ゾロは、思い詰めた眼差しで自分を見つめているサンジの目を
じっと見返した。
一瞬、アトリにも、サンジにも腹が立ったが、
息がかかるほど近くにいる癖に、そんな戯言を本気で言うサンジに
その腹立ちをそのまま、ぶつけるのもバカバカしいと思う。
「話しはそれだけか。」とゾロは抑揚のない声で尋ねた。
サンジは瞼を伏せて頷く。
「判った、とりあえず、俺は寝る。」
「ヨレヨレに疲れた頭でボけた事ヌカす奴の相手をしてられねえ。」
ゾロはバカにしきったようにそう言うと、乱暴に立ち上がった。
「真面目に話してるんだ、俺は!」とサンジもつられた様に立ち上がる。
「嘘つくなら、もっと上手くつけるだろ、お前。」とゾロは
サンジの肩を突き飛ばした。
いつもなら、それくらいでよろめいたりしないのに、
サンジはその衝撃でバランスを崩して、ソファに尻餅をつくように
沈みこむ。
すぐさま、ゾロがその上に覆い被さった。
「チンケな嘘つく暇があったら、寝ろ。」
「疲れてるから、そんなバカな事を思いつくんだ。」
「また、そんな事言って見ろ、」
「フンじばって、」
ゾロは、サンジの手首を掴んで、起き上がらせながらそのまま、胸に引き寄せた。
「ここから遠い所へ無理矢理連れて行くぜ。」
「俺が癒したいのは、アトリじゃねえ、」
「お前とジュニアだけだ。」
「本当にアトリに惚れたんじゃねえんだろ?」とゾロは聞き掛けて
口を閉ざした。
今、サンジに何を尋ねても、碌な答えは返って来ないだろう。
変わりない想いが、疲労と、背負わなくてもいい呵責と、
優しすぎて、方向性が間違ったアトリへの労わりがサンジの言動を揺さぶっている今、
無駄な会話を重ね、無駄なすれ違いに拍車をかけ、
お互いに疲労するなど、それこそ、意味のない事だとゾロは判断した。
「お前、気がついてねえのかよ。」とサンジは 顔を歪めた。
その泣き出しそうな顔を見て、ゾロは胸が痛む。
(こいつをここに置いておきたくねえ。)と言う思いが唐突に心に吹き出る。
「何が。」とゾロはサンジを抱いたまま、尋ねた。
「俺ア、嘘なんか、言ってねえ。」とサンジはまだ、足掻くように言う。
「うるせえな。寝ろッつってんだ。」
これ以上、サンジを苦しめるのなら、アトリにここから去らせてもいい、と
ゾロはそこまで考える。
例え、アトリに罪がなくても、アトリが側にいる事で、これほど、
サンジが悶々として、いつまでも苦しみ続け、
自分にさえ、数えるほどしか 言わない言葉
例え嘘でも、「愛してる」などと言わせたアトリを このままでは
憎みかねない。
アトリが何の罪を犯していない事は充分、判っているし、
本質の人間性が温かで、優しい女だと知っている。
ずっと、サンジの側にいて、自分達の関係を見守り、
心地良く過ごせるようにいつも、細やかに心を砕いてくれた。
そのアトリを憎むなど、まるで自分が悪人になったかのような
罪悪感を拭えない。
だが、このままではそんな罪悪感など、軽く吹っ飛んでしまうのは、
時間の問題だ。
「とにかく、もう、この話しは終りだ。いいな。」とゾロは
熱の出た子供をあやすようにサンジの小さな頭を撫でて、
額に口付けた。
「このままじゃ、駄目なんだ。」とサンジが小さく呟いているのを
ゾロは聞き流す。
(このままじゃ、駄目だ。)と思うのは、ゾロも同じだ。
「疲れてるかもしれねえが、ボケてなんかねえ。」とサンジは尚も
食い下がる。
「俺の話しを聞いてくれ。」
立ち竦んで、搾り出すように言うサンジのその言葉にゾロは
胸に楔を打たれたような重く、激しい痛みを感じて、
サンジの顔を見た。
今、何を言っても、何を聞いても、すれ違ってしまう、と思って
避けようとした会話だったけれど、
サンジの吐き出す苦しさが 結果的に嘘やゾロを傷つけるような暴言になって、
零れてくるものだとゾロは急に気がつく。
サンジがそれを自覚していない事だとしても、ゾロにはそう思えた。
