「有難うございました。」
「これでやっと、サンジさんをロロノアさんのところへ返せます。」

ライにしてみれば、その言葉は当然の言葉だった。

サンジの耳にピアスがない事から、「なにかあったに違い無いない。」と思っていても、
それに踏みこめる立場ではないのは承知している。

だが、ライのその言葉を聞いて、サンジははっきりと、
「領域を越えた者に対する不快感」を無言で、表情に滲ませた。

「返せる?」と低い、不機嫌極まりない声でライの言葉を咎める。

「気に食わねえ言い方だな。」と言うとライに背を向けた。

そのまま、表情を隠すように背を向けたままでタバコに火を着ける。

「すみません、長い間言葉を」まだ、上手く言葉がつながらず、
ライはそこで一旦言葉を切った。

サンジの口から登る煙草の煙が天井に向かって揺らぐのを目で追いながら、
ライは続きの言葉をなんとか頭の中で組み立てる。
当たり前のように出来ていた事に、やたら時間がかかる、とその時はじめて
自覚した。

「ええと。」
その微妙な間がサンジとライの間に少し、間の抜けた空気を呼び込む。
却って、それがお互いが素直に、気安く会話を交わせるいいキッカケになった。

「なんだよ。」と中々続きを話さず、沈黙したライに焦れて
サンジが振りかえった。

「上手く喋れないみたいで。」とライは恥かしそうに肩をそびやかした。

言葉や声がなんとなく、薄っぺらい物のように思えるから不思議だ。
伝えたい事をそのまま口に出せば、お互いに、負わなくていい傷を
付けてしまうのではないか、と思うと、「適切な言葉」を選ぶ必要がある。

けれど、もともとライは寡黙だし、
今の時点では、頑ななサンジを説き伏せるほどの真摯な言葉をライは
思いつかないし、また、それを思いつき、ぶつけたとしても、
サンジがますます頑なになってしまうだけだろう。

いや、本当はそんな事、ライの言い訳に過ぎないのかもしれない。

サンジの幸せを願う気持ちは紛れも無く本当だ。
けれども、やはり、「もう少し、側にいたい」と言う気持ちも嘘ではない。
だからサンジを突き放せないし、サンジから逃げる事も出来ない。

「ここにいたい」と言う気持ち、「このままでいたい」という想いは
まだ、ライの心に燻りつづけている。
その事にライは気づきながらも、黙殺しなければ、と無理に
サンジにいつもと変わらない自分を装って見せる。

自分に出来る事など何もない。
サンジの苦しみを癒す事など考えるだけでおこがましい。

癒す場所へ送り出す事だけを考えなければ。
それも、無理矢理にではなく、サンジ自身の足でその場所へ帰れるように。

「何も聞かないんだな。」

ライとサンジはそれから、暫く雑談に興じる。
ライが取り戻した言葉、一つ一つを確かめるようにサンジは
その声を噛み締めた。

自分がここにいる理由が失われて行く事に サンジは僅かに戸惑っている。

ライは、海軍に帰る、と言った。
自分の生きる場所をわきまえ、そこに帰るから、サンジさんも
在るべき場所に帰りましょう、とライは言う。

だが、それ以上はなにも聞かない。

なぜ、ここに来たのか、なぜ、ピアスをしていないのか。
アトリは、ジュニアは、ときっとたくさんの質問をしたい筈なのに、
ライは、何も聞かない。

ふと、お互いの言葉が途切れた時、サンジは
「何も聞かないんだな。」と独り言のように呟いて、ライに何も聞かない
訳を言うように促してみる。

ライは小さく、はにかむように笑って、
「なにから聞けば答えてくれますか。」と返答して来た。

「サンジさんは僕に何も言ってくれないでしょう。」
「本当に大事な事は、なんにも教えてくれないから。」
「聞くだけ無駄です。」
「だから、聞きません。」とゆっくりと言葉を考え、考え、ライは答える。

「決めつけるなよ。」とサンジは明確で、無駄のないライの言葉に
思わず苦く笑った。

「ジュニア君はどうしてます。」
ライは、少し根本から外れた質問をしてみた。
外れているとは言え、これも充分、ずっと心配して来たことだ。

「歩けるようになった。あいつはもう大丈夫だ。」とサンジは
澱みなく答え、それから ジュニアの名前を聞いた途端、
胸にズシリ、と急に錘(おもり)を投げつけられたような重い痛みを感じた。

黙って出てきたから、きっと心配しているだろう。
ジュニアの事だ、毎日仕事はきっちりこなしているだろうけれど、
自分がいないところで、アトリとゾロの様子をつぶさに見ている事に、
サンジはここへ来て、やっと気が付き、今更なのに、胸が痛んだ。

