サンジがライを探しに突然、オールブルーを飛出して、
コック達にも動揺が走った。

そして、その理由がジュニアとゾロ、ビルから
明かされて徐々にその同様も落ち着いて行ったが、

ごく自然ななりゆきで、アトリもいつもどおりの仕事、
コック達の賄いや雑事などにようやく気を配るようになった。

けれど、それが却ってコック達の、男の目から見ると、
また心配事のタネになっていく。

「まるで、ゾロのダンナの奥さんにでもなったかみたいに。」見えると、
影で囁く声がジュニアの耳にも入る。

誰がどう見ても、アトリはゾロに特別な感情を抱いている。
それは隠し様のないほど明確になって来ていた。

だが、誰もそれをゾロに直接聞ける訳もない。
ジュニアに聞いたとしても、まだ子供だし男女の機微の事など理解出来る筈もないので、
皆がゾロとアトリを怪訝な目でみていても、

ゾロはそれに気づきながらも、無視し、一向に気づかない振りを貫いた。

(あいつがここに帰ってきたら)それで全ての、くだらない嫌疑を
払拭出来るのだから、今は、なにを言っても言い訳に聞こえるだろう。
ゾロにとって、一番、気に掛っているのは、アトリの事でも
コック達の噂でもなく、

日に日に表情を固くしていくジュニアの事だけだった。

自分とサンジの事を心配している上に、大人達の下らない噂に、
気持ちのやりどころを失って、ゾロにもアトリにも、
露骨に反発はしなくても、顔を合わせるのも、避けるようになった。

「ジュニア君が拗ねてしまったみたいで。」とアトリは苦笑しているけれど、
そんな単純なものではない。

(あいつとは腹を割って話すべきだな)とゾロは、
サンジとなら最小限の言葉で理解し合っていたけれど、それが
まだ幼いジュニアにも通用するとは思えず、
サンジが飛出してから 1月足らずのある晩、閉店直後の厨房に
ジュニアを迎えに行った。

ここ数日、ジュニアはビルの部屋に
まるで、逃げこむように転がりこんで帰ってこなかったからだ。

ゾロに話しがあるから、と言われてジュニアは
「一体なにを言われるんだろう。」と怖くなった。

(アトリさんとここから出て行くなんて言われたら、どうしよう。)

有り得ない事だけれど、口さがないコックや、取引の商人達からは、
下卑た声が聞くとも為しにジュニアの耳に届いて、
その可能性が皆無ではないと思い、すっかり怯えていたのだ。

ゾロの考えていた通り、ただ、"拗ねていた"のとは違う。

「ロロノア・ゾロの子供を産んだから、養育費を払え」と
オールブルーに子連れの女が押し掛けて来た、という騒動も、
一度や二度ではない。
サンジはちっとも気にしていなかったけれど、
「サンジさんが女の人を好きなのと同じで、ロロノアさんだって本当は女の
身体の方が好きに決ってる」とコック達はその詐欺めいた騒ぎの度に、
本当にゾロの子供かどうか、と密かに賭けに興じたりしていたものだ。

「サンジだけが特別なんだ。」と男同士の関係についてはジュニアなりに
理解して来た。
けれど、
「ロロノアのダンナも未亡人の色香に迷う事もあるだろうさ。」など
大人の男であるコック達がしたり顔で言うのを聞くと、腹が立って、悔しかった。

