ヒナが訪れてから数日経った頃、例の戦闘で死んだコックの
妻がアトリを訪れた。

当然、その前にサンジとゾロに挨拶にも来る。

「よく来てくれたね。」とまだ、20代中頃のその女性に
サンジは、まるで、妹の来訪を喜ぶような穏やかな表情を見せる。

「ええ、やっと落ちついたものだから。」そう言って笑う、彼女の腕の中には、
ふわふわと柔らかく、甘い匂いのする赤ん坊が大事そうに抱かれている。

彼女と、サンジの下で働いていたコックは、二人ともが海賊だった。
普段は、オールブルーの入り口である島に彼女は住んでいて、休みになると
そこへ帰る、という生活をしていた。

結婚して、まだ、3年ほどしか経っていないけれど、
二人とも、やっと、子宝に恵まれて、その生まれる日をずっと指折り数えて待っていた。

「生まれたら、サンジさんに名前をつけて頂きたい」と言っていたけれど、
その赤ん坊が生まれたのは、彼が世を去ってからだった。

「このオールブルーとレストランを守ったんですもの、」
「きっと、あの人は満足しているに違いないです。」

あまりのショックで、死産しかけ、死に際どころか、葬儀にさえ来れなかった
けれど、どうにか、無事に子供をここへ連れて来れた。

「私、アトリさんにもお見舞いをしたくて。」と彼女は言い、
サンジにそれを頼んだ。

男には女の、まして、本当に血の繋がった子供のいないサンジに、
今のアトリの心理を推し量れと言うのは 無理な事だった。

可愛らしい赤ん坊を見れば、心が癒されるかもしれない、と単純に考えても
至極、当然だった。

だが。

「まあ、可愛い・・・男の子かしら。」
「ええ。」

体がまだ弱っていて、起きてはいられないし、起きていた所で
何をしようと言う気も起きないので、アトリはずっと自室のベッドの中にいる。
そこで、上半身だけ起きあがって、アトリは赤ん坊を抱かせてもらう。

赤ん坊を抱いた瞬間、アトリの胸にまた、いいようのない悲しみが突き刺さった。

なんて愛しい。
この無垢な笑顔を見ていると、どんな力も湧いて来るだろう。

夫をなくしたとは言え、彼女にはまだ、この子がいる。
この子に必要とされるから、この人は生きて行く力を得る事が出来る。

それなのに、私にはなにもない。

言葉にすれば、そんな感情だろう。
けれど、アトリは自分の中の感情を客観的に考えることもしないで、
ギリギリと軋む音が聞こえそうなほど 悲しさと猛烈な羨望が
心の中に渦巻いているのを押し隠しながら、

「ねえ、・・・」と、アトリはコックの妻の名前を呼んで、冗談のような口振りで
「この子を私に下さらない?」と言って微笑んだ。

「あなた、まだ若いでしょう。再婚するには子供は邪魔よ。」
「私がこの子を育ててあげる。」
「だから、この子を私に。」

口調が戯言を言っているようなものだから、ただの雑談のように聞こえるのだが、
面と向かって言われているコックの妻にしてみれば、
口元は微笑んでいても、アトリのまなざしには真剣な輝きがあった。

「この子を取り上げられたら、今の私は生きて行けません。」
とやんわり言い返しながら、そっと赤ん坊をアトリから
抱き返した。

そのまま、抱かせていたら、本当にアトリは赤ん坊を離さず、
剥ぎ取るように奪わなければならなくなるかも知れない、と言う母親の勘が
働いたのだ。

「月並みな言い方ですけれど、どうか、元気になってくださいね。」
「息子さんも、オーナーも、きっと、それを望んでいらっしゃるでしょうから。」と
言う言葉を残して、彼女は帰って行った。

