ライは体が勝手に火照りはじめたのを感じて、右手の拳を痛いくらいに握り締め、
瞳を固く閉じた。
けれど、それは抗えない、男として生まれたライに備わった、
ごく自然な欲求であり、衝動だった。
(もう、どうなってもいい。)と言う感情だけが頭の中に稲妻のように走る。
何を失っても構わない。
この人が欲しい、と魂が体を突き動かす。
もう、体躯も力もサンジよりもはるかに勝るライがサンジを床に押し倒すのは
造作もなかった。
声をあげるより先に、ライの唇がまるで、飢えに狂った獣が肉を貪るほどの強さで
サンジの唇を塞いだ。
だた、押しつけるだけの接吻だけれど、骨が軋むほど強く抱き締められたサンジは息など出来ない。
ライ自身も息が詰って唇が離れた。
けれど、その手の動きは止まらず、乱れたライの呼吸に雄の猛りをサンジは感じ取った。
サンジがライの体を振り解こうと抗ったのは一瞬だった。
なにもかも諦めたように、サンジは力を抜き、ライから顔を背けた。
その細い、雨に打たれたまま濡れた首が愛しくてライは唇で、掌でそこに何度も触れる。
無我夢中だった。
何も考えられなかった。
それは、ライの良心も理性もなにもかも吹き飛ばし、これから先の事も、
これまでも事も、振りかえる余裕もなく、ただ、目のまえの愛しい者に
男として取るべき当たり前の欲求に屈してしまっただけの事だ。
けれど、
ライの荒すぎる動作を制するかのように、冷たい左頬を覆ったライの右手を
サンジの手が、食いこむほどの強さで握った時に、
サンジの体温を、握られた痛みと温もりを手首に感じた時に
ライは我に返った。
声にも、言葉にも出来ない衝撃が全身を貫いた。
(なんてことを)。
全身の血が一気に凍るような戦慄が、ライの体を震えさせた。
少年の頃、自分を犯した男達のおぞましい行為。
それを今、自分は。
強引にサンジにやろうとしていた。
そんな事、想像もした事はなかったのに。
サンジに対しては、肉欲など持たない。それだけが誇りで、
ゾロに対抗できる、たった一つの武器だった。
魂だけ、心だけで思い続けること。
それだけで幸せだと思える自分であることを誇りにして来たのに。
それを自分でぶち壊すようなことをした。
こんなあさましい欲望が、自分の中に潜んでいた事に今まで気づきもせずにいた。
どうして、こんなことをしてしまったんだろう。
後悔しても、もう(なかった事に)など出来る筈もない。
もう、きっと、今までのように笑ってもらえない。
薄汚い欲望に駆られて、サンジを陵辱しようとした自分に、
サンジを思いつづける権利などない
ライは自分を呼びとめるサンジの声を振りきって、外へ飛出した。
腕の傷から血が滴り落ちていても痛みなど全く感じなかった。
息など出来ない程、胸が、眼が、心に激痛が走る。
積み重ねてきた年月の重さ、想いの純粋さの全てがそのまま、
鋭利に激しく、ライの心を切り裂いて行く。
その痛みに、悲鳴さえあげられずに、ライは雨の中を闇雲に走った。
足に力が入らない。走りたいのに、足取りはよろめくばかりで先に進めない。
出血の所為なんかではなく、自分の弱さ、情けなさ、あさましさ、醜さに
叩きのめされて、立っていられないのに、
サンジから遠くへ、
こんなに醜い感情を孕んでいた自分が二度とあの美しい眼に触れない場所へ、
行くべきなんだ、と追い立てる。
死んでしまえ、お前なんか。
生きる事の、唯一の拠り所を自分でぶち壊したんだ。
死ねばいい。
頭の中で勝手に自分の懐かしい声が喚いている。
無意識に、持ち出していた雷光を引き抜いた。
石畳に力尽きたようにライは座りこむ。
サンジに助けられた命だから、惜しんで来た。
決して、粗末に扱ったことはない。
けれど、そのサンジに厭われて、これから先生きて行く事など出来ない。
サンジに拾われた、あの雨の日に一度死んでいた。
親がわりだったミルクの仇をとって、瀕死の重傷だった時にも、死んだ。
二度、サンジに拾ってもらった命だけれど、もう、いらない。
サンジの幸せが自分の幸せだと想い続けて、そう願う事が自分の愛し方だと
思っていたのに、本当は、
(俺もあいつらと同じなんだ。)と自分の、抉り出された欲望の醜さに
自分自身に憎悪する。
サンジを汚そうとした。
そんな自分が許せなかった。
きっと、もの心つく前から何度も教えこまれていたらしく、
ライは中腰になり、ごく自然に抜き身の刀の柄を地面に、
刀身の切っ先を天へ向けた形で支えた。
切っ先を心臓の真上に当てる。そのまま、思い切り良く膝を折り、体重を掛ければ、
「雷光」の刃はライの心臓に飲み込まれる。
泣くまい、と決めた事ももう頭の中から消し飛んだ。