「ゾロには話しがあっても俺にはないよ。」とジュニアは
ふたりきりの厨房でビクつきながらもゾロに生意気な言い方で
会話を拒絶した。

「らしくねえな。」

サンジがゾロとの会話を拒絶する、その言い方にそっくりで、
ゾロは思わず、顔を綻ばせた。

「お前はなにも心配するな。」
「俺達は、なにも変わらねえ。これまでも、これからも。」

(俺達って、サンジとゾロの事を言ってるんだよな。)と
ジュニアは目だけでゾロを見上げて、無言のまま
心の中で、自問自答するように尋ねる。

その真っ黒な瞳が縋るように尋ねるその問いに、ゾロは
静かに頷いた。

そして、ゾロは金色のピアスをひとつ、ジュニアに手渡した。

「これ。」は、サンジが身につけていたものだ、とすぐに判った。
驚いて、ジュニアはそれを掌に乗せたまま、ゾロの顔を見上げる。

ジュニアが物心ついてからずっと、ゾロの耳には二つ、
サンジの耳には、ひとつ、いつも煌いていた金色の楔。

「預かっててくれ。」
「俺の耳にはもうそれをぶら下げる場所はねえからな。」
そう言って笑うゾロの声で、ジュニアはやっと緊張を解いた。

「俺はなァ、あいつの次にお前が怖いんだよ、ジュニア。」
「お前の面一日見ねえと寝つけねえ。」とゾロは
ニっと歯を見せて笑い、つられてジュニアも笑った。

「お前が心配するような事はなんにもねえよ。」
「安心しろ。」

もう一度、ゾロは断固とした口調ながら、それでも優しく、
そう言いきった。

ジュニアは大事そうにピアスを握りしめたまま、ゾロの言葉に素直に、
「うん。」と強く頷く。

そのゾロの言葉を信じて、ジュニアはまだ、
心の中に消せない曇りを抱えながらも、
いつもどおりの明朗で、快活な素振りでいられるように努める。

このオールブルーに、以前の明るさを少しでも取り戻す為に。

サンジがいない。
それだけで、ゾロが自分を見てくれるなどとは思えない。
アトリにも、それくらいは判っている。
判っているが、今は、ゾロの目は自分を見ていて、

自分の挙動の一つ一つに目を、心を注いでいる。
理由も、サンジの為、ゾロが真実大事に想うサンジの望みを叶える為だと
判っていても、

(それでも構わない)とアトリは思い始めていた。
今は、夢を見ていると思えばいい。

息子を奪われた悲しみから、

その原因を作った男、自分が原因でありながら、何一つ失わずにいる男に
対する憤りと羨望に自分の良心が腐って朽ちて行く苦しみから

一旦、現実逃避して、眠っている間、束の間見る夢だと思って
その幸せを噛み締めるくらいは。

それくらいは許して欲しい、許されてもいい、許されるべきだと、
自分勝手で都合の良い様に、自分に向かって理屈をこじつけた。
そうすると、心の中を支配していた悲しみと言う色が薄れて、
淡い桃色に染まって行くのを感じて、

例え、それが擬似であり、虚構であると判っていても
「幸せな日々」だと思えた。

ずっと、このまま、こうしていたい。そう願うのに、なんの不自然さもなかった。

やがて、その想いは悲しみに濡れた大地に根ざして、
不幸に打ちひしがれて卑屈になった心の腐食を養分にして、
膨れ上がる。

このまま、サンジが帰ってこなければ、

いつまでもゾロの側にいられるのではないか。
いつまでも、ゾロは自分だけに微笑んでくれるのではないか。

そして、アトリは 自分と話しながらも、
常に水平線に視線を注ぐゾロの
広く逞しい背中に、
精悍で端正な横顔に、心の中で何度も何度も、想いを告げ続ける。

(私は、あなたを愛しています。)

届かなくても、振り向いて貰えなくても、この距離にいられるのなら、と
その時は思えた。

ライは愛する人の幸せを願って、それを守りぬく事を、自分の「愛」だと信じた。

けれど、アトリは愛する人と、ともに在り、ともに生きる事が「愛」だと

サムの父であるリュウと育んだ愛では考えられなかった答えを
悲しみの中から見つけ出してしまった。

オールブルーに嵐が来れば、アトリは心に醜い希望が涌いてくるのを
感じる。
だが、今はもう、それを否定する道徳も、恋心の前に消え失せた。

(難破して海に沈んでくれたらいいのに。)

そうすれば、私は、悲しみに暮れるだろう、ロロノアさんを
どんなことをしても、慰めてあげられる。

「自分でない誰かを傷つけても、その人を愛し貫く事が出来ますか。」
「それほど強く、愛していると言えますか。」

「今の私は傷つく事も、傷付けることも怖くない」
「なにも持っていない私に怖いものなどなにもないんですもの。」
「私は、私の全てを賭けて、ただ、愛する人の為だけに生きていけます。」
「あの人しか見ないで、なにもかもを捧げる事が出来ます。」
「サンジさん、あなたにそれが出来ますか。」

「ロロノアさんを愛しているから、奪わないでくれ、と私に敵意を持てますか。」

「私は、あなたを憎み、自分を貶めてもどんなに惨めな思いをしても、」
「ロロノアさんを愛している、と言えます。」
「あなたよりも、私の方がずっとロロノアさんを愛しています。」

トップページ