「誰かを好きなる気持ち」と言う感情をコントロール出来る人間など、
いるだろうか。

そこに、理由があるのなら、コントロール出来る範囲の好意であって、
本当に人を恋しいと想う心に

理由や理屈の説明など、出来ないほうが自然なのかもしれない。

サンジがゾロに惹かれるように、
ゾロがサンジを愛するように、

ライがなんの見返りもなく、ずっとサンジを想い続けるように、

アトリが悲しみの拠り所に恋心をさ迷わせ始めたように。


サンジは、翌日からアトリの食事を自分の手で作り始めた。
相変らず、ネズミが齧ったほどしか口にしないアトリの為に、
少しでも、美味で、食欲のわく物を考えては、工夫し、
どんどんやせ細っていくアトリを必死で気遣った。

「私、サンジさんに酷い事を言いました。」

サンジがゾロにアトリの言葉を言う前に、
営業中、やっと、外に出て、荒れ放題の畑にしゃがみこみ、
その庭で体の鍛練をしていたゾロにアトリは話した。

「何を。」とゾロは聞かず、ただ、アトリの方だけを見て、
話しを聞こうとする姿勢を見せる。

アトリは、ゾロの、サンジの柔らかな優しさとは明らかに違う、
強固な、古木の温もりを感じさせるような優しさを眼差しに感じて、
口篭もった。

(私のやろうとしていたことは、)
人を傷つける事以外、何者でもない、
この優しい人達をただ、苦しませ、悲しませるだけの事だ、と強く自覚し、
また、自分の醜さに向き合わされて、涙ぐむ。

自分の身勝手さに、卑しさに、容易く堕ちて行く魂の弱さに
唇を噛み締めた。

サムが生きていてこそ、気丈でいられた。
サムが生きていてこそ、リュウの、夫の帰りを待つ強い母親でいられた。

「あいつは何も言わねえ。」

言葉をいい澱んだアトリを労わるように、ゾロは視線を外して、
サムの墓地の方へ顔を向けた。

「だから、お前の口から 何も、聞く必要はねえ。」
穏やかで、力強く、なんの迷いも疑いもない口調だった。

(この人に卑しい自分を見せたくはない。)とその瞬間、アトリの
心に閃光のようにそんな感情が走った。

サンジには、弱さも、醜さも、哀しさも、自分を突き動かしていた
全ての感情を曝け出していた。

サンジなら、何をしても、どんな事でも、受け入れてくれる、と言う
甘えもあったのかもしれない。
それとも、男性として、
恋愛対象としてサンジを見たことは一度もなかったから、
自分の全てを晒すことになんの抵抗もなかったのかも知れない。

笑い顔も、顰め面も、息子を怒鳴りつける口うるさい母親としての姦しさも、
今まで、アトリはサンジに全てを見せられた。

サンジに限らず、男性に向かって、自分を装い、媚びたりした事は一度もない。

だが、アトリがサンジを傷つけた事を知りながら、
それを許したゾロの寛容さと、潔さの前にアトリは 自虐的な感情よりも先に、
ゾロに蔑まれる事を怖れる感情が芽生えたのだ。

「それより、サムの墓にこれ、」とゾロは、ジュニアが育てていた球根が
芽吹いているのを掌で掘り起こし、

「植えに行かねえか。」と何気ない調子で、いつもと少しも変わらない
ぶっきらぼうな口調ながら、静かに、アトリに微笑んだ。

「ええ。」とアトリは、頷いて、立ちあがった。
海からの風が アトリの水色の髪を荒す。

「その前に、髪をなんとかした方がいいんじゃねえか。」
「そんなボサボサ髪、みっともねえって、サムに怒られるぜ。」

ゾロがオールブルーに訪れて何度目か忘れたけれど、

朝、コック達の食事と、サンジ達の食事、洗濯、掃除、とバタバタ忙しいアトリが、
髪を振り乱したまま、コック達の居住する建物で仕事をしていると、

「お母さん、髪、ボサボサで、化粧もしないで、みっともないよ。」
「せめて、髪くらい、梳いて来てくれないと、俺が恥じを掻くだろ!」と
サムが駈け寄ってきて、アトリに言った事があった。

