言葉などなくても生きていける、とライは すぐに判った。
剣と、健康な体さえあれば
自分は死なない。
これから先の人生に楽しいことも、嬉しいこともなくても、
なんの光明を見出せなくても、
死なないでいる、命を惜しむ、それだけの為に
ただ、時間の流れに身を任せている。
それでも、腹は減るし、眠りたくなる。
幸い、孤独には慣れていた。
普段から、あまり表情の変化に乏しい方だけれど、
声を失ってからその傾向は更に顕著になった。
手配書で見たことの有る賞金首を見ては、襲った。
だが、海軍に突き出す事はせず、黙って、鼻先に雷光を突き付け、
へたりこんだ相手を灰色の、今は殆ど感情の篭らない冷ややかな目で見下す。
「助けてくれ。」と懇願する相手を殴り飛ばして、金を奪う。
奪った金で腹を満たすだけの食料を買う。
そうして、"死なない為に生きて"いた。
これでは、ただの追剥だ。
話す事が出来たなら、剣を奮う事無く、せめて、穏やかに、
今までの自分の生き方とは 180度違う世界に思いきって飛びこんでいけたかも
知れない。
が、そもそも、言葉を失っていなければ
海軍を出奔する事などなかったのだが。
(サンジさんは、もう、元気になっただろうか。)
(ジュニア君は歩けるようになったのか。)
余計な心配だと充分に判っている。
あの二人の側には ゾロがいるのだから。
サンジの傷はゾロしか癒せない。
自分の事など、気にしないで欲しい、と願う反面、
本当にサンジが ライの事など気にも留めずにいたらと思うと、
そう思った時、初めてライは強烈に孤独を感じる。
そして、矛盾した気持ちを抱えていると自覚しながらも、
自分がサンジの傷になるくらいなら、サンジに自分を忘れて欲しいと思う。
ライがサンジに出来るのは、無様な姿を見せないようにする事、
ただ、それだけだ。
(もう、そろそろ、俺も脱走兵扱いだな。)とライはある晩、ふと、
野宿していて見上げた空に浮かんだ星座で 時の流れを知った。
ライは 中佐だ。
このクラスの脱走兵になると、軍事漏洩の危険性が大きいので、
脱走兵と認定された途端、そのまま、賞金首になり、世界政府から追われる立場になる。
賞金首になった、となれば、海賊からも、賞金稼ぎからも狙われる。
辞表を書いて、ヒナに送りたくても 今のライは字さえ書けないのだ。
(不思議なモンだ。)とだんだん、ライも腹が据わって来たのか、自棄になったのか、
自分の今の状態を客観的に捉えている。
文字が読めない訳ではない。
人の言葉が判らない訳ではない。
それなのに、自分の言葉が頭の中で組みたてられない、
字を書こうにも、その字が思い出せない。
(もう、どうなってもいい。)と思う。
サンジとジュニアがもとのとおりに幸せに暮らせる日、
自分が何事も無かったように、オールブルーを訪れる日を夢見る事だけが、
今のライに残された、たった一つの希望だけれど、
それだけに縋って生きていく道はあまりに暗くて、あまりに寂しい。
それでも、死を願うような絶望に陥らないでいられるのは、
少年の頃にサンジに命を助けてもらった、
自分の命は、自分だけのものではなく、サンジによって生かされているもの、と言う
信念が暗闇のような道を生きているライを照らす朧気な光りになっているからだ。
賞金首になれば、自分の力量ではどうしようも出来ない窮地に陥る事もあるだろう。
精一杯戦って、精一杯命を惜しんで、刀が折れてしまうまで戦って、
それで命を落すのなら、諦められる。
自分の生も、サンジへの想いも。
だから、(早く、日にちが経てばいい)と思っていた。
早く、脱走兵として自分の首に賞金が掛ればいい、そうすれば、
怠惰な時間を持て余す事無く、命を削るような忙しさの中に身を置けて、
