ゾロの、
「俺の幸せを誰も望んじゃくれねえか。」
「俺だって、幸せになりてえと思う権利はあるだろう。」と言う言葉は、
アトリの心を大きく揺さぶった。

何もかもを投げうち、全てを賭けて、愛を捧げる、と言う自分と、
自分の手の中に大事な物を抱えて、ゾロを待つだけで愛されるサンジと、

その差、その違いを突き刺さるような痛みを感じるように、思い知らされる。

それでも、愛したい。愛されなくても構わない。
ただ、ゾロを、ゾロの全てを愛したいのだ。
誰に憚る事無く、誰に恥じる事無く、ゾロを愛する事を誇って、生きて生きたい。

否定されても、拒否されても、
それでもゾロへの思いを断ち切れない。
今、ゾロへの想いを断ち切れ、というのは、そのまま、
命を、生きて行く希望を捨てろというのに、等しかった。

ライの行きついた場所へ、愛する人の幸せを願う幸せで微笑んでいられる場所に、
アトリが辿りつくまでには、まだ、試練を自分に課さねばならなかった。

「ロロノアさんの幸せってなんでしょうか。」とアトリは沈黙の末、
ゾロに尋ねる。

「今まで、俺は幸せになりてえ、なんて一度も考えた事なかった。」
ゾロはアトリの潤んだ瞳を見据えて、静かに答える。
ゆっくり、ゆっくり、自分の心の中にある、形のない思いを大切に扱って、
言葉に変換し、声に乗せて、アトリの波立つ心に響くように。

「気がついたら、」そう言って、ゾロは一瞬だけ、サンジの方に視線を流した。

そして、すぐにアトリに静寂な湖面のような瞳を向け、
「こいつが夢を叶えてて」
「俺は俺の夢を叶えてて、」

「俺の大事な場所はこいつが夢を叶えたこの場所で、」
「いつでも、ここに来れば、一生懸命生きてるこいつがいる。」
「幸せってのが、どういうモンなのか、俺にはイマイチわからねえが、」
「幸せって言葉を"何よりも大事な物を手に入れる"って意味で解釈するなら、」
「俺の幸せは、多分、それだ。」

口下手で寡黙なゾロが語った言葉は、アトリとサンジの心をそれぞれに震わせた。

ゾロの望む幸せは、既にここにある、とゾロは言う。
すなわち、サンジが、サンジが大事だと思うもの全てを包んで、
サンジと共にある人生が自分の幸せだと言ったのだ。

「私も、そうでしたわ。」アトリは衝撃を受けながらも、ゾロの言葉を理解する。
理解はするけれど、自分が弾き出した方法を断念するつもりはない。
自分でも、もう、引き返せないほど、ゾロを愛しているのだと
今更ながらに強く自覚した。

「私もサムが私の幸せだと思って生きていました。」

そう言うと座っていたソファから静かに立ち上がる。
思いの全ては伝えた。
そして、ゾロの気持ちも、ゾロの望みも、知った。

「幸せを失って、また、幸せになりたい、と思えるようになったのも、」
「私の悲しみを癒してくれた人がいてくれたからこそ、ですわ。」

何故、こんなにもゾロに惹かれてしまったのだろう。

中途半端に話しを終らせたまま、アトリは自分の部屋に戻って
自分の、ここまで肥大してしまった一方的な愛の経緯を落ち着いて振り返ってみる。

ゾロは、一片の穢れも無く、サンジを愛している。
その包みこむような優しさ。
なんの見かえりも期待しない清らかさ。
サンジの全てを信じ切っている潔さ。
そして、周りの嘲笑や蔑みにも負けずに、今日まで揺るぎない絆を保ち続けた強さ。
ゾロの、「人を愛する力」に、
まるで、磁石に吸い寄せられた砂鉄のように吸い寄せられた様な気がした。

砂鉄は吸い寄せた磁石から己の力で零れ落ちる事は出来ない。

サンジを憎まないでいれば、醜い自分にならないでいられると言う気持ちはまだ
変わっていない。
自分自身でどうにもならない気持ちと、苦しさから逃れる為に、
最後にもう一度だけ、その自分の良心の盾でもあるサンジに縋ってみよう、と
アトリは決心する。


