「もう、どこにも行くなよ。」
柔らかで、心にも、身体にも、自分の持つ温もりをお互いに
分け合うような抱擁の後に、ゾロは生まれたままの姿で腕の中に
包んだサンジに囁いた。
「ああ。」
それから、サンジは、離れていた時の事を包み隠さず、
全て、ゾロに話した。
ライが話せるようになった経緯も、ライの激しい愛情をぶつけられて、
一瞬、浮かんだ醜い感情も、
それを看破されて、ライを傷つけたことも、
そして、それでもライは サンジの幸せを見守ると言った事も。
最後まで、一言も口を挟まず、、ゾロは耳に流れるサンジの声を
まるで、音楽を聴くような心地良さで聞きながら、
その言葉の意味をしっかりと受けとめる。
そして、サンジの話しを全て聞き終えた時に、
「はじめて、」ライに対して、危機感を覚えた、とサンジに呟いた。
「危機感?」サンジはゾロの言葉を身体を少しずらして、
ゾロの表情を伺うように聞き返す。
「俺にはとても出来ねえ。」と静かにゾロは笑った。
少しだけ、その笑顔はほろ苦い。
「自分以外の誰かとおまえが幸せになるのを 黙って見てるなんて。」
「そこまで、人間が出来てねえよ。」
ライがサンジに、特別な感情を抱いているのは、もう、ずっと昔から知っている。
けれど、それは憧れに近いモノだとゾロは解釈して来た。
できのいい、兄を慕う弟のように。
ライがサンジを「好きだ」と言うのは、そんな気持ちだと思っていた。
けれど、そうではなく、ライが自分と同じ様な想いで、
サンジを見ていたと今、知って、それでも尚、サンジの為に、
傷ついても、苦しんでも、サンジをゾロの元へと見送って、
それが自分の幸せだと笑っていたライの強さに、ゾロは
危機感を感じたのだ。
「俺は、お前が思ってるよりずっと 了見の狭エ男なんだぜ。」と
ゾロはサンジの身体を傷の残る胸の上に抱き上げて、
サンジを見上げて、口の端を歪めて笑った。
「本気でおまえが俺から離れようとしたら、」
「おまえを殺すかも知れねえぞ。」と低く、冗談めいた口調でサンジに囁いた。
「まさか。」とサンジは呆れたような表情を浮かべて答える。
だが、ゾロは口調はそのままだが、眼差しに本気の気持ちを篭めた。
今までは、嫉妬や独占欲を剥き出しにすれば、必ず、サンジは反発して来た。
何時の間にか、そんな事を口にする必要などもなくなって、
わざわざ、有り得ない仮定の話をするのも馬鹿馬鹿しいので、
ゾロは自分の本心をサンジに話す事もなく、今まで過ごして来た。
だから、サンジが知らないでいたのも無理はない。
「本当に、そんな事をおまえが望んだなら、俺はお前を殺す。」
「俺は、ライみたいな愛し方はしねえ。」
「おまえを殺して、自分も泣き狂うまで泣いて、」
「それでも、絶対エ、後悔はしねエ。」
共に生きてこそ、自分の人生に価値が生まれる。
若い頃は、考えもしなかった価値観が、くっきりとゾロの心に根ざしていた。
自分の言葉で、ゾロはそれを改めて自覚する。
サンジがいてこそ、今の自分の人生があるのだ、と。
「おまえがそんなに嫉妬ぶかいタチだったなんて、ちっとも、知らなかった。」
とサンジは半分、本気で、半分冗談のようなゾロの言葉を聞いて少し笑った。
嫉妬、と言う言葉だけでは説明出来ない想いが、ゾロの言葉には
篭っている。それだけははっきりとサンジには判った。
そして、夜が明ける。
ジュニアは、自分とゾロの身の回りの事は、アトリにはさせなかった。
もともと、自分とサンジの世話をしてくれていたのを
拒絶するのに、いつも、必死で、色々な言い訳をして、自分とサンジの居場所を
アトリに荒されるのを拒むかのように、かたくなに、ゾロのものを
一切触らせなかった。
「私の仕事よ。」と言われても、先に、先に、用意して、
コック達の心ない噂をどうにか、消し去ろうと努力して来た。
だから、その朝も誰よりも早く起きて、自宅のキッチンに向かう。
すると、何かを刻む音が聞こえてきた。
(!)