孤独など感じないでいられるだろうに。
ゾロとアトリがサムの墓の前で話しをした夜の事だった。
「私を不幸にした罪を償ってくれ、と言えば、」
「あの人は、あなたを捨てて私を選ぶわ。」
「本気でそんな風に思ってるのか。」
どうして、あんな事を口走ってしまったのか、とアトリは身を捩る様にして、
自室で無き崩れた。
胸が引き裂かれる悲しさ、と言うものは本当にあるのだ。
血など流れていなくても、両の乳房の間が割れて そこから痛みだけが
零れ落ちて行くような痛さ。
涙が吹きでる様に頬を流れる。
その涙は、ゾロにぶつけてしまった言葉を悔いたものではなく、
アトリの瞼に焼きついた、自分を見る、ゾロの眼差しを嘆くものに
何時の間にかすり変わっていた。
愛しい人に向けられた侮蔑するような目。
強く、逞しく、美しい魂だけを肉体に留めた、
今のアトリにとっては、縋る神にも等しい存在までになったゾロに
そんな目を向けられた事で、アトリは自分自身の価値が自分自身で見出せなくなった。
生きて行く価値などない。
愛されたい、愛したい、と願っていた筈なのに、
このまま生きていれば、人を傷つけつづけるだけだろう。
自分の心が渇いて、枯れて行く様をアトリは感じる。
涙を流すほどに、絶望に嗚咽が零れる程に、
死んでしまったほうがずっと楽だとまた、思った。
ゾロに蔑まれるのが辛い。
そして、サンジを傷つけなければ自分の望む幸せが手に入らないのなら、
誰かを傷つけてしか、幸せになれないのなら
生きていても、幸せになれないのなら、
(誰か、私を殺して。)と心の中で叫ぶ。
自ら、死を選ぶ勇気すらもう出せない。
孤独からも、嫉みからも、哀しみからも、遠い遠い場所、
明るく穏やかな場所で、温かい腕に包まれていたい、と願いがアトリに
死を躊躇わせる。
営業が終ってからも、サンジはレストランから帰って来なかった。
「ビルさんと話しをしている。」とジュニアは言う。
「なんの話しだ。」とゾロは尋ねる。
その声が珍しく、ジュニアに対しても機嫌の悪いものだった。
「知らない。俺、アトリさんのところへ行ってくるね。」とジュニアは、
ゾロに適当に答えて、すぐにアトリの家に行こうとした。
「ジュニア。」
アトリに自分の大切な者達が全部、取られてしまうような嫉妬を覚えて、
思わず、ゾロはジュニアを呼びとめた。
「何。」とジュニアはドアを半分出掛けて振りかえる。
「俺の飯は。」ゾロは、椅子に腰掛けたまま、ぶっきらぼうに尋ねた。
「アトリさんの様子を見てすぐ、帰って来るから待っててよ。」と困惑したような顔で
言われて、ゾロはむっつりと黙りこんだ。
その頃、誰もいなくなった、静まり返ったレストランの客席で、
今は、サンジの片腕となったビルとサンジが額を突き合わせるようにして
話しこんでいる。
ビルは眉間に皺を寄せ、沈痛な面持ちをしている。
「俺には、荷が重過ぎます。」
サンジも、火の消えてしまった煙草を咥えたままで、
思い詰めたような真剣な眼差しを隠す事無く、ビルに詰め寄っている。
「お前以外に誰がいるんだ。ジュニアにはもっと、荷が重い。」
「それに、そんなに長い間じゃねえ。」
ビルが返答に窮して、黙りこむとサンジは、軽く、ビルの肩を
叩いて、励ます様に微笑んだ。
「お前にゃ、断わる権利はねえンだよ、ビル。」
「お前と、お前の妹の恩人を探しに行くんだから。」
「暫く料理長代理って事でやれ。」
「誰にも文句は言わせねえ。」
「言い訳のつもりじゃないが、海軍のヒナさんから内密に手紙が来たんだ。」
サンジは、ビルに女性らしい、薄い桃色の封筒に入った便箋を示した。
「ライが脱走兵扱いになる。」