「ゾロと一緒に生きたい」と言うアトリの言葉は再び、サンジの心を
揺さぶっていた。

以前なら、きっと、自虐的な考えで頭がイッパイになっていただろう。
「俺がいなきゃ、いい。」と言葉に出して、自棄になって、
逃げていたかも知れない。

けれど、今のサンジは違う。
自分の人生をないがしろにしては、自分が本当に大切に思う者達を
結局は不幸にしてしまう、と学習した。

自分を大切に思う、と言うのは、時に、とても我侭で、利己的な事だと思われるだろう。
サンジもつい、最近まではそう思っていて、
自分を大切に思うよりもまずは、自分を犠牲にしても構わないから、
守るべき者は守るべきで、それが最善の方法だと信じていた。

けれど、そうではなかった。

こんなにはっきりと、ゾロは言う。
「幸せって言葉を"何よりも大事な物を手に入れる"って意味で解釈するなら、」
「俺の幸せは、」

サンジが自分に嘘をつく事も無く、心も体も健やかにあり、幸せである事だ、と。

サンジがそれに奢るような人間なら、ゾロの言葉を喜ぶ権利はない。
しかし、それを知らなければ、いつまでも、何度でも、
同じ過ちを繰り返しつづけ、負わなくてもいい傷を自分だけでなく、
ゾロにまで、負わせていただろう。

ライの涙と、ゾロの静かな告白で、サンジは曇りのない目で正しい方法だけを
見付け出せる。
どんなにアトリが血迷った方法を提示してきても、きっと間違えずに、
誰もが幸せになる方法を導き出せるような気がした。

サンジの内面の変化にゾロはまだ気付かないでいる。

「おい。」

アトリが部屋から出て行った後、ジュニアも床につき、夜はどんどん更けて行く。
思いの全てを話しきって、サンジが何を思っているか、ゾロは知りたかった。

ゾロがソファに座ったまま、ゆったりと煙草を吹かしているサンジに
焦れた様に声を掛けた。

サンジはゾロに背を向けたまま、
「なあ、」と反対にゾロに声を投げた。

「不思議だな。」サンジはまるで独り言のようにつぶやく。
「あんなにはっきり、お前が好きだって言われてンのに、」
「なんで、まだ俺は彼女を大事に思えるんだろうな。」
「なんで、彼女が幸せになるなら、なんでもしたい、してあげたい、って」
「思えるんだろうな。」

アトリとの想い出は、ゾロを待つ寂しさを紛らわした想い出の風景と重なる。

離れて恋しいと思う気持ちを言葉には出さないで、常に思いやってくれていたアトリ。
会えて嬉しいと思う気持ちを笑顔で見守って、まるで自分の事のように
喜んでくれたアトリ。

息子を、夫を愛して、辛い境遇でも笑っていたアトリ。

その幸せを根こそぎ奪って、やっと取り戻した笑顔の条件が、
自分の最も大事なゾロ故だとわかっていても、かつて、

誰に対しても向けられていた花のような懐かしい笑顔を、サンジは、
取り戻せるものなら、取り戻したいとまだ、思っている。

「お前、」ゾロはそこまで聞いて、サンジの言葉を遮った。
「また、バカな事を考えてるじゃねえだろうな。」

「は。」サンジはゾロの言葉を鼻で笑った。
そして、やっと振りかえり、ゾロの顔を見て微笑む。

「同じ失敗(ヘマ)をそう何度も繰り返すかよ。」
「俺も少しは利口になったつもりだ。」

「ちゃんと考えてやるよ、」
そう言って、サンジは体を捻り、ゾロに腕を伸ばした。
少し届かない距離を縮める様にゾロはその腕を引寄せながら、
自分もそっと近寄り、背中ごしにサンジの肩を包む。

「考えるって何をだ。」
ゾロが尋ねたその言葉をサンジは幽かに笑いながら答える。
「アトリさんも、お前も、幸せになる方法を、さ。」

翌日。

ゾロのいないところで、話しがしたい、と言うアトリと、
サンジは、店が終わってから、そして、ゾロが眠ってしまった深夜に
満月が波間を照らし、くっきりとした影が砂浜に落ちるほどの明るい入り江で、
会った。

「私、今日、1日ずっと考えていたんです。」
ひとしきり、雑談を交わし、それが一段落してからアトリは切り出した。

「もし、今手の中にある幸せを失ったとしても、」
「それ以上か、それに匹敵する幸せが未来に用意されているとしたら、」
「今の幸せを失ってしまっても構わないと思いませんか、サンジさん。」