「なんなの、親に向かってその言い草は!」と人がいるにも関わらず、
アトリは平手でサムの頬を引っ叩いた。

ゾロは、アトリとサムが本当に想い合って、分かり合って、支え合っている親子だと 
事あるごとに感じていたのだが、

まさか、そんな些細な事で大声を張り上げての親子喧嘩に発展するなど
思いもしなかったので、その件について、妙に鮮明な記憶があった。


「まだ、そんな事覚えてたなんて。」とアトリは気恥ずかしくなり、
さり気なく、髪を手で押さえ、思わず、苦笑を漏らした。

「先に行って、待ってるから。」と余計な事は言わずに、
ゾロは先に立って歩き出す。

アトリは、その背中を見送りながら、胸の中の鼓動が少し、強く脈打っている事に
気がついた。


夜、食事を下げに来たサンジは、また、ほんの少しだけしか
手の付けられていない食器を見て、溜息をつきたくなるのを堪えながら、

また、アトリににこやかに話し掛ける。

「やっぱり、アトリさんはその髪型の方がいいね。」

ずっと、手入れなどしていなくて、髪を梳きもせず、下したままで、
乱れるに任していたのだが、
昼間、ゾロとサムの墓前に行く前に、アトリは、

いつもの首の後ろで一つに括り、太目のリボンで止めたゴムを隠す
髪型にした。

「顔色もいい。口紅を少し、引いたからかな。」とすぐにサンジは
アトリの変化に気づき、口元を綻ばせた。

肌の色は相変らず冴えていないけれど、サンジの言うとおり、
アトリは、サムが死んでから初めて、薄く口紅を差した。
その所為で、少しだけ血色が良く見える。

「髪がボサボサだと、サムに笑われるって。」とアトリは、
サンジの言葉に ほのかに笑って答える。

その笑顔をずっと、待ち望んでいた筈なのに、
サンジは細い矢が心に刺さったような軽い痛みを覚えた。

「そうですか。」とそんな些細な感情をアトリに悟られぬよう、
また、自分でも気がつかなかったように サンジは明るい笑顔で答える。

自分の部屋に戻ると、ゾロがサンジを待っていたように
ソファからむっくりと起き上がった。

(なんだ、さっきの感覚は。)

ゾロの姿を見た途端、さっき、アトリの前で 不快とは言えないまでも、確かに 
感じた疼きのような軽い胸の痛みの理由を分析したいと言う
思いが頭をもたげた。

が、それを打ち消す為に、
「アトリさん、今日は少し顔色が良いみたいだ。」とサンジは
洗いざらしの部屋着に着替えながら、普段どおりの口調でゾロと話し始める。

「そうか。」とゾロはサンジの顔を、目線でサンジの動きを追いながら、
相槌を打つ。
どこか、嬉しそうに見えた。

アトリが元気なるなら、それと比例して、サンジも元気になるはずだ、と
ゾロは考えている。
それはサンジにも充分、判っているのだが、
休息を必要としているのに、今だ、蓄積し続けている疲労を抱えた体は、
その機能を維持する為に精神力をいつもよりも余計に使っていて、

サンジは、かなり、刺々しく、感情的になっていた。

(嬉しそうだな。)とひがむような感情が心に澱む。

ゾロがアトリを癒した。

自分がこれほど、苦しんで、何も光明を見出せずにいたのに。
自分に出来ない事をゾロがやってのけた、
それに嫉妬したのか、

何が気に入らないのか、サンジは言葉に出来ない灰色の不満を
ゾロには見せずに閉じこめた。

髪を結い、口紅を引き、アトリは、翌日、庭に出た。
数時間、そこで庭の手入れをしていた。

ゾロは来なかった。

サンジが昼食を持って来てくれた。
胸になにかが痞えて(つかえて)いるようで、食欲が沸かなかった。

ジュニアの病院にゾロが付き添った、とサンジから聞いて、
なんとなく、アトリは ホっとした。

用事があったから、庭に来なかったのだ、と言う理由が判ったからだと
夕方になって気がついた。

また、サンジが夕食を作ってくれた。
一人で食べても美味しくないから、一緒に食べましょう、と自ら
提案したのに、

殆ど、食べられなかった。
サンジも、同様だった。

(私は、)サンジが食器を下げて、部屋を出ていった後、
サンジに対して、アトリは、今までにない、奇妙な感情を抱いてしまった事に
気がついた。

(サンジさんに後ろ暗いんだわ。)

