ゾロは眠らずに、ずっとサンジの寝顔を見ていた。

不思議と眠気は全く起きない。
穏やかなサンジの寝顔と寝息が腕の中にある事に言い様のない
満足感と、安心感を得て、それを充分に堪能するかのように、

時々、深い眠りを妨げないように気を配りながら、
瞼にそっと口付けて、力なく投げ出された手を包み、少しでも温もりを

心地良く、優しい温もりをサンジが感じられるように、
ゾロはサンジの魂が、束の間得た安らかな休息を見守った。

その夜、ジュニアも眠れなかった。

アトリが死を選ぼうとした気持ちの深さまでは推し量れない。
ただ、息子の死を嘆き悲しむ気持ちからの発作的な行動だとしか
考えられなかった。

自分は、母親の命と引き換えに生まれた、とジュニアは思っている。

だからこそ、一生懸命生きなきゃいけないんだ、と
サンジは行動で、ウソップは、真剣な眼差しと口調でずっとジュニアに伝え続けて来た。

「お前を産むか、自分が助かるか、の選択をした時、」
「お前のお母さんは、誰がなんと言っても、お前を産む事を諦めなかったんだ。」と
聞いた事がある。

サムは、自分の命を賭けて、母親を守った。
だったら、アトリは、何があっても、強く生きなければならない筈なのに、と
ジュニアは、ベッドの上で天井を見ながら考えてみる。

(今、それをアトリさんに言うのは、残酷なのかな。)

アトリには、早く、笑顔を見せて欲しい。
何故なら、アトリが救われなければ、サンジも救われない。

サンジが救われなければ、自分を庇って姿を消してしまった、
ライを探しに行く事も出来ない。

息子に依存していたような母親ではなかったけれど、
ただ、死んだ、と言うだけでなく、

自分の身代わりのようになって息子を失ってしまった事が
アトリの悲しみを深く、底のないものにしている。

それは誰の目にも明白だった。
幼いジュニアにも、それは充分に判っている。

(サム、どうしたらいい?)とジュニアは決して応える事のない、
枕もとのサムと自分が映った写真に向かって言葉を出さずに問いかけた。

翌朝。

「おはよう。」とジュニアは堂々とノックもせずに、ゾロとサンジの部屋の
ドアを自由に動く方の足で乱暴に開けた。

二人とも、何も身に着けずにまだ、ベッドにいたが、
サンジは眠ったままだし、ゾロも別段、驚く様子もない。

小さな頃から二人の生活を見なれているけれど、そこで何をしていたか、と言う
知識がないので、ジュニアは全くいつもと変わらない飄々とした態度だ。

「おう。」

ゾロはのっそりと上半身だけ起して ジュニアの挨拶に応える。

「朝御飯、作ってきたから食べよう。」

昨夜の出来事など全く忘れた、気にしてない、と言うような
ジュニアの無理がある明るさに、ゾロは苦笑しつつ、
ゴソゴソと服を身に着けた。

「さっき、海軍から伝令が来たよ。」

サンジを起こさないように、と二人は出来るだけ物音を立てない様に
傍らの小さなテーブルで、朝食をとりながら、静かに話す。

「昼頃、ヒナ太佐がお見舞いに来るって。」
「断わっちまえ。」とゾロは即座に答え、が、もしかしたら、

「ライが見つかったのか。」と思いなおして、ジュニアに尋ねる。
「ううん、何も聞いてないけど。」
ジュニアのいつもよりは明るい表情を見て、
(もしも、そうなら、どんなに嬉しいか)

そう思っている事をゾロは察した。

その時、ベッドの方でサンジがむっくりと起き上がった。

ジュニアとゾロが向かい合って食事を摂っている姿がまず、目に飛び込んでくる。

「まだ、眠たかったら寝てろ。」
「食事は暖めなおすから、ゆっくり寝ててよ。」と
二人揃って、サンジを気遣うような事を当たり前のようにさらりと言った。

「いや、起きる。」

自分の感情に飲みこまれ、二人を振り回し、疲れさせていた事に、
サンジはやっと気がつく事が出来た。

昨夜、ゾロに包みこまれるうようにして眠り、その温かさの中で、
もう、過ぎた事を悔やんでも、無くした物を惜しんでも、
何も変らず、前に進めないのだと 
灰色しか見えなかった心にやっと色彩が戻ってきたような感覚を得て、
ようやく、前を見る気力を取り戻す事が出来た様に思えた。

