と思ったんです。」
「私が、サンジさんに毒を飲んでくれ、と.」

そこまでアトリが話した時、ゾロがサンジの体に埋めまま、
「俺の前に顔を出すな。」と言ってアトリの言葉を遮った。

「それ以上、何も言うな。」

サンジを追い詰めたのがアトリなら、今すぐにでも斬り殺してやりたい。
けれど、ゾロは今、刀を持つ力も気力も起きない。
憎しみに駆られて人を斬り殺す衝動さえゾロの心には沸き上がって来ないのだ。

そして、アトリ自身の口から聞かされているのに、ゾロには
アトリの言葉を信じられる要因は何もなかった。
ただ、サンジが眼を閉じたまま動かない。息をしない。呼び掛けても答えない。
それだけがゾロの思考を支配し、それ以外の情報を何一つ、受けつけない。

麻痺した心の中から、たった一つだけ零れた感情は、そのまま
世界一の大剣豪とはとても思えない、震えた声になり変わり、アトリに
ぶつけられた。

「お前がサンジを殺す訳がねえ。」

思い掛けないゾロの言葉にアトリは息を飲む。
周りの人間がアトリを疑い、そして本人が自分が毒薬を飲めと言った、と
言っているのに、ゾロはそれを取り乱した状態のままで否定したのだ。

けれど、アトリは引き下がれなかった。
望む事は、たった一つだけ。

「私は、普通に幸せになりたかっただけなのに、サンジさんの所為で、」
「なにもかも失ったんです.だから、私はサンジさんが憎かった。」
「死ねばいいと思ったんです.」

どうしても、想いが遂げられないのなら、
そして、死にたくなるような苦しさを抱えていても、
自分の力で死ぬ事も出来ないのなら、いっそ、その手に掛ろう。

それがアトリの覚悟だった。

サンジの心の美しさには到底及ばない.
こんな醜い自分には、ゾロを愛する資格などない。
自分自身の恋心と命を全て、投げ出して、アトリは楽になるつもりで
ゾロを煽った。

心の中で、必死に叫ぶ。

どうか、早く、私を解き放ってください。
悲しみも、醜さも感じられない場所へ。

ゾロが刀を手にしたのを見て、アトリは自分の望みが叶った事を確信し、
目を閉じた。

サムを奪ったとサンジを憎んだのも事実。
愛し合う二人を妬んだのも、事実。
これ以上ない程憎まれて、
サンジとゾロが幸せになれない傷だけを残した人間として、

いつまでも、二人の記憶に残るだろう、とアトリは思っていた。


幸せの権利は、愛を知る者のみ、与えられる。
愛した事、愛する事を知る者が手にする事が出来る。


「店を開けよう。」とゾロが刀を手にした時、ジュニアが急に立ち上がった。

「店を休んじゃダメだ。今日も予約で満席なんだから。」
拳で涙を拭って、居並ぶコック達にジュニアは気丈にそう言った。
「でも、ジュニア.」とビルがジュニアの突飛な言葉に異論を唱えかけると、
「サンジは、きっと俺が死んでも店を休まないと思う。」とジュニアは
真っ直ぐにビルを見、コック達を見回し、キッパリと言いきる。

「サンジはきっと目を覚ます。」とジュニアはアトリに顔を向けて
けれど、その言葉は、周りの者に対して向けられた。

「だって、ゾロが一番悲しむ事をアトリさんがする筈ない。」

ジュニアの純粋な言葉がアトリの心を射抜く。
膨張しきった袋が一気に破けて爆発したように、嫉妬も憎しみも、羨望も、悲しみも、
自分ではどうしようもなかった感情の全てが、アトリの心から涙となって瞳から溢れた。

何一つ言葉にならず、全身の力が抜けて、身を震わせて泣く事しか出来なかった。

こんなに自分勝手な自分を、
深い悲しみから抜け出せないまま、変わってしまった自分を、
今だに信じ抜いてくれた人がいた。

ジュニアの言葉はそのまま、サンジの気持ちなのだ。

月明かりの下、穏やかに微笑んでサンジの唇から零れた言葉がアトリの脳裏によぎる。

あなたが幸せになるなら。
どんな事でもします。

その言葉をアトリが信じられる様に、サンジはアトリの行動を何一つ、
否定しないで、全てを受け入れた。

そして、毒かも知れない薬さえ、飲んだ。
サンジは最初からアトリが自分に毒など飲ます筈がないと信じていた、
だから、なんの躊躇いもなく薬を煽ったのだ。

サンジは、アトリの幸せを心から望んでいるのだと、その行動で
アトリに示した。

そして、そのサンジの気持ちはジュニアにも、ゾロにも伝わっている。
サンジが何よりも誰よりも愛している者達には、サンジの愛は伝わっている。

それを目の当たりにして、アトリはどろどろしたものでイッパイだった
胸の中が空っぽになって、その空洞にとても温かなモノで満たされて行くのを
感じた。

(私は、)愛されているのだ、とサムを亡くしてから初めて感じた。

肉体を求められるのでもなく、ただ、「幸せになって欲しい」と熱望する、
純粋な愛だけで心が満たされて行く。
何故、今まで気がつかなったのだろう。こんなに側に、
誰を傷つけなくても、すぐに見つかる筈近くに在ったのに、と自分の愚かさに
また、涙が溢れて、いつまでも、頬を伝った。