(受けとめてやるべきだ。)と思った。
これを受けとめて、動じないでいなければ、サンジの側にいる意味がない。
「悪かった。」と、サンジの一連の言葉をまるで相手にせず、
聞くことさえ馬鹿馬鹿しい、と言った態度を露骨に見せて、
サンジの本当の苦しさから目を背けようとしていたことをゾロはサンジに
詫びた。
いつもなら、ゾロが詫びたら 勝ち誇ったような顔をするか、
驚いて、唖然とするかどちらかのサンジだが、
この時は、ゾロの言葉に 真剣で、小さな声で、
「いや・・・お前が謝る事じゃねえ。」と力なく答えた。
本当に疲労困憊しているのが冴えない顔色を間近で見ると良く判る。
「俺には、彼女に子供を産ませてやる事が出来ねエ。」
「それに、俺の作った料理を食べてくれる事もねえ。」
「それでも、俺は、彼女に幸せになって欲しいんだ。」
「大切な、友達だと思うから。」
それを聞いて、ゾロはサンジの体を引き寄せた。
「愛してるって言ったのは、やっぱり嘘か。」と聞くまでもない事を
聞いてみる。
アトリはサンジに 一人では抱えきれない程の悲しみや、苦しみを
初めて与えた女だ。
それが転じて、同情になり、それでなくても、
「誰かを守る」事に関して、自分の何もかもを省みないサンジが、
アトリに対して、特別な感情を持ち得ない状況にある事を
ゾロは ここへ来て、やっと警戒しはじめていた。
警戒は、不安に摺り変わり、ゾロを苛立たせていたのだ。
やはり、ゾロ自身でさえ、自覚できないほど、
本来、朗らかで優しく、人に対して充分過ぎるほどの思い遣りを持つアトリが
哀しさのあまりに、人を恨み、妬む心を 無自覚に心の中に
棲まわせてしまったように。
だから、その不安を消し去りたいがために尋ねた事だった。
「アトリを愛してるって言ったのは、嘘なんだな。」とサンジの答えが
返って来る前にもう一度、尋ねた。
「今のところは、嘘のつもりだ。」とサンジは一呼吸ほど沈黙してすぐに答える。
「でも、彼女を幸せにしたい、と思ってるのは本当だ。」
「判った。」と答えてゾロは再び、サンジの額に口付けた。
「俺に出来る事はなんでもしてやる。」
「お前がアトリを大切な友達だ、っつうんなら、俺に取っても同じだ。」
「だが、お前の望むやり方はしねえ。」
サンジが言い澱んでいたことをゾロはやっと悟った。
本当に自分の心の内をお互いにさらけ出してしまえば、なんと、
言葉が心に素直に沁み込んで行くのだろう、
言葉に出来なかったサンジの想いまでもが、はっきりとゾロに伝わってくる。
「俺に、アトリを抱けとでも言うつもりだったんだろうが、」
「あいにく、俺はお前以外に素っ裸を見せる訳にはいかねえからな。」
長い間、お互いの体温を伝えあうことだけで理解しあえていた二人が、
偽りのない言葉と言う道具を使う事で お互いの心の内を更に
深く知り、また、強く確かに感じ取れる。
ゾロに取っては、サンジの心がどこにも行かずにここにある事を確信できた
安堵を得られた、と言う利点だったけれど、
サンジに取っては、アトリの為に
(俺はやっぱり、何も出来ねえのか。)と思い知らされる結果となった。
自分が幸せであると感じれば、感じる程、サンジは苦しい。
アトリがゾロと会う度に枯れかけた花が息を吹き返した様に、
生きる力を得はじめている事は紛れもない現実なのだ。
そして、やはり、力なく呟く。
「このままじゃ、駄目なんだ。」
翌日、アトリはいつものように畑を手入れするつもりで、
外に出た。
畑に行く前に、サムの墓に向かう。
その後から、気配を感じて振りかえった。
「アトリ」と声を掛けられる前に振りかえると、ゾロがいつもどおりの
無愛想な顔で立っていた。
その姿を見ただけで、胸の鼓動が早くなる。
「おはようございます。」と自然に表情が、自分でもはっきりとわかるほど、
媚びるような笑みを浮かべていた。