ジュニアは、その音がてっきり、アトリがこの家に入って来て、
朝食を作っている音だと思い、そう思った途端、胸の中が軋むような痛みを覚える。
母親を知らないジュニアにとって、アトリは、その匂いを感じさせる、
温かな存在だったけれど、それはもう、過去の事だ。
今は、ジュニアにとって、自分の足もとの土台をなぎ払おうとしている、
「余所者」という感覚の方が強くなってしまっている。
その感情を抱いてしまったことに、親友だった今は亡きサムに対して、
申し訳ないと思うけれど、
ジュニアにとって、サンジもゾロも実の親以上に大切な家族なのだ。
その家族を引き裂こうとしているかのようなアトリを、
ジュニアが厭うのは無理からぬ事だった。
「ゾロの朝ご飯は俺が作ります、」と明らかに 迷惑そうな声が自然に
出てしまった。
「よう、早いな。」
何事もなかったような顔をして、サンジがキッチンに立っている。
それを見て、ジュニアは、夢を見ているのか、と目を擦った。
まさか、こんなになんの前触れもなく、
悪びれもせずに、堂々と、いつもと変わらぬ態度のサンジが、
気楽に返事をした。
どれだけ、気を揉んだか、少しは申し訳なさそうな態度をとっても
いいだろうに、いつもと少しも変わらないサンジを見て、
(随分な態度だ。)とジュニアは腹が立った。
そして、泣きたくなった。
だが、ここで泣くとまた、子供扱いされる。
自分は大人なんだ、と認めてもらう、こんないい機会はない。
それに、少しくらいはイヤミの一つも言わねば、気が治まらない。
なにより、一言、「悪かった」くらいは言って欲しい。
「サンジ」
ジュニアは、キッチンの入り口で突っ立ったまま、
憮然とサンジの名を呼んだ。
抱きついて、お帰り、と言えるほど、もう、子供ではないのだ、と
精一杯、大人ぶって見せたくて、涙をぐっと堪える。
「あ?」とサンジは料理を作る手を止めて、ジュニアの方を向き直った。
何時の間にか、ジュニアは、自分のすぐ後ろ、背中にゾロの気配を感じる。
「外から帰ったら、手を洗うんだろ。洗ったんだろうね?」
何を言い出すのか、とゾロは驚いて、ジュニアの背中を見守った。
何をどう言われても、サンジはジュニアにはキチンと、大人として
幼いが故に、余計な心配をして、気苦労をさせた事を謝罪しなければならない。
だが、意地っ張りで、ジュニアの親がわりでもあり、料理と足技の師匠としての
威厳も保ちたいだろう、サンジがどう答えるか、もゾロは気になって、
二人の攻防を微笑ましい気持ちで眺めている。
ジュニアの以外な言葉にサンジはあ然として何も答えない。
「洗ったのか、って聞いてるだろ!」とジュニアは叱り付けるように
声を荒げる。
「洗った。」と面食らってサンジが答えると、
「うがいは?」と続けざまに聞く。
「それはしてねえ」とバカ正直にサンジが答えると、
「そこでして。」とシンクを指差す。
サンジが素直に ガラガラガラ、と音を立てて、うがいを済ませて、
首を傾げながら、ジュニアに向き直ると、
「俺に何か言うべきじゃないの?」とまだ、憮然とジュニアは言う。
「心配かけて、悪かった。」とサンジがおもの他、素直にそれでも、
恥かしそうにそう言うと、
「違う!」と答えたジュニアの声は はっきりと怒りを露にしていた。
けれど、その声には、もう涙も滲んでいる。
「外から、帰ってきたら、まず、なんていうのさ!」
悪かった、とか、心配かけたな、と言う言葉よりも、
ジュニアは、もっと、もっと、単純な言葉だけで良かった。
いつもと変わらないサンジがここにいる。
ここに帰ってきた、どこにもいかない、ここがサンジの場所なんだ、と
宣言してくれるだけで満足する。
「ただいま。」とサンジが面映そうに答えた途端、
みっともないくらいに、今まで我慢して外に出さないように
堰き止めてきた色々な感情が真っ黒な瞳から塩水になって吹きでて、零れた。
「おかえり。」とパジャマの袖で、涙を拭いながら、
それでも、毅然とした態度を崩さないようにジュニアはしっかりと答える。
いっそ、この人が私に敵意を剥き出しにするような人なら、