サンジを目の前にして、サンジが心込めて、自分の為に作ってくれた食事だと
判っていながら、喉を通らなかったのは、

サンジに対して、後ろ暗いのは、その罪の存在に本能的に怯えた所為だと
アトリは自覚した。

決して、抱いてはいけない想いだ。
許される事ではない、報われるわけもない想いに 囚われ始めている。


けれど、日が昇れば、心が体を動かして、庭に出る。

待っているのだ、と自覚するのをアトリは 必死で否定した。

(私は、一人で悲しみを癒すのよ。)と自分に言い聞かせながら、
無心に土を掘り、荒れた畑を蘇らせる事に集中する。

それでも、アトリの中の「女」の性が、
ゾロと二人きりになる時間を、その時間を迎える為に、
アトリに、乱れた髪を梳かせ、紅を差させる。

ゾロと会った日は食が進むかと思ったけれど、
やはり、サンジに対する気持ちが咎めて、心が篭っていると判れば
判るほど、口にするのが辛かった。


1週間ほど、過ぎた日だった。
ジュニアもようやく、松葉杖なしで歩ける様になった。

医者からの点滴で、アトリは飢え死にする事もなく、生きているけれど、
食事は殆ど取らない状態が続いている。

けれど、外に出る時間も増えた。

営業時間が終って、サンジはいつものとおり、部屋に帰って来た。

そして、普段と同じように、ゾロが迎える。

ここ数日、なにか、思い詰めた顔をして、禄に口も利かなかったサンジは、
着替えるより先に、ゾロに向かって、

「ちょっと、座れ、」とソファを指差した。

実は、1週間前、・・・とサンジは、アトリから言われたことを
包み隠さずにゾロに話す。

「子供を?お前とアトリが?」とゾロは驚きを隠せないように
聞き返して来た。

「あの人には、家族とか、愛情を注ぐべき相手が必要なんだよ、」
「判るだろ?」

サンジは、深い、深い蒼の瞳が 激しい感情で揺らいでいるのを
ゾロに悟られないように、真正面に座っているゾロではなく、
その向こうの壁を、さらにその向こうの海を見ているような
ぼんやりとした眼差しを装った。

「らしくねえ。」とゾロは渋い顔をする。
アトリが自分に抱き始めた想いなど、少しも気がついていないのだ。

「だから。」
サンジは、搾り出すように声を出す。
今から、口に出す事が本当にアトリにとって、
最大の救いなのか、確実な答えではない。でも、今はそれしか思いつかないのだ。

アトリがゾロの側にいて、癒されていく。
その有様をこの1週間、つぶさに見ていて、サンジは決断せざるをえなかった。

「お前は、俺の為ならなんでもしてくれるよな。」
こんな高飛車で狡い言い方はない、とサンジは 自分の言葉の
乱暴さに嫌気が差しながら、それでもゾロにそう言った。

「そうだよな。」と答えに窮しているゾロにサンジは詰め寄った。

「時と場合によるだろ。」とゾロは困惑したように答える。

「もう、疲れた。俺を楽にしてくれ。」とサンジは唐突に話題が変わったような
どこか、捨て鉢で自棄に聞こえるような口調で言う。

「お前、なに、勝手に煮詰まってんだ。」とゾロは
思わず、腰を浮かせて、サンジの隣に腰を下ろした。

「俺じゃ、ダメなんだ。」とサンジは膝の上に組んでいた両手を解き、
片手で顔を半分、覆った。

情けなくて、涙が出る。

「なにが世界一のレストランのオーナーシェフなもんか。」
「俺ア、たった一人の、傷ついた大切な友達の腹を」
「満たしてやる事さえ、出来ねえんだよ。」

どんなに心を砕いても、アトリを癒す事は何一つ、出来なかった。
ゾロが気がつかなくても、サンジには判る。

女性が装おうのは男性の為だ。
愛されたい、と願う気持ちの現れだ。

女性の気持ちの機微にかけては、ゾロよりもサンジの方が
はるかに知識も多いし、敏感だ。

それを判っていながら、それでも、アトリを厭うなど出来ない。
自分もゾロにどれだけ癒されたか、自覚しているだけに、
アトリの気持ちもサンジには 判り過ぎるほど、判ってしまった。

だが。

アトリが悲しみから癒され、また笑い、春の日のような女性に戻れる日が
来るのなら、
なんの罪も犯す事無く、幸せの権利を得るに充分なアトリに
その幸せを導く事が出来るなら、

(俺はどうでもいい。)とサンジは思い至った。

今までが、幸せ過ぎたのだ。
数えきれないくらいの罪を犯しつづけ、それでも夢を、

かけがえのない存在をも、得られた事を享受して来た罪を償う時が来ただけだ。

「あの人が笑ってくれるなら、俺はなんでもする。」

ゾロの気持ちよりも、何よりも、アトリが幸せになる事しか
サンジは望んでいない。

「彼女を幸せに出来るなら、なんだってするさ。」

自分に、言い聞かせるようにサンジはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
もう、視線はゾロの顔を真っ直ぐに見据えている。

一度放った矢は、二度と手元に戻って来ない。
言葉はそれと同じで、ゾロの心を深く射抜いて、傷つけた。

俺は、彼女を愛してる。
幸せに、と願ってるんじゃない、

「俺が彼女を幸せにしたいんだよ。」
俺に出来る事はこれしかない、と言う言葉が足りないけれど、
補足はしないで、サンジの唇は暴言のような虚し過ぎる嘘を吐き続ける。

「アトリを愛している」と言う自分を騙す言葉をそのまま使って、
ゾロを欺こうと必死だった。

「だから、俺を捨てろ。」

サンジの言葉を唖然と聞き、ゾロは苦しげに聞き返した。
サンジにここまで言わせた女が他にいただろうか。

「俺よりも彼女を?」

アトリの想いなど、ゾロは知る由もない。
だから、見え透いた茶番を口にするサンジにも、
サンジにそんな馬鹿げたことを本気で言わせるほど、苦しめたアトリにも、
(俺をなんだと思ってるんだ)と腹が立った。

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