「こんな事をあなたにお願いするのは、筋違いだと重々承知しています。」
「ですが、今のわたくしの立場ではあの子の為に出来る事は限られています。」
「このままでは、あの子は脱走兵として処分されてしまうでしょう。」
「海賊出身のあなたには、理不尽この上ない事でしょうけれど、」
「それも、大勢の人間を束ねて行く為には必要な事です。」
「あの子が、特別な処遇を受けられるように海軍本部へ
あなたの名前で要請します。」
「あなたの護衛で、オールブルーに残っている、とこちらは上層部に報告し、」
「ライが復帰した事にしておきます。その証明のサインを。」
「あなたは、王下七武海に順ずる立場ですから、その証明は」
「きっと、正式に認められる事になるでしょう。」
「どうか、宜しく。」
ビルは、サンジからその手紙を受け取って読み、すぐに丁寧に畳んで、
サンジに返す。
「ライさんを探しに?」
「ロロノアさんにこの事は。」と尋ねるとサンジは、ビルから視線を外して、
目を伏せた。
「知らせない。このまま、すぐに出る。」
サンジは、耳のピアスを外した。
訝しい顔付きのビルの前に、そのピアスをそっと置く。
「アトリさんにこれを渡してくれ。」
「オーナー、」ビルは、サンジの行動に驚き、思わず声を上げた。
「ゾロとは終わりにするつもりだ。」とサンジは抑揚のない声で、
自分に言い聞かせるように静かに呟く。
人を想う心を変える事など、他者に出来る筈がない。
自分でさえ、どうにも出来ないものなのだから。
自分の口から、はっきりと言える訳もない。
嫌いになった訳でもなく、今だに、ゾロへの想いは少しも変わらないのに、
嘘をついたり、わざと傷つけてしまったりするのは辛い。
自分自身も余計に傷の痛みが堪える。
(逃げてる)と判っていても、なりゆきに任せるしかないと思った。
ゾロに向かって、アトリを好きになれ、と言えるほど、
サンジも強くないし、傲慢でもない。
ゾロの気持ちも、充分過ぎるほど判っている。
こんなにゾロへ心を残しているというのに、それでも別れを決意した、と言っても、
ゾロが承知する訳もない。
ゾロから距離を取ろうとすればするほど、ゾロがアトリから遠ざかるのも
判っている。
何よりも、誰よりも、大切に想い合っている、と今でも信じらていられる。
けれど、アトリを幸せにしなければ、と強く想う心には抗えない。
なんの罪もない彼女を不幸にしたままで、自分が安穏と生きて行く事など
サンジには到底、出来そうにない。
自分も、自分の一番大事な人をも、傷つけて それでも、
"幸せになるべき大切な友達"だと想うアトリに自分が出来る事は
もう、これだけだと思い至った。
けれど、このまま二人の前に自分がいては
アトリの苦しみが増すばかりだろう。
サイは投げた。
後の事は、ゾロが決めればいい。
きっと、ゾロなら最大、最良の答えを見つけてくれるだろう。
自分がゾロとアトリの側にいれば、その答えが出る邪魔になる、と
サンジが思い始めた時に
ヒナからの手紙が届けられたのだ。
アトリはゾロしか癒せない。彼女自身がゾロを欲している。
アトリの孤独も痛みも、サンジでは持て余すばかりでどうしようもない事だった。
求められていないモノを与える事で更に彼女の傷は深くなる。
そして、ゾロ自身が、自覚していなくても、明らかにアトリを癒している様を
見ているのにも、もう疲れた。
それに、自分を癒せる人が唯一、ゾロだけであるように、
きっと、ライを癒せるのは自分しかいない、とサンジは思い、
ジュニアにも、ゾロにも、誰にも言わずに、
レストランの仕事を、大事な伝言を ビルに託して、
真夜中のオールブルーを一人で旅立つ。
サンジが船を出して、ビルは目の前に置かれた金色のピアスを呆然と