零れ落ちる、と言うよりも、搾り出され、灰色の眼に滲む痛恨の涙の味は、
はっきりと血の味がする。
名前を思い浮かべる事さえ、汚してしまう。
そう思った。けれど、例え、声にならなくても、最期に呼び掛けたい気持ちを
堪え切れずに、
(サンジさん。)と叫んだ。
雨音にかき消されても、それはただの咆哮にしかならなくてもいい。
愛していたんです。
本当に。
一度でもいいから、はっきりと伝えたかった。
けれど、もう、駄目だ。なにもかもが、終わった。
乱れた呼吸を必死で整える。
手元が狂えば、死に際が見苦しい。
涙が尽きるのを待っていられず、ライは流れ出るに任せたままで、
切っ先を胸に確実に、狙いを定めて固定する。
ガクン、と自然に膝が崩れ落ちた。
きっと、左腕からの出血の所為だ。
だが、そのおかげで刃の先端が胸にプツリ、と食い込む音がした。
痛みがない。
なにも感じない。
意識を失う前に、全体中を刃に乗せよう、と前かがみになり掛けた時、
いきなり襟首を掴んで引き倒された。
「バカ野郎がっ。」
石畳にしたたかに頭を打ちつけ、その衝撃でライは僅かに飛びかけていた意識を
取り戻す。
途端、今度は胸倉を掴んで引き摺り起こされた。
「なんてバカ野郎だ。お前は。」
「なんで、そんなにまで自分を責めるんだ。」
大好きで、恋しくて、愛しくて、なによりも大切だったサンジの怒鳴り声が聞こえる。
どうして、追って来たんですか。
放っておいてください。
そう伝えたくても、ライには言葉が出せない。
自分の胸倉を掴んで震える手を振り解く力もない。
雨が流れる石畳をライの左手と胸から流れ出る血が舐めて行く。
何故、判ってくれないんですか。
中途半端な同情で
心の中に巣食っていた醜さに気づいた自分を生かす事がどれだけ残酷な事か。
「お前は、俺を悲しませたくねえんだろう。」
「だったら、俺を泣かすような真似するな。」
迸るサンジの感情向きだしの言葉がライの慟哭を止めた。
「なにをしたって、許してやる。」
「そのつもりで来たんだ。」
一つの恋が昇華して、そして、形が変わる。
深く切られた左腕の傷を手当てしていた。
なんの他意もなかった。
ライの衝動的な行動など、全く予想していなかったから、一瞬サンジも
恐怖を感じるほど、動揺した。
サンジへ向けてではなく、ライは自分の心の中で常に尽きる事無く
燃えていた炎が、一気に燃え盛った、その炎の熱さに竦んだ。
そして、ゾロの顔が浮かんだ。
これは、裏切りだ、それ以外のなにものでもない。
こんな事をするつもりで、ライを探したのではない。
なのに、サンジは抵抗を止めた。
(このまま、流されたら)、苦しさも増す。
ますます、抜け道のない、泥だらけの迷路に迷い込み抜け出せなくなるだけだ。
けれど、苦しさと引き換えに、
自分を貶める事で、楽になれるような気もした。
こんな下らない男だから、捨てちまえ、ともう一度、ゾロに啖呵を切れる。
今度は、紛れもない既成事実を尽き付けて。
自分とゾロがボロボロになっても、時間を重ねれば、ライとアトリを幸せに出来る。
なにが大切で、なにを守りたいのか、もうなにもわからなくなった。
ここから、出口のない息苦しい闇から逃げ出せるなら、どんなに醜い姿になっても
構わないとさえ思った。
けれども、その暴挙に飛び込むのに怯え
自分の体を痛いほど強く抱き締めるライの手を振りほどこうと手首を握りこんだのは、
自分の卑劣で脆弱な逃げを正して欲しいとでも言うように、ライの恋心に縋ったのかも
知れない。
ライはサンジの体を床に投げ付けるように突き飛ばして、激しい雨が降る外へと
飛出した。
血の跡を辿ればすぐに追い付く事が出来た。
言葉ではなく、痛いほどの後悔がライの口から動物の咆哮のような音で
搾り出され、その音はサンジの胸に鋭く突き刺さる。
ライがどれほどの想いを抱いて、今まで生きて来たか。
言葉ではない分、それは重過ぎるほどの重圧感でサンジの胸を圧迫する。
「お前は、俺を悲しませたくねえんだろう。」
「だったら、俺を泣かすような真似するな。」
助けて欲しい、と思うのはライではなく、サンジの方だった。
これだけの、強さ、ひたむきさ、不器用すぎて、積もり過ぎた愛なら、
逃げこめるかも知れない。
「なにをしたって、許してやる。」
「そのつもりで来たんだ。」
ライは自分に似過ぎている。
傷つきやすい癖に、それを決して人には見せない。
ガラスのような心を持っていても、自分は強いのだ、と信じて生きていた。
本当は、酷く脆くて、不器用で、優し過ぎて、自分を傷つけてしまう。
幸せにしてやれるだろうか。
欺瞞を重ねつづけても、いつかそれが真実に変わる日が来るなら、