(皆、勝手な事ばかり言うのね。)と誰に話しかけるともなく、
アトリは心の中で呟く。

先日やって来た海軍の女軍人は、「息子さんが悲しむから早く元気になれ、」といい。
今帰っていった若い未亡人も、だ。

そして、サンジも、ゾロも。

皆、生きる目的も、生きる力を得られる術をも持っている。
怠惰に生きている人などここには誰もいないし、
自分だって、そんな生き方をしたくはない。

けれど、今は、空虚でこれから先だって、ただ、食べ、眠り、・・・
無駄な時間の繰り返し、幸せだった時間とその記憶、想い出だけを懐かしみ、
決して 元には戻らない事にいつまでも嘆きつづけるだけの虚しい人生を
これから生きていかねばならない自分に、一体どうやって 元気になれと言うのだろう。

誰からも必要とされず、誰からも愛されず、愛さず、生きて行く事を
アトリは想像してみる。

それはなんと 孤独な事だろう、絶対に耐えられない。

「私には、家族が必要なんだわ。」と一人きりのベッドの上で、
天井を見上げて虚ろな表情で呟いた。

守り、育て、愛する者が手の中にあってこそ、
アトリは生きて行く力を得る事が出来る。
無理矢理にでも、前だけを向かなければいけないほど、
悲しみも、憤りも、ドロドロした感情の何もかもを忘れさせてくれる、

あの無垢な温もりがどうしようもなく、アトリは欲しくなった。
それ以外には、何もいらない、とさえ思う。
そして、これ以上に、自分を闇から救い出す方法など有り得ないとまで思い詰めた。
 

「サンジさん、お話があります。」

女性として、とても はしたない事だと充分判っている。
けれど、アトリは迷わなかった。

どうしようもない悲しみがアトリの心根を捻じ曲げてしまっていた。
もしも、普段のアトリが、
今、彼女自身がしようとしている事を客観的に見る立場にいたら、

「どうしたら、そんな思考になるのか理解に苦しむ。」と言えただろう。

サムとリュウを失った替わりに赤ん坊を産む。
そして、その子を生きる目的として生きる。

「私に子供を。」
「赤ちゃんを生ませてください。」

一日に数回、サンジはアトリの好みそうな食べ物を作って持ってくる。
ここ数日、碌な会話をしていなかったけれど、
アトリは単刀直入に切り出した。

「どうしたんです、」

いきなり、なんの説明もなくそんな事を言われて、
サンジが驚くのは当たり前だった。
一瞬の絶句の後、サンジは労わるような笑みを見せながら、
アトリの側の椅子に腰掛た。

「サンジさんは私に生きて欲しいって。」
「その為にはなんでもするって仰いましたわ。」
「一人で生きて行くほど、私が強くないけど、」
「守るべき子供がいればいくらでも強くなります。」

サンジは、じっとアトリの顔を見ている。
アトリの心の中にあるものを全て、見通そう、苦しみも、悲しみも、
理解したい、同じ気持ちで苦しみを分かち合いたい、と言う感情が
篭っていると思える
温かで、優しくて、労わりに満ちた表情だった。

「元気になって、恋愛をして、その上で子供を生むほうが」
「ずっと、あなたらしい。」

アトリの言葉が途切れた時、サンジは咎めるような口調ではなく、
静かに、諭すようにそう言った。

が。
サンジがアトリの言葉に少しも動揺せず、
隙のない優しさとも言える態度が取れるほど、心に余裕が出来た裏には、
ゾロがいる、とアトリは自分の意見が穏やかながらも、
否定された事に歪んだ怒りを覚える。

私だけが悲しみに立ち止まっている間に、自分だけが癒されて。
あなたの所為で、私がこれほど、苦しんでいるのに。

「恋愛するなんて、そんな気力はとてもありません。」とアトリは、
抑揚のない声で答えた。

「私に生きて欲しいなら、私に子供を生ませてください。」
「ロロノアさんは、サンジさんを裏切るような事、」
「絶対に出来そうにないですから。」
「サンジさん、あなたにお願いしたいんです。」