憎む事も出来たかも知れない。
アトリは、帰ってきたサンジを見てそう感じた。
サンジの姿を見ただけで、アトリは自分の心の中を巣食い始めていたどす黒い雲と、
まだ、利己的な愛を否定する本来の価値観の、その相反する二つの感情が
自分の心の中に存在するのを思い知らされた。
美しいサンジ。
優しいサンジ。
強いサンジ。
サンジを作る、全ての物がそこに在って、だからこそ、ゾロがここにいるのだと
二人並んで改めて思い知る。
決して何者にも侵されない二人が目の前にいる事は紛れもない事実で、
サンジの存在は、アトリにとって、自分の良心を守る盾であり、
自分の良心を傷つける楔にもなる。
「お帰りなさい、サンジさん。」と素直に言えるのは、サンジが側にいる事で、
ゾロの顔が自分には決して見せない穏やかなものを目の当たりにし、
それに対して喜びを感じたからだ。
この人の幸せの為にサンジさんは必要なのだと今更ながらに思う。
「ご心配をお掛けしました。」とサンジは笑って答えてくれる。
大切な人だ、と言ってくれたサンジの言葉にも心にもどこにも嘘や虚栄など
なかった、と蒼い瞳を見てアトリは思う。
サンジを憎んだりしなければ、いつまでも美しい心のままでいられるような
気がした。
「本当に。」と、昔のように笑みを浮かべられる。
けれど、サンジが目の前からいなくなった途端に、アトリの心の中の
自分の幸せを貪欲に求める女の部分が顔を出す。
何故、あの人はあんなに恵まれているのか。
少しくらい醜い部分が在る筈なのに。
(愛されているから、)だとアトリには判る。
かつて、自分も今、ゾロを愛しているのと同じ気持ちで、夫のリュウを愛していた。
だから、愛し、愛される事でお互いが磨かれる、そうして成長しあう事の
素晴らしさも理解出来る。
サンジを傷つけないまま、サンジと憎しみあわないで、ゾロと生きられる方法はないか。
そんな出来もしない事をアトリは、ぼんやりとサムの墓碑の前で考えていた。
そして、理不尽な答えに行きついた。
その夜。
「サンジさん、ロロノアさん、お話があります。」
レストランの閉店後、
サンジが自宅に戻ってきて、ジュニアが作った賄料理を食べていると
アトリが尋ねてきた。
サムがいないだけで、昔のような和やかな雰囲気の中、アトリは切り出す。
「私、もう、大丈夫ですわ。やっと、落ち着きました。」
「サムが眠っているここを離れるのは辛いのですが、」
「今まで、本当にお世話になりました。」
サンジはコックコートのまま、アトリの真正面に座り、アトリの一言、一言を
聞き漏らすまい、アトリの感情を見逃すまい、としながらも、
労わるような優しい眼差しをアトリに注ぐ。
そして、アトリが最初の言葉を話し終えた時、
「一人で大丈夫ですか」と静かに尋ねた。
「私、」アトリはサンジの質問に一瞬、言い澱んだ。
だが、意を決したように、サンジを真っ直ぐに見据え、
「私、ロロノアさんについていきます。」
「ロロノアさんの行く場所へ、どこでも行くつもりです。」
思い掛けないアトリの言葉にサンジの後でソファの背凭れ部分に
手を置いて、成り行きを見ていたゾロも、
アトリと対峙していたサンジも言葉を失う。
「サンジさんには、このレストランがある。」
「ジュニア君もいる。」
「養っていかなければならないたくさんのコックさん達、」
「ホテルの従業員の皆さん、それから、」
「サンジさんの料理を楽しみにここへ旅してくるお客様、」
「守らなければならないもの、手に抱えられる物はたくさんあるでしょう。」
「その全てを手放して、ロロノアさんと一緒に行くなんて出来ないでしょう。」
そこまで言って、アトリはサンジではなく、ゾロを見上げた。
「愛して下さいなんて言いません。」
「ただ、側にいさせてください。」
「労わってくれなくても、足手まといになるなら、見捨ててくれても構いません。」
「私は、あなたがここから旅に出る時、共に行きます。」
言ってしまってから、アトリはじっとサンジの言葉を待つ。
どうせ、否、と言われるに決っている。
「それで、」どれくらいの長さの沈黙がその部屋を支配していただろう。