ジュニアの事を聞いただけなのに、サンジの顔が俄かに曇り、
黙りこんだ。
だが、ライはそれに気がつかないフリをして、
「ロロノアさんはともかく、ジュニア君に心配かけちゃ可哀想ですよ。」と
気楽な口調でそう言うと、サンジは

「そうだな。」と素直に溜息をついた。

「自分の事で頭がイッパイになってて、いや。」
「言い訳だな。」とサンジはまた、困ったような曖昧な笑顔を装って、
ライに向けた。

「帰ったら少しくらいの我侭、聞いてやるさ。」

ライはそれを聞いて、ニッコリと笑い、「じゃあ、出来るだけ早く帰りましょう。」と
明るく答えてサンジの表情を窺った。

「余計なお世話だ。俺は俺が帰りたい時に帰る。」
「お前が海軍に帰っても、しばらくオールブルーには帰るつもりはねえ。」

サンジは、そう憮然と答えてまた、ライに背を向けた。


「アトリさんとロロノアさんが本当にサンジさんが考えてるような事になると
思ってるンですか。」

唐突に放たれたライの言葉にサンジはギョッとして振りかえる。
そんなやり取り、一度もしていないのに、ライは何故、そんな事を
明らかに怒りを滲ませて自分に言えるのか、と驚愕したのと、
自分の腹を看破されて、怯えた感情がサンジに沈黙を強いる。

「僕は、ずっとサンジさんの事が好きでした。」
「今でも、それは変わらない」
「だからこそ、僕はサンジさんが何を考えて、僕のところへ来たか、」
「サンジさんがどれだけ隠そうとしても判ります。」

ライは、サンジの肩に切られていない右手を添えた。
その大きな掌は、ごく自然に腕を滑り落ち、引っ張るようにして、
サンジを自分の方へ向かせ、目を逸らせないようにしっかりと見据える。

「サンジさんがどうすれば幸せになるのかも、判ります。」
「サンジさんには判らなくても、僕には判るんです。」

「馬鹿馬鹿しい」、と一笑してサンジは眼を逸らそうとしたが、
ライは、その言葉を
「僕から目を逸らさないで下さい。」と途中で遮った。

余計な言葉が判らないだけに、ライの言葉には飾りも無駄もない。
心の中にあるものがなんの計算もなく、あまりにも無垢な状態で
サンジの前に零れ出る。

サンジはそれを受けとめなければならない。
今、ライと向き合わねば、ライの育て続けた恋を踏みにじり、
殺す事になる。

ライの想いを両手で受け止める事、
それだけがサンジの、ライの想いに対する、たった一つの、そして、最高の形だった。

それを理屈ではなく、サンジは感情で選んだ。
もう、卑屈な苦笑いもせず、タバコを吸うことで会話を遮る事もなく、
蒼い瞳は吸い寄せられるように、ライの青がかった灰色の目を見つめている。

「僕は」

「あなたを愛してます。」他人にはどれだけ陳腐に聞こえても、この気持ちを
現すのに、他の言葉をライは知らない。
そして、その言葉を使うべき人も、サンジ以外には考えられない。

「でも、僕にはあまりにもあなたが大き過ぎて、」
「大きくなり過ぎて、僕の手には持ち切れない」

「でも、僕はあなたがどうしようもなく好きだから、」
「僕の為に、」
「あなたには、誰よりも幸せでいて欲しいんです。」

「俺には、そんな権利なんかないんだ。」

ライの言葉を聞き終わって、サンジは自嘲するようにそう言った。
瞳の中は、まるで風に揺れる湖面のように艶やかだった。

「幸せになる権利なんか、ないんだ。」

海賊をして、自分達の夢を掴み取る為に、生きる為に
数えきれない人間を殺めて来たのも紛れもない事実だ。

それぞれに夢もあり、愛する人もあっただろう。
この運命がその罪の清算なのだとしたら、それを受けるしかない。

「アトリさんみたいな人が何もかも失って、」
「俺が何も失わずに生きている事なんて許される事じゃねえ。」

「俺にはジュニアも、店も、」
「ゾロも、何一つ失ってないのに、あの人は、」

「アトリさんが、一体なんの罪を犯してあんなに悲しまなきゃならねえんだ。」

ずっと、一人で抱えこんで来たものが一気に吹き出した。
何度も、何度も、お前は悪くない、とゾロは自分を包んでくれたけれど、
その温もりが優しく、暖かいほど、サンジは辛かった。