サンジはアトリの言葉の意味とそこにあるアトリの気持ちが理解できずに
頭の中で彼女の言葉を反芻した。

だが、やはり理解出来ない。
少し首を傾けて、困惑の色を浮かべた笑みをアトリに向け、
「それは、また、難しい質問ですね。」
「どんな答えがベストなのか、さっぱり考えつきません.」

「もし、今手の中にある幸せを失ったとしても、」
「それ以上か、それに匹敵する幸せが未来に用意されているとしたら、」
「今の幸せを失ってしまっても構わないと思いませんか、サンジさん。」

サンジはアトリの言葉の意味とそこにあるアトリの気持ちが理解できずに
頭の中で彼女の言葉を反芻した。

だが、やはり理解出来ない。
少し首を傾けて、困惑の色を浮かべた笑みをアトリに向け、
「それは、また、難しい質問ですね。」
「どんな答えがベストなのか、さっぱり考えつきません.」と答えた。

「運命っていうのは、結果が全てだと思ったんです。」とアトリはゆっくりと
歩き出した。目的地がある訳ではなく、サムの墓前で話すべきではない、

自分の心がサムに届く筈も無いのに、亡き息子に自分の、
あまりに女として、身勝手な言い草を聞かれたくない、と思ったのだ。

「リュウを愛して、サムが生まれて、」
「サムがあなたの弟子になりたい、と憧れて、そして私達親子はここに来て、」

アトリは、そこまで話し、また、脳裏にサムの顔が浮かんで、涙ぐむ。
恋する女であっても、息子を偲び、惜しむ気持ちは決して失われない。

「サムが亡くなって。」
「そして、私は一人ぼっちになりました。」

サンジの足音を背中に聞きながら、アトリは穏やかな波音が鳴く海岸へと
歩いて行く。

月が明るくて、足もとまではっきりと見える。
サンジが息さえひそめて、静かにアトリの言葉と
そこにある気持ちをあまさずに感じ取ろうとしている温かな空気がアトリの肩を
包みこんでいるように思えた。

(こんなに優しい人じゃなかったら、)とアトリはゆっくりとサンジを振りかえる。
(私をもっと、蔑んで、批難してくれたなら、こんなに苦しくなかったかも知れない。)

「私はロロノアさんを愛してしまいました。」
「あなたには、いい尽くせないくらいの恩を受けておきながら。」
「自分では、どうしようもないくらいに。」

だから、どうしろ、どうして欲しい、とはアトリは言わない。
言える筈も無い。
例え、サンジが「それじゃあ、ゾロと二人で幸せになってください」と言ったとしても、
ゾロがそれを望んでいないのだから、アトリが本当に望んでいる幸せを
手にいれる為に、アトリにもサンジにも出来る事などなにもないのだから。