「私に生きて欲しいなら、私に子供を生ませてください。」
「ロロノアさんは、サンジさんを裏切るような事、」
「絶対に出来そうにないですから。」
「サンジさん、あなたにお願いしたいんです。」

思い掛けないアトリの言葉にサンジは 驚いた。
そして、そんな考えを持つまでにアトリが悲しみ抜き、あんなに
温かで、思い遣りに溢れた心が
まるで、枯れて、殺伐としている荒地のように
なってしまった事を目の当たりにして、愕然とする。

「それは出来ません。」とサンジは、アトリの顔を直視出来ずに
目を伏せた。

「ロロノアさんを裏切れないからですか?」
責めるようなアトリの口調にサンジはいたたまれなくなる。
こんなに荒んだアトリと対峙するのは辛過ぎて、折角塞がりかけた
サンジの心の傷がまた、ベリベリと音を立てて開いて行く。


「そうじゃありませんよ。」
「あなたがそれを望むならそうしてあげたいけど。」
「俺は、子供を作れないんです。」

「女性相手ではセックス出来ないって事じゃなくてね、」とサンジは
重い話題だからこそ、あえて、軽い調子で淡々と話す。

「ずっと、昔に大怪我をしてその時に摘出したんですよ。」
「うちの船医にもきっぱり言われました。」
「子供を作る事は出来ないってね。」

それからは、当然、会話らしい会話など出来なかった。
「ごめんなさい。」と随分、長い沈黙の後、アトリは苦しそうに
サンジに謝罪する。

知らなかった事とは言え、古傷を抉るような事、
女性に対して、そんな事を告白しなければならなかったサンジの
男としてのプライドを踏みにじった事にアトリは ここから
煙になって消えたいほどの恥かしく、そして、激しく後悔した。

「いいえ。」
「あなたが謝る事はなにもないじゃないですか。」

サンジは、そう言って何事もなかったかのようにアトリに笑みを向ける。

どうして、この人はこんなに優しいのだろう、とアトリはサンジを見上げた。
そして、この人を苦しめているのは、今だ、悲しみから抜け出す事が
出来ない自分だと思うと アトリは自分の不甲斐なさが悔しくて、
涙が込み上げる。

「助けて、サンジさん。」
「私を助けてください。」

どうすれば、悲しみから抜け出せるのだろう。

サンジのあまりに綺麗な微笑みを見て、自分のやろうとしてきた事、
嫉妬と羨望にとりつかれ、人の幸せを嫉み、
その幸せを剥ぎとろうとでもするかのような醜い人間になり掛けていたのに
全く気がつきもしなかった。

自分の醜悪な心に飲みこまれてしまう恐怖に慄き、サンジに助けを求める。
自分一人ではいつか、きっと、この感情に飲み込まれてしまう、と
怯えた。

この人には、愛する人がいる。
縋ってはいけない、と思う気持ちがあるから、アトリはサンジに
泣き縋りたい気持ちを堪えた。

どんなに離れても想い合って来た二人を側で見ていたから、
その想いの深さも、絆の確かさも、誰よりもよく知っている。

アトリの気持ちを悟ったように、サンジは身を伏せて泣く、
アトリの肩に手を添えた。

「俺を憎む事でも、傷つける事でも、それであなたの救いになるなら、」
「どんな事でも、受けとめる。」
「だから、無理しないでいいんだ。」
「あなたの優しさも、温かさも、本質は何も変わらないんだから。」
「俺にあなたの心の中にあるものを全部、ぶつけて下さい。」