まるで、自分の中に二人の人間がいるようで、アトリはゾっとする。
ゾロに微笑んだ自分は一体誰なのか、
現実逃避が生み出した「女」としてのアトリの醜い部分が一人歩きし始め、
自制が効かなくなった、そんな現実味のない光景を
アトリの自我が受けとめられずに、気味の悪い笑みは一瞬で消えた。
「おはようございます。」ともう一度、同じ言葉を繰りかえし、
その沈んだ声で、やっと、夢から醒めたような安心感を得る。
「話しがある。」とゾロはツカツカと側まで歩いてくる。
アトリは、ゾロが追い付いてくるのを待たずにサムの墓の方へ先に立って歩き出した。
自分の意志が分断されてしまう怖れがアトリの表情を固くしていたけれど、
ゾロは全く気がつかないで、その後に着いて行く。
サムの墓に着いて、やっとアトリは振りかえった。
「なんのお話ですか?」とアトリは、ゾロに尋ねる。
ゾロに惹かれている、とアトリは自覚していた。
決して望んではいけない事だと判っていても、最初から諦めていても、
今、死んだ方が楽だとさえ思い詰めていたアトリが生きるために
縋るのは、ゾロへの恋心だけで、
その恋心は、悲憤に歪んだもう一人の女を生み出してしまった。
妄想で満たされるくらいなら許されるだろう、と思い始めて、
一人きりの時、まだ、胸に濃く残る悲しみから逃げたくて、アトリは
幸せな夢を思い描いた。
母親として、人間として、完璧であろう、とずっと努力して来て、
人を陥れたり、憎んだり、必要以上に妬んだりするような醜い部分を
自分の心から排除して来たつもりだった。
だが、妄想と言う夢の中でのアトリは、我侭で、自己中心的な女で、
ゾロの優しさも、強さも、包みこむような愛情も、ゾロの全てを
手に入れて、幸せなサンジを強烈に憎んだ。
そして、そんな自分の心の醜さに気がついてアトリの苦しさは増す。
増すけれど、ここから、オールブルーから去れないのは、
この土地にサムの亡骸が眠っているからではなく、
一人きりで生きていく力がない訳ではなく、
ゾロの側から離れたくないから、と自分の心に答えを見つける。
それに飲み込まれまい、と足掻けば足掻くほど、ゾロの事ばかりを考えてしまう。
あの人と幸せになれたなら、と有り得ない現実に夢を追う、
その力を得る為に今、アトリは生きていて、そこに発生する苦しみを感じる事で、
"生きている"事を実感している。
「サンジさんがもう、言いつけたんですね。」とアトリは
ゾロが答える前に 嫌な笑い方をした。
自分をこんな嫌な女にしたのは、あなたの大事なサンジさんなのよ、と
アトリの心の中で、醜い顔のアトリが叫ぶ。
「替わりに、ロロノアさんを?」と勝手に口が動いて、ゾロを、
サンジとゾロの絆を断ち切ろうとでもするかのように、
耳障りな言葉が口を突いて出る。
ゾロは僅かに眉間に皺を寄せた。
アトリらしからぬ物の言い方に、いささか驚いたようだ。
「結構ですわ、サンジさんじゃないと、意味がないんですもの。」
ゾロに嫌われたくない筈なのに、アトリは自分の口が勝手に喋っている言葉に
呆然とする。
(これは、私じゃないわ。)と思っていても、
夢で思い描いていた、有り得ない、非現実的な空想でのゾロとの会話、
そのままだった。
ゾロへの純粋な想いではなくサンジとゾロの絆を破壊し、
そこへつけこもうとする、悪魔のように意地悪で、計算高い、
姑息な女がアトリの心に棲みついて、勝手にアトリの魂を徐々に侵略して
行く過程が進行している。
「サンジじゃねえと意味がない?」とゾロは怪訝な顔で聞き返してくる。
「ジュニア君をとても大事にしてるから、」
「本当の自分の子供なら、どれだけ大事にするかを見たかったんです。」
「あの人なら、私の産んだ子供も、私もきっと大切にしてくれるでしょう。」
「それなら、私も幸せになれると思ったから、」
「あなたの子供を産ませてください、とお願いしたんですわ。」