「そういうもんなんでしょうね。」とサンジは穏やかに答えた。
少し肌寒い潮風が、サンジの髪を揺らしている。

「自分でコントロール出来る程度の気持ちなら、
"愛してる"とは言えないのかも知れません。」

「コントロール出来ないから、どうしていいのか判らなくなる。」
「コントロール出来ないから、苦しくて、堪らなくなる。」
「でも、諦められない。」

サンジは自分の経験を振り返りながら、一言、一言、噛み締める様にアトリに
話す。

「多分、今、僕は、世界中で一番、あなたの気持ちを理解出来る男ですよ。」と
サンジは頑ななアトリの表情と気持ちをほぐす様に微笑んだ。

「同じ人間を同じくらい、大切に想っている者同士ですからね。」

サンジは、アトリが何度も口にしているのと対照的に、
決して、自分も「ゾロを愛している」、とは言わない。

「私が不幸になったのは、ロロノアさんと共に生きる為に必要な試練だったような
気がします。」

アトリは、サンジの柔らかな言葉と気持ちを拒否するかのように、
僅かにもどかしさからくる怒りを滲ませた口調でそう言いきった。

「私の不幸をロロノアさんが救ってくれたように、」
「私もロロノアさんの不幸を、癒します。私の、一生を賭けて.」

そう言ってから、アトリはスカートのポケットから小さな瓶を取り出した。
見たこともないほど緊迫して、僅かに震える指に摘んだそれをサンジに
差し出す。

「私が幸せになる魔法の薬です。」
「サンジさんが、私の幸せの為になんでもしてくれる、と言う気持ちが本当なら、」
「この魔法の薬を飲んでください。」

サンジはアトリの言葉を呆然とした顔で数秒、見つめていた。

けれど、すぐに表情を緩めて、いつものように穏やかに微笑む。
「この薬を僕が飲めば、あなたは幸せになれるんですね。」と言い、

両手で、アトリの指先からそっと高価な宝石を授かる騎士のように、
その小さな瓶を受取った。

「ええ、」アトリは喉が詰ったような声で返事をする。
全身が小さく震えていた。

「そんな素敵な薬があるなら、もっと早く出してくれたら良かったのに。」
サンジは本当にささやかな宝物を受取った如くに、その瓶を
柔らかな眼差しで見つめて呟いた。

そして、アトリのなにかを思い詰めたような眼差しを受けて、
「あなたがどれだけゾロを愛してるか、信じてますよ。」と言って、
いつもどおりの優しい、アトリにとっては、優し過ぎる笑みを浮かべた。

アトリは、自分自身に最後の試練を課した。
「幸せの権利」を射止める為に引き絞った矢を、ついに放ってしまった。

息子の死さえ、運命だと思えるほど、愛したゾロを悲しませる事になると判っていても、
この想いを抱え続ける苦しさから逃れるには、これしか方法を思い付かなかった。


そして、サンジは躊躇わなかった。
ゾロもジュニアも寝静まった自宅の、見慣れたリビングで、
馴染んだソファにいつもどおりに長々と寝そべって、
アトリの作ったクッションに頭を深く埋め、いつもどおりに寛いだ格好、
転寝しているような格好で、アトリの言う、「幸せになる魔法の薬」を喉に流し込む。

(アトリさんが、幸せになるなら。)とだけを思えば、躊躇う理由などなかった。

眠りに落ちる前、母とも慕う、ゼフの恋人だった修道女の顔が浮かんだ。
(あの人に、今の俺が出来る最高の料理を食べさせてあげなきゃ)と考えたところで、
サンジの意識はプツリと途切れた。


そして、朝陽が昇った。


リビングのソファにはサンジがいつもの格好で眠っている姿が見えた。

(あんなところで寝て)と朝食を作りに早起きして来たジュニアが
リビングに入ってくるなり顔を顰める。

寝起きが悪いのを知っているので、黙ってキッチンに向かった。
手早く三人分の朝食を作って、サンジの寝ているテーブルに運ぶ。

(今日もいい天気だな。)とふと、窓の外の閉じられていたカーテンが
朝陽を遮っているのが勿体無くて、ジュニアはリビングの窓を覆っているカーテンを
全部、開け放った。
その途中で、リビングのドアが開いて、ゾロがようやく起きてくる。

いつもどおりの朝の風景だった。

「サンジ、朝ご飯出来たよ。」とジュニアはサンジの体を揺さぶり起こそうと
何気なく、手を肩に添えた。
そして、その瞬間に顔が強張る。

一瞬で、指先が痺れるほどの緊張がジュニアの全身に走った。

サンジ、と呼び掛けたいのに声が出ない。

「どうした。」とゾロは尋ねながら、サンジの側ににじり寄る。
そして、ゾロの心臓にも、ギュっと掴まれたような衝撃が走った。

「おい、」と乱暴にサンジを揺さぶったが、その手が自由に動かない。

(まさか、そんな事が)

サンジの体は冷えきっていた。
呼吸も、鼓動も感じられなかった。

その体は、蝋人形のように固かった。

ゾロの頭の中が真っ白になる。
サンジの名前を呼ぶ自分の声が脳味噌に響く。

周りの人間が勝手に動き始めても、ゾロは自分の目の前の現実が
把握出来なかった。

夢を、とんでもない悪夢を見ているような感覚だけが確かだった。

「ロロノアノダンナイシャガキマシタ。」

と言う言葉がゾロには理解出来なかった。
自分の腕の中で、身じろき一つせずに、穏やかな顔で眠っているサンジを
誰かが無理に引き剥がそうとしている。
ゾロには、そうとしか感じられない。

「こいつに触るな。」と誰だろうと何者だろうと、自分からサンジを引き剥がす者を
なぎ払う事しか考えられなかった。

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