私に子供を。

そう言ったアトリの言葉がサンジの胸を抉っていた。

「どうだった、」と部屋に帰るとゾロがアトリの様子を尋ねる。
「ああ、」とサンジは曖昧に答えた。

もう、夜中になっていた。
アトリの所に行ってから、4時間ほど経っている。

きっと、赤ん坊を見たからそんな事を考えたんだろう、と
簡単に想像出来た。
けれど、アトリの性格を知っているだけに

確かに、それなら我から命を絶つような愚は絶対にしないだろう、とサンジは
思う。

子供を産み、育てて行くうちに、アトリの悲しみは癒されるのだろうか。
また、笑顔を見せてくれる様になるのだろうか。

けれど、自分には出来ない事だ。
もしも、そんな体でなくても、同じだろう。
愛情がなくて、生殖の為に性行為をするというのなら、動物の交尾と変わらない。
そんな事が出来るほど、サンジは器用でも、図太くもない。

「なんだ、何かあったのか。」とゾロは黙ったまま、じっと考え事をしている
サンジを訝しく思って側に来た。

サンジが腰掛けていたソファの真正面に座ると、
ゾロの言葉にサンジは、ハっと顔を上げた。

「いや。何もねえよ。」とまた曖昧に笑う。
そんなやり方でゾロが 「そうか。」と引き下がるはずがない。

「何もねえ?」
「珍しいな。」と詰問するような口調ではなく、同意しつつ、
サンジが自然に喋れるような言葉を続ける。

「いつも、なんだ、かんだ、細けエ事仕入れて来るのに。」
「疲れた、寝る。」

が、サンジは一方的に会話をブチ切った。
あまり触れられたくない事を詮索され始めるといつもこうだ。

だが、数日前、厨房で倒れ、海軍の軍医にも、
「しっかりと休養を取らなければ」と言われているので、
「疲れた」と言われたら、無理に眠る邪魔をする訳にはいかない。

寝間着に着替えるサンジの背中が痩せている事にゾロは胸が痛んだ。
早く、時が過ぎて、誰の苦しみも悲しみも洗い流してしまったら
いいのに、と思わずにはいられない。

「今年の冬もここに残るのか。」と明かりを消して、
二人で寝床に入ってからゾロは尋ねた。

「ああ、そのつもりだ。」

他愛ない会話からでもサンジの気持ちを汲み取りたかった。
アトリの部屋から戻ってきたサンジの表情はどこか、思い詰めたような
普通ではない微妙な感情が浮かんでいたからだ。

大事だと思った者のためなら命さえ簡単に投げ出すような男だ。
油断したら、どこでどう、ボタンを掛け間違えて、
暴走し始めるか判らない。

何度も同じ事を繰りかえしても、その危惧を今だにゾロは拭えずに、
注意深く、サンジの様子を見守っている。

サンジは、当たり前のように側にあるゾロの温もりの中、
薄く目を開いて、ゾロの体を見つめていた。

この体、全部が自分だけの物だ。
掌も、胸も、唇も、そこに触れるのは、自分の肉体だけだ。

ゾロは決して裏切らない。
離れていても、ゾロが触れるのは自分だけだと 信じて疑った事はない。

ゾロから はっきり言われた訳でもないが、
もしも、そうでなく、行きついた町で、娼婦を抱いていても構わない、と
思っていた時期もあったが、
それは実際には 絶対に有り得ない事だとなんとなく、わかり始めた頃のは、
一体、いつだっただろうなどとサンジは考えていた。

「ロロノアさんは、サンジさんを裏切るような事、」
「絶対に出来そうにないですから。」

知らない女なら構わない。自分の見えないところでゾロが誰を抱こうが、
知らなければ、平静でいられる。

けれど、アトリをゾロが抱く、と想像した途端、サンジは
そんな想像を浮かべてしまったことを激しく後悔した。

そして、その後悔を吐き出すように、大きな落胆のような溜息をつく。

(私に子供を。愛すべき存在を。)
そうすれば、彼女は本当に救われるのか。

なぜ、すぐにでもゾロに今夜の事を言えないのだろう、とサンジは
考える。そして、答えが出ないまま、何時の間にか、ゾロの腕に抱かれ、
穏やかな眠りについていた。

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