三人の目の前のコーヒーの薫りがすっかり飛んで、温かなカップが
冷えてしまっている。
この答えを出すのに、アトリはきっと、色々な事を考えたのだろう。
嫌がらせや、皮肉でこんな事を言う人間ではないとサンジはまだ
アトリを信じていた。
「あなたが幸せになるのなら、僕は止めません。」
思い上がりではなく、本当にアトリには幸せになって欲しいと思うからこそ、
サンジは自分の考えを、
自分がベストだと思う方法を言葉を噛み締めるように話す。
それがアトリを傷つける辛辣な言葉だと判っていても、もう、逃げる事も
目を逸らす事もしない。
今、この時、この場所から逃げたところで、誰も幸せにはならないのだと
たくさんの回り道の末にやっと気がついた。
だから、言える。
「でも、あなたはそれで本当に幸せになれますか。」
それは、ゾロから身を引く、と言う意味ではない。
ゾロが愛しているのは、自分だけでそれは決して揺らぐ事がない。
例え、自分がそれを拒絶しても無駄だとサンジもアトリも判っている。
「ええ。もちろん、」アトリは澱みもなく、迷いもなく即答した。
「アトリ、」今度はゾロが口を開いた。
「こんな言い方はしたくねえが、俺は女連れで旅をするつもりはねえ。」
「勝手に付いて来るのも迷惑だ。」
今、初めてアトリからはっきりと その想いを告白されて、ゾロは
少なからず動揺していた。けれど、答えははっきりしている。
サンジはアトリと穏やかに言葉を交わしながら、その心を理解する。
自分だって(いつかは、きっと。)ゾロと行く。
そう思っているからこそ、ゾロと共に生きる、と望むその心を理解出来た。
ゾロと言う人間を愛した者同士、共通の思いを分かり合えるつもりでいる。
アトリがここまで平常心を取り戻したのは、ただ、ゾロに恋して、そして、
愛したい、愛されたい、と言う心があればこそだった。
彼女自身にも、サンジにもどうしようもなかった悲しみから
抜け出す力を、本人が自覚しなくてもずっとアトリに与えつづけていたのは、
ゾロなのだ。
自分が今まで生きてきて突きつけられた苦しみの全てから、
心と体に叩き付けられた痛みの全てから、解放されて来た道の上には
いつもゾロがいた。
同じ経験をしたから、アトリの気持ちが誰よりも判る、
だから、却ってサンジは辛かった。
「あなたは、誰かを愛して、愛されて、そして幸せになる人だと僕はずっと
思ってました。」
「あなたは、子供が欲しい、だから僕に抱いてくれ、それが出来ないから、
ゾロに、と考えた事もあったけど、」
「今は、ゾロといる事だけを望むんですね。」
自分では何も出来ない事。
アトリの幸せの為に出来る事が何一つない事上、それを口にして
彼女が選ぼうとしている擬似的な幸福の道を断ち切らねばならないのが辛い。
「アトリ、お前は、俺の側にいる、ただ、それだけで幸せかも知れねえ。」
「が、俺はどうなるんだ。」
ゾロの意外な言葉を聞いて、思わずサンジは振りかえり、
アトリは伏せていた目をあげてゾロを見た。
「俺の幸せを誰も望んじゃくれねえか。」
「俺だって、幸せになりてえと思う権利はあるだろう。」
(ああ、そうだった)
サンジはゾロのその言葉で目が覚めたような気になった。
今まで、アトリの幸せの事ばかりをずっと考えていた。
ゾロの気持ちやゾロの望む事は、理解している、間違わずに把握していると
無意識に思っていて、考えて見たことさえなかった。
アトリも同様だった。
自分が幸せになりたいとエゴ剥き出しだったつもりはないが、
自分の身に降り掛かった不幸だけを見据えて、そこに縛られ、
ようやくそこから抜け出せた今になっても、
まだ、自分の幸せだけを考えていた事に急に気がつかされた。
本当に愛した人の幸せを願う。
かつて、ライが行きついた答えがアトリの前に提示された。
けれど、その行動を取る為にいかに深く、崇高な愛が必要で、
そしてそれを手にする事がいかに困難かをこの瞬間、アトリはまだ、考える事さえ出来なかった。
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