サンジなら、どんな嘘をついていても、それが嘘だと見抜けた。
戦う相手がどれだけ姑息な罠をし掛けていても、ゾロには無駄だった。
それだけ、相手に神経を集中しているから、嘘も、策謀も見抜けたのだが、
今、本当のアトリでさえ持て余している、アトリの深い心の底から
抉り出された邪な心理が もう一人の人格を形成している事など、
ゾロに判る筈もないし、その人格がゾロを欺こうとしている事など、
女の怖さなど経験したことのないゾロに察知出来る訳もなかった。
「今なら、私と結婚してください、とサンジさんに言えば、」
「結婚してくださるでしょうね。」
そこまで喋った時、アトリは頭に激痛が走った。
(私は一体、何を喋ってるの、)と言葉が止められない感情に怯え、
目の前のゾロの不信な視線を感じて、涙が込み上げる。
「本気で言ってるのか。」
首を振るだけが精一杯で、言葉が出て来なかった。
言葉を出そうとすると、ゾロとサンジを傷つけるような酷い言葉しか
出せないような気がして、アトリは口を押さえる。
(こんな事、思ってもいないのに、どうして。)とアトリは
それでも、明らかに好意など篭っていない目をしているゾロの視線を
受けとめらずに俯いた。
が、心の中で、自分の声で誰かが命令する。
(あんた、幸せになりたくないの?)
(息子を奪われたと、サンジを恨んでいたじゃないの。)
(ゾロから愛されたい、と願ってるじゃないの。)
「私は、ただ、幸せになりたいだけ。」
「女として、私を愛してくれるなら、誰でも構わない。」
「あなたがどれだけ、サンジさんを愛していたって、」
「私を不幸にした罪を償ってくれ、と言えば、」
「あの人は、あなたを捨てて私を選ぶわ。」
涙を零し、声を震わしながらも、アトリはゾロにそう言った。
「本気でそんな風に思ってるのか。」とゾロはまた、同じような事を聞いた。
あの細やかな気配りの出来る、朗らかだったアトリとはとても
思えない。
思えないが、唐突に見慣れない、女の激しい感情をぶつけられて、
ゾロ程の肝の据わった男でさえ、動揺した。
サンジの性格を知りぬいているアトリの言う事だからこそ、
ゾロは動揺したのだ。
「冗談に聞こえましたか?」とアトリは真顔で答えた。
瞳が激しく揺れていたが、ゾロにはそんな些細な動きなどで
アトリの心の中を推し量る事はとても出来ない。
が、話しはそこまでしか出来なかった。
アトリが急にゾロを押し退けるようにして、そこから走り去ったからだ。
ゾロは思い掛けないアトリの言葉と様子に呆然として、
しばらく、その場に立ち竦んだままだった。
(このままじゃ、駄目だ。)とサンジとは違う感覚で思った。
今までは、どんな事があってもサンジの気持ちを信じ抜いていられた。
どんなに離れても、どんなに辛い目に遭っても、
自分のサンジへの想いは勿論、サンジが自分を想っていてくれる気持ちを
疑う事など一度としてなかった。
昨夜も、それを確信したばかりだと言うのに、
アトリの言葉を聞いて、ゾロの胸に不安が広がる。
今の境遇は確かにアトリにとってはこれ以上ない程不幸なことだ。
けれど、それを盾にされて、サンジがアトリの打算的な要求を拒絶出来るとは
思えない。
まさか、サンジとアトリが接触する事を阻む為に
ゾロが動くだろう事を予測した上での アトリの言葉だったと誰が予想するだろう。
直後、(もう、私は生きていく権利さえない。)とアトリは
自分の心がはっきりと自分の思うようにならなくなった事を
恥じた。
(もう、駄目だわ。)
息子を失った哀しさだけに身を置いていた頃の方の苦しみの方がまだ、
ましだった。
自分の醜さを、その醜さから生まれでた人格が人を傷つける様を
目の当たりにした苦しさは 更に深く、重く、アトリを追い詰める。
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