多分、それ以外に適当な言葉が見つからなかったのだろう。
アトリは嗚咽の中から、何度も、何度も「ごめんなさい」と言った。

けれど、それがサンジの命を奪った謝罪では無いとすぐにゾロにも、
ジュニアにも伝わる。

「いつ、」いつ頃目を覚ますんですか、とジュニアがアトリに尋ねる前に、
ゾロは唐突にサンジを抱き上げた。

そうしなければ、全身を緊張させていた力が抜けて
感情が制御できなくなり、号泣してしまいそうな気がしたからだ。

誰も邪魔されない所、静かで、温かな所で、サンジの目覚めを待ちたかった。
そのゾロの気持ちは、サンジの居室へと歩くゾロの背中を見て、
そこにいる全員が悟り、そして、脱力するほどの安堵と
全ての問題が氷解していく様を見届けられた事の幸福を覚えた。

堰き止められていた、悲しみの涙が一転して、喜びの感涙に変わる。

「今日の夕方にはきっと。」アトリはどうにかそう答えたが、
もう、ゾロはリビングを出て、サンジを自分達の居室へと運んでしまった後だった。

ゾロは、サンジを寝床に横たえた後、窓を覆うカーテンを力任せに
引いて、窓を開いて、風を部屋に入れた。

太陽の光がサンジを照らす様に。
風がサンジの体を撫でる様に。

まだ、亡骸と変わらないサンジの瞼を閉じた顔は、ここ最近では見た事もないほど、
穏やかだった。

風が冷え過ぎ無いよう、ゾロもサンジの隣に体を寄せて、
そっとサンジの固い指を解しながらしっかりとその掌を握り、凍えた手を温めるように息を吹きかける。

それだけでは飽き足らずに背中に腕を回してサンジの体をまた、
胸に抱きこもうとした時、固まったままの筈のサンジの頭が
カクンと力なく後へと反った。

(硬直が引いてるのか?)とゾロの心臓は、自分にも聞こえるかとおもうほど、
強く脈打つ。

固く、絡みついていた指がぱらりとゾロの手から落ちる。
不自然に力が篭っていたような細い肩先も、ゾロの腕の中で
しなやかさを取り戻し、その確かな重みに唇を噛み締めて、
震えを止めなければならないほど、ゾロの全身に歓喜が突きぬけた。

「サンジ」と喉から勝手に声が漏れ、思わず、呼び掛けていた。

まるでそれに答える様に、サンジの胸が大きく上下して、
深い、深い、溜息を吐いた。

シーツに力なく垂れていた手をゾロはもう一度、握りこむ。
まだ、意識が戻っていないサンジの指がゆっくりとゾロの指を探す様に震えながら
追い駆ける。

その動きをゾロはじっと見ていた。
その映像が酷くぼやけて、瞬きするとまた鮮明に見え、その都度、
頬を温かい雫が流れ落ちて行く。

サンジの手の、
その指が探すのは、他の誰の指でもない。

意識のない状態なのに、自分の手を温めている者が誰なのか、をサンジは知っている。
指を絡ませる様にサンジと手を繋ぐのは、ゾロだけなのだから。

言いたい事はたくさんあった筈だった。
聞きたい事も理解出来ない事もたくさんあった筈なのに、
もうなにもかもどうでも良くなっていた。

太陽の温もりを吸収するように、サンジの体が時間を追って
温かくなる。その体を抱いていると、陽だまりの中の陽光を抱いているような
気さえして来た。

ゾロの心の中には、早く目を覚ませ、という気持ちと、
長い長い間、苦しみ、それゆえに疲労が蓄積した心と体を
静かに休ませてやりたいと言う気持ちが同時に沸き上がってくる。

体を密着させて、ゾロはサンジの鼓動を感じて、飽きる事無く、
自分の息を潜めて確かに脈打つ確かな命のリズムを持ち切れない幸福感に
浸りながら聞いていた。

「ロロノアさん、」とビルの声がする。

返事をする前に、ビルがドアの外から、
「サンジさんの、昔からのお知り合いだっていう尼さんが」
「ホテルで倒れて、危篤だと」

「なんとか、一目サンジさんに会いたいって仰ってるそうですが。」

遠慮がちにそう言うビルの声を聞いて、ゾロはサンジを抱いたまま、
「まだ、目を覚ましそうにねえ」と答えた。

(昔からの知り合いの尼さんって)とゾロは記憶を辿る.