アトリとゾロから眼を逸らして、ライだけを見ていれば、
(俺は救われるだろうか。)そんな考えが頭を過る。
とにかく、傷の開いた状態で雨に打たれていては、対した怪我ではなくても、
体に障る。
サンジはライを抱え込むように立たせた。
お互いに凭れあうように、雨の中を歩く。
ライは脱力して、なんの気力もないような顔付きをしていた。
サンジの前では、いつも感情を露骨に出し、無表情な顔を一度も見せなかったのに、
まるで魂を抜き取られたような生気のない顔色で、目つきだった。
部屋に帰ってから、無言のまま濡れた頭を拭いてやり、傷の手当てをしてやっても、
ライの表情は動かない。
「疲れただろう。」とサンジはライに、労わりの言葉をかけると、小さく頷いた。
もう、構わないで下さい。
俯いた、ライの唇がやっと、サンジにわかるようにゆっくりと動いてそう言った。
「ここにいたいんだ。俺は。」
(サンジさんは、嘘ばかりつく、)とライはサンジの言葉を聞いて、
頭を抱えるようにしてうな垂れた。
雨の中、自然に繋いだ手からサンジの気持ちがライの心に流れこんできた。
自分で壊して、そして、また生まれた新しい愛は、
以前よりもはるかに純粋で、凄まじい圧力で結晶化する透明な宝石に似て、
サンジ自身が押し込めようとしている本当の、
サンジの心の中にもあるその宝石と惹かれ合い、ライの心にその輝きを導き、
引きこんだ。
どれだけ深く、強く、サンジがゾロを想っているか。
憧れていただけの稚拙な想いを抜けて、また先の見えない道を歩き始めたライには、
判らない方が、サンジに騙されていたほうがずっと楽で幸せな筈の嘘さえ見抜く。
どうすれば、サンジが幸せになるか、前以上に判る。
判り過ぎて、自分の存在の無意味さに心が抉られる。
けれど、まるで使命のように、そう生まれついた性のように、
ライはただ、サンジの幸せだけを熱望した。
ゾロを諦める為に自分自身を貶める、その道具に使われようとした事さえ、
ライは看破した。
繋いでいるだけの掌からサンジの心の機微が全て伝わる。
振り解き、耳を塞ぎたくても、二度と繋ぐ事のない手を離す勇気も無くて、
ライはサンジの指先が白くなるほど、強くその手を握って、サンジの心を覗いていた。
余りに残酷で身勝手で、我侭極まりない仕打ちだとは思う。
それでも、この優しい人がこれほどの愚考をするほどに、余裕が無くなって、
苦しんでいたことが、同じ様に苦しかった。
恨み事だって言いたい。
あなたは、人をどれだけ悲しませているか判っていますか、と責めたい。
自分の心しか見えなかったから
いくらライでもきっと サンジを殴るくらいの事はしていただろう。
それが出来ないのは、ライの心が複写したかのようにサンジの悲しみも、
やりようのないもどかしさも、逃げ出したいと思う痛みも、全て理解しすぎるほど、
理解出来てしまうようになった所為だ。
ライの恋は終った。
そして、形が変わって、生まれ変わった。
ゾロとは違う、けれど、決して引けを取らない形に完成し、
これから先、ライの命が尽きるまでは、決して揺るぐ事はない。
「幸せになって欲しいんです。」
ライに温かい飲み物を用意していたサンジの背中にポツリ、と独り言が聞こえた。
幻聴か、と思って振りかえる。
ライは、まだ、俯いたままベッドに腰掛けていた。
雨の音が窓を打ち、小さな独り言など耳に入る訳がない、と思い返して、
サンジはまた、手元の小さな鍋に視線を戻した。
「僕が望んでいるのは、それだけなんです。」
驚いて、サンジは振りかえる。
ライは、まっすぐにサンジを見ていた。
「お前、声が」
そう言われて、ライは初めて、自然に声が出せた事に気がついた。
「もう一度、言え。」サンジは、躓くようにしてライの側にしゃがんだ。
「僕は、サンジさんに幸せになって欲しい、。」
「僕の望みはそれだけです。」
あまりに唐突な事だったので、サンジは呼吸を忘れるほど驚いたけれど、
息が戻ってくると同時に、体の奥から嬉しさが込み上げてきた。
「ライ。」と喜びが声を上ずらせた。
突き上げてくる歓喜の感情に身を任せたまま、
思わず、二人はしっかりと抱き締め合って、喜びを分かち合う。
「心配かけました。」
「これで、俺は海軍に戻れます。」
ひとしきり、子供のように無邪気に笑い合ってから、ライは微笑んだ。
これからは涙などみせないで、サンジを欺ける自信があった。
「有難うございました。」
「これでやっと、サンジさんをロロノアさんのところへ返せます。」
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