眺めていた。
(俺がこれを?)渡せる訳がない。
アトリに渡せ、という事は、自分が身を引くから
ゾロをアトリに譲る、と言うサンジの意志を伝えろ、という事に他ならない。
考えあぐねて、ビルはアトリにではなく、ゾロにそれを渡す事にした。
今のサンジは、部下の一人であるビルごときが何を言っても、
冷静に聞く余裕などどこにもないように思えた。
ライを探しに行く事で、疲れが癒せるのなら止めないが、
サンジの眼差しには、どことなく、それ以上に思い詰め、
煮詰まった何かがあるのを見て取って、
(やっぱり、ロロノアさんに止めて貰ったほうがいい。)と
オーナーであるサンジの命に背く事になるが、
かなり長い間考えあぐねた末に、そう決断する。
(まだ、間に合うだろうか。)と自分の考えがなかなか纏まらない間に、
時間が過ぎてしまった事に後悔しながら、ビルはサンジの留守宅を
まだ、夜も明け切らない時間に訪れた。
ジュニアがいつまで経っても戻って来ないので、
ゾロは空腹を抱えながら、うたた寝しつつ サンジとジュニアを待っていた。
「ロロノアさん!」と玄関の方で自分の名前を何度も呼ぶ声がして
ゾロは目を覚ます。
時計を見上げるともうすぐ夜が明けるような時間帯だった。
こんな時間まで、ジュニアもサンジも帰ってこないなどあまりに変だ、と
すぐに気がついて、ゾロは急いで玄関に向かった。
サンジがオールブルーから消えたその夜から、2週間経った。
ライは、土砂降りの雨の中、今夜の寝床を探してさ迷っている。
まだ、自分の手配書を見掛けないのでライはまだ追剥まがいの事をして
生き繋いでいた。
今日は、金がない。
やっと古びた廃屋の石畳の玄関に雨を凌ぐ為に腰掛けて、
昔を思い出していた。
(こんな冷たい雨の日に、俺はサンジさんに拾ってもらったっけ。)
肺を病んで、ゴミの様に捨てられて。
こんな死に方をする為に生まれて来たんじゃない、と思いながら、
これでやっと、楽になれると思った15歳の時、
喉に詰らせた吐血を躊躇いもなく吸い出してくれた、少しタバコの匂いのする
温もりに抱き締められた。
明日、死を決しての戦いに望む時、「一晩だけの恋人に。」と言った自分の
幼い言葉にお互い顔を見合わせて笑った夜の事も、
大切な大切な想い出だった。
飢えていても、孤独でも、その時の事を思い出せば
ライは心が満たされる。
一生のうち、たった一度だけ、一瞬だけでもいい、
サンジの海のような瞳が自分だけに注がれる事があるなら、
その次の瞬間に命尽きても構わない、と孤独が サンジへの想いの深さにも、
強さにも拍車を駈けて行く。
「ライ。」
ぼんやりと雨を眺めているうちに、空耳まで聞こえたのか。
ライは、そう思って雨音に混じって聞こえたその声を無視して
そのまま、降り注ぐ雨の雫へさ迷わせた視線を動かさない。
「ライ。」
ライ、と自分を呼ぶのは本当に親しい者だけで、十本の指で数えられるほどだ。
殆どのものは、通称の「ミルク」と、海軍の肩書きで呼ぶし、
こんなヤクザな生活をし始めて、自分の身を守る為にライに金を渡して
用心棒がわりにするゴロツキなどは、ライの髪の色をさして、「ブルー」とライを呼ぶ。
そして、雨音に湿ったような声だけれど、聞き間違える筈もない。
(サンジさん?)と上げそうになった声は、
ただの呻き声にしかならなかったが、
ライは、自分を呼ぶ声がした方向にやっと目を向けた。
そして、息を飲む。
「以外に簡単な場所にいたな、ライ。」
雨に濡れるに任せたままのサンジがライに向かって、優しく笑い掛けていた。
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