ライのところから帰って来る途中で、自分が唯一、母親だと慕った、
ゼフの恋人だった女性と偶然会って、
近々、レストランに来る、と言っていたサンジの話しを思い出した。

(もう少し、休ませてやりてえが)

やっと、一つ大きな苦しみが去ろうとしているのに。
目を覚ました途端、サンジはまた、悲しみと向き合わねばならないのか。

そう思うとこのまま、目を覚ますまで静かに眠りを守ってやりたい。
が、サンジにとって、その修道女はかけがえのない存在だ。
ゼフの時は死に目に合えず、亡骸さえ見ることも出来なかった。
その事で、どれだけ長い間、サンジがゼフとの別れを後悔していたかも知っている。

「おい、起きろ」

ゾロはサンジを最初は静かにゆっくりと、揺さぶった。
けれど、薬で無理矢理仮死状態にされていたのだから、そう簡単には
覚醒しない。

「ビル、その尼さんのところへ、とりあえずジュニアを連れて行け.」
「こいつが起きたらすぐに追い駆ける。」

閉じられたままのドアへ向かって、ゾロはそう怒鳴った。
サンジにとって、母親同然なら、彼女にとって、ジュニアは孫同然だ。
悔いの無い別れが出来るように、ジュニアなら、
なんとか死に際を引きとめてくれるかもしれない、とゾロは考えたのだった。

軽く頬を叩いたり、名前を耳元で呼んでもサンジは意識を失ったままだ。
一刻も早く、と焦るけれども、あまり乱暴な事はしたくなかった。

ゾロはサンジの唇を自分の唇で塞ぐ。
脱力しきったサンジの唇はやすやすとゾロの侵入を許した。

全く反応のないサンジの舌を自分の舌で好き勝手に撫で回すと、
息が苦しくなってきたのか、サンジは眉根を寄せた。

「・・・ッァふッ。」

ゾロが口を離すとサンジは乱れた息を吐き、重たげに瞼が薄く開く。

「おい、」

声をかけなければ、再び瞼を閉じてしまいそうで、ゾロは慌てて
サンジを揺さぶりながら呼び掛ける。

「寝てる場合じゃねえぞ。」

今はアトリとの事は後回しにするべきだとゾロは完全に頭を切り替えていた。
状況の把握が何も出来ないらしく、サンジは何度も瞬きをしながら、
黙ってゾロの顔を見上げていたが、
暫くして、
「なんだよ。」とサンジは怪訝な口調ながら、やっと、まともな声で返事をする。

「お前のおふくろさんが危篤だそうだ。」
「さっさといかねえと死に目に会えねえぞ。」

「おふくろさん?」ゾロの言葉を聞いて、サンジは体をゾロから
離しながらまた、訝しげな表情でつぶやく様にゾロの言葉を聞き返した。

「この前、船の上で会ったっつってたろ、」とゾロは咄嗟にその修道女の名前が、
頭の中から出てこなかった。
修道女になってからの名前と、本名とがごっちゃになってしまっているのだ。

「マダム・クレインが」とサンジの顔が強張る。
そして、すぐに寝床から起き上がったが、体からまだ薬が抜けきっていないようで、
床にガクン、と膝から崩れ落ちた。

その体を受けとめ、ゾロはサンジの体を支えてやり、二人はそのまま、
大急ぎでホテルに向かった。


そして。

一月が過ぎようとしていた。

オールブルーには、もうすぐ冬が来る。
春が来るまで店は休業、客を迎えるのも、今日が最後だ。

「嘘みたいに、日が経つのが早かったな。」と鮮やかに赤く染まる海を見ながら
サンジは誰に言うともなく、呟いた。

「もうすぐ、あれから一月にもなるんだね。」と傍らのジュニアが相槌を打つ。
「アトリさん、元気かな.」

形見に、とジュニアは、クレインからロザリオを貰った。
危篤状態だったけれど、奇跡的に回復し、修道女、シスター・テレサは
アトリを伴って、自分達の島へと帰って行った。

「てっきり、俺はあの人がここへ来たのは、ジジイが呼んだんだと思ってたけどな。」とサンジはぼんやりとした口調で呟いて、水平線を眺める。

ゼフが夢見たこの場所を見せ、この場所までゼフは生涯愛したクレインを
迎えに来て、そのまま連れていくつもりだと思っていたが、
クレインは、元気に自分の、生きる場所へと戻って行ったのだ。

「あの、オーナー、」とサンジの背中へビルが声をかけて来た。
今の時間は、客を入れる前にコック達が一息つく為の休憩時間だというのに、
サンジが振り向くと、サンジが最も信頼している数人のコック達が
勢ぞろいしていた。

「なんだよ。」と皆が妙に改まった顔付きをしているので、サンジは苦笑いを浮かべて、
用件を尋ねる。

「俺達、このオールブルーに家族を呼び寄せた事がありません。」

ビルは歳の離れた妹がいる.
他の者も、家族をオールブルーに呼び寄せた者もいるけれど、大半が
家族と離れた生活を送っている。

「客の来ない冬に、ゆっくり家族と気兼ねなく過ごしたいんで、」
「ここへ家族を呼んでも構いませんか.」

意外な用件にサンジは一瞬、唖然とするが、ジュニアはあらかじめ、
ビルからその事を聞いていたらしい。

「ビルさん達が除雪してくれるから、サンジはここにいなくてもいいんじゃないの?」
そう言って、ニッコリと悪戯っぽく微笑んだ。

「俺も海軍の宿舎に入るし。サンジ、別にどこに行く当ても無いんだからさ。」
「春が来るまで、ゾロと一緒にいなよ。」

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