悪くなければ、罪はないのか。
(そうじゃないだろう、)とずっと思って来た。

「優しくて、ホントに春風みたいな人が」
「俺の所為でどんどん荒んで行くのを見るのが辛くて」
「俺は逃げてここへ。」

吹き出す言葉と気持ちを堰止めるようにサンジは口を自分の手で覆った。
意地もプライドもなく、口で遮られた感情が目から雫になって溢れる。

「アトリさんが、ロロノアさんを?」とライは静かに
尋ねた。
サンジが小さく「ああ。」と答えるのを聞いてから、

ふと、窓の外を眺めて、少し、雨の勢いが弱まってきたのを見て、
ライは、「外に行きましょう。」とまだ明けない夜の町へサンジを誘った。

歩きながら話したい、と思ったのだ。
サンジの涙を見ていては、ライも苦しい。
抱き締めたくなる。その気持ちを堪えるのが辛い。
この手に抱き締めたら、また、どうにかなってしまうかもしれない。
それが怖かった。

雨に打たれていれば、涙か、雨か、判別しないでいられる。
傘もささずに二人は並んで、あてどなく歩く。

「腕、大丈夫か。」とサンジは尋ねた。
「ええ、血も止まったし大丈夫です。」とライは澱みなく答える。

長い夜だ、とライは思った。
このまま、永遠に明けないのではないか、と思うほど、まだ、濡れた闇夜は
明けそうにない。

「アトリさんがロロノアさんを好きになったから、」
「ロロノアさんと、離れたんですね。」

ライとサンジは肩を並べ、前を向いて淡々と話を続ける。

「なるようになるだろうって思った癖に、。」
「実際二人がそうなってたら、と思うと帰るのが怖エ。」
「つくづく、バカだよな。」

サンジはまた自嘲気味にそう答えた。

「それで、僕と寝れば ロロノアさんと別れるキッカケになる、って」

ライの言葉にサンジは立ち止まった。
唖然とした顔でライを眺め、
「なんでそんな事」を言うんだ、か、何故、そんな事まで判るのか、と
聞きたいらしい表情で数歩進んで立ち止まったライを見た。

「さっき言ったでしょ、僕はサンジさんの事ならなんでも判るんだって。」と
悪戯っぽい笑顔を返す。

サンジの口から、本当の事を聞いているうちに、ライは
サンジがどれだけ辛かったか、を改めて知る。

逃げてきた、と言ったけれど、理由はどうあれ、
その逃げ場所に自分を選んでくれた事は、形見分けを貰った様に、
悲しくも、嬉しかった。

けれど、やはり、オールブルーを留守にする事で、
ジュニアが苦悩するだろう事も、サンジの料理を楽しみにしてくる客達の期待を裏切る事も、一緒に仕事をしているコック達の気遣いさえ判らないまでに
追い詰められていた事が痛々しい。

なにより、自分を謀って、それでゾロまでもを傷つけようとさえした事は、
その罪の愚かさと重大さに無自覚なるほど、
悲しみと苦しみにがんじがらめになっていたのだ。

それが一番、ライには堪らなかった。
なんの罪もないとは言えないかもしれないけれど、

こんなに苦しみを背負い、優しい人にこれ以上の呵責など必要ない。
もう、充分だ。

「行き止まりか。」と本当に足の向くままに歩きまわっていただけだから、二人は、
路地裏に迷いこんでしまった。

けれど、そのままどちらともなく、壁に凭れて話しを続ける。

「サンジさん、教えてあげましょうか。」とライは
狭い屋根の間を自分達を狙っているかのように降り注ぐ雨を降らせる空が
僅かに灰色を帯びてきたのを目で見上げながら、

「人の想いって、他人がどうしようと自分自身がどうしようと」
「どうなるものじゃなく、流れに任せるしかないモンなんですよ。」そう言うと、

「判ってるよ」とサンジは憮然と答えた。
「だから、こうするしかなかったっつってんだ。」

アトリにゾロへの想いを どうしろ、なんて言える立場ではない。
想いを堰き止められたり歪曲できるものかどうかは、自分だって
様々な経験で知りぬいている。だからこそ、成り行きに任せるしかなかった。

「でも、ロロノアさんの気持ちはどうなるんですか。」とライは
今でも、ゾロに対して羨望の気持ちも、嫉妬の気持ちも全くない事に
自分でも驚きながら、いつもどおりの淡々とした口調で尋ねる。

「サンジさん一人がどう足掻こうと、あの人の気持ちは微動だにしませんよ。」
「僕と寝ようと寝まいと、サンジさんの気持ちだけを信じ抜くでしょうし、」
「バカな事をして、サンジさんが傷ついた事に怒るでしょうが、」
「それでサンジさんを嫌ったり許せなくなるような人じゃないでしょう。」

サンジが答えに詰っている間に、ライはまた、言葉を一つ、一つ、
頭から穿り出すようにゆっくりと言葉を繋げて行く。

「きっと、ロロノアさんは、なにも変わらないでサンジさんを待ってますよ。」

誰かに言ってもらいたかった言葉の全てをライはサンジに
なんの無駄もなく、的確に与えていく。

暗い路地の景色が少しだけ明るみを帯びると同時に、サンジの心を支配していた闇にも、少しづつ、光明が見え初めて行くような気がした。

「俺は、お前を傷つけた事になんの償いもしてねえ。」とサンジは
小さく呟く。

「もう、そんな事どうでもいいんです。」と
ライはこれが最後だと勇気を振り絞り、サンジを壁から引き剥がして、
そのまま、しっかりと腕の中に抱き込んだ。

この濡れた髪の匂いも、消えない煙草の匂いも、細い体の感触も、
濡れていて冷たいけれど、確かに感じた胸の鼓動も、永遠に自分の胸に閉じ込めておく。

決して、決して、この瞬間を忘れない。
眼を閉じて心に焼き付ける。
このまま、時が止まる魔法が使えるなら、命などいらないのに。

「僕に償いをしてくれるって言うのなら、」

一度だけ、愛してると言って欲しい、と言い掛けて、ライは唇を噛んだ。
そんな偽りの言葉に縋って行くのは惨め過ぎる。
真実のサンジだけを憶えて起きたかった。

「あなたが一番好きな人の名前を僕に教えてください。」
「誰と幸せになりたいか、なるべきなのか、」
「サンジさんの本当の気持ちを口に出して、その人の名前を聞かせて、」
「その人と必ず幸せになるって約束してください。」

それだけ言うと、ライはサンジの身体を離した。

「お前の所ヘ来て、本当に良かった。」
サンジはやっと、素直にライの一番好きな顔で笑った。

登り始めた太陽はぶあつい雨雲に隠れてはいるけれど、黒い町が灰色に色づいて
まだ、雨は降り止まない。

濡れた髪が頬にも額にも張り付いているし、
太陽の光など一条も差し込んではいないのに、
ライには、サンジの顔が光りに輝いて見えた。

「ロロノアさんのところへ返りましょう。」
やっと自分らしさを取り戻し、だからサンジは却ってゾロの名前を口に出せない。
それを慮って、ライは先にゾロの名前を口にした。
サンジは「ああ、」と軽く頷く。
その仕草も、さりげなさも、サンジらしくてライは安心したかのように
微笑んだ。


天気が荒れる前にサンジはすぐに島を経つ事にした。

ライの無事を海軍に連絡すると、すぐにヒナの部隊はこの島まで
ライを迎えに来ると言うから、二人は、その日の昼過ぎには、

お互いの生きるべき場所へと別れて進む。

「ここで待っていれば、海軍がサンジさんを迎えに来るのに。」と
ライはその至便性の為にサンジを引きとめた。

また、あのクロコダイルがサンジを狙ったように、グランドラインで
サンジが一人でウロウロしている噂が立つとどんな危険があるか判らない。
それが心配だった。

「来る時も一人でこっそり来たんだ。帰る時もこっそり帰るさ。」と
サンジはそう言ってこの島から出る客船に乗りこむ。

ライは見送りに来て、その船の甲板まであがり、そこで、
二人はしっかりと握手を交わした。

「また落ち着いたら、恋人を連れて遊びに行きますよ。」とライはサンジに軽口を叩く。

「お前が?。」とサンジは聞き返し、ハハ、と短く笑った。
「サンジさん以上に愛せる人をこれから探しますから。」とサンジにからかわれる前に
ライは冗談めかしてそう言ってから、サンジの手を離す。

「本当にそうしろよ。」サンジは急に真顔でそう言った。
「お前にも、幸せになる権利はあるんだから。」
「お前なら、きっと誰かを愛して幸せに出来る。だから。」

サンジがなにかいい掛けた時、出航の鐘が鳴り響いた。
「見送りのお客様は降りてください!」と怒鳴る乗員に急かされる人に押されて、
ライはサンジから引き剥がされる。

「元気で!」と言い交わすだけが精一杯だった。

桟橋から見送れば、薄い灰色の海を行く船の船尾でサンジが大きく手を振っている。
ライも大きく手を振り返す。

決して泣かない。
サンジには決して涙を見せない。

そう決めた。
決めていたから、泣いてるつもりなど、少しもなかった。
笑顔だけをサンジに向けているつもりだった。

お互いの顔が距離と雨粒の阻まれて、見えなくなった頃、
ライはまだ手を振りながら、歯を食いしばって、慟哭を堪えていた。

それでも堪え切れなくて、息が苦しい。
哀しさも寂しさも感じない筈、今は、自分の使命をやり遂げた達成感だけに
満たされている筈なのに、なぜ、こんなに涙が止まらないのだろう。

胸からなにかが喉を突き上げて、口へ、瞳の奥へとその熱が上がってくる。
それが涙になって、慟哭になって止まらない。

サンジ以上に愛せる人など探せる筈もない。
ライはサンジに、真実の愛がどこにあるかの指針を示す事で、
ライの望む、幸せの権利を手にした。

瞳から零れ落ちる、恋の亡骸と引き換えに。

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