「アトリさんの側に誰か付いているか?」と ジュニアに尋ねると、
コックの一人が付きっきりになっている、と答えたので、
サンジは、ホ、と胸を撫で下ろす。

午前中に海軍から、軍医がやってきて、サンジとアトリを診察した。

やはり、サンジには強引でも、休息が必要だと言い、
「どこか、のんびり出来るところで休養なさった方がいいですよ。」

そして、アトリについては、
「いっそ、海軍の精神施設に保護した方が安全かも知れない。」と言った。

「檻に入れて、監視して、それで命を守ってるつもりの場所に」
「アトリさんを預けるわけにはいかない、」と当然、サンジはその申し出を突っぱねる。

「しかし、心を癒す事を仕事にしている専門家もいますし、」と言っても、
サンジは、頑として、その意見を飲まなかった。

その軍医と入れ替わりに、ヒナが非公式、と言う事で部下も従えずに、
レストランではなく、サンジの自宅に訪れた。

「家政婦さんが倒れたって聞いたけど、案外、綺麗なのね、男所帯なのに。」
「ヒナ、以外だわ。」

あの戦闘が終り、
つまり、オールブルーとサンジを無事に守った事で、任務終了と言う事になり、
いよいよ、近々 別の駐屯地へ向かう事になった、とヒナは報告しに来たのだ。

サンジの前に現れたヒナは、以前と全く変わらない。
相変らず、軍人然として凛々しく、ライを失った痛手など、
すっかり癒えてしまったか、
もう、ライを諦めて、自分の部下としての価値を斬り捨ててしまったかのように見えた。

「用件が済んだら、お引取りください。」とそんなヒナの様子を見、
サンジは 女性に向けて初めて、険悪な態度を露骨に見せた。

正直、ゾロはサンジのその態度に息を飲むほど驚く。


「随分、嫌われてることね。」とヒナはサンジが出したコーヒーを持ったまま、
肩を軽くそびやかす。

「私は別にあなたに嫌われるようなことは何もしてやしないのに。」
「海賊が海軍を嫌うのは当たり前です。」

ヒナがライを斬り捨てた、と感じたから 
その冷徹さにサンジは ヒナに腹を立てたのだ。

「僕が信頼出来るのは、ルフィさん達とヒナさんだけです。」とライは
言っていた。

少年の頃、仲間にこっぴどく裏切られてから、ライは人を信用しなくなった。
と、言うより、したくても出来なくなった。
その割りに、人恋しい性質だから、このオールブルーにサンジが定住し、
頻繁に会える様になるまで、ずっと孤独を抱えて生きていたのだ。

そのライが海軍で唯一、心を開いて、全幅の信頼を寄せていたのが
ヒナだった。

姉を慕うように、ライはヒナを慕い、
また、弟を庇い、鍛えるように、ヒナはライと接して来た。

肉親のいないライにとって、上官と言うだけでなく、
ヒナは確かに、姉と弟とお互いに思い会っていると確信出来るほど、
二人は密な間柄だとサンジはライがヒナの事を語る口振りを見て、
そう思っていたのだ。

それなのに、目の前に現れたヒナのなんと、平然としている事か。
軍人と言うのは、こんなに血の冷たい輩なのか、とサンジは
同席しているのが耐えがたいほど、ヒナに対して、嫌悪感を感じた。

サンジに憮然とした態度をとられても、ヒナは全く動じずに、
「家政婦さんにもお見舞いを言わせて頂戴。」とヒナは立ちあがった。

「今は、誰であろうと、とても人に会わせられない。」とゾロが
サンジに替わって、ヒナの前に立ちはだかるようにしてヒナがドアの前へ歩いて行くのを遮った。

「今は、誰であろうと、とても人に会わせられない。」

険悪な雰囲気になった時、ドアがトン、トンと小さくノックされた。
ノブが回って、器用にトレーを片手に乗せたジュニアが顔を覗かせる。

「ビルさんがケーキを持って行けって。」と気まずい空気の中に
来た事にすぐに気がついて、おずおずとゾロにそのトレーを渡そうとする。

その首にはライの首飾りがぶら下がっていた。

「僕、それ、見せて。」

ヒナは松葉杖をついたままのジュニアの胸の前に跪く様にして、
その首飾りを手に取った。

「これ、ミルク少佐の・・・ライの首飾りね。」

自分には何一つ残さずに姿を消したのに、ここには、確かにライの足跡が
残っていた。

言葉など、話さなくても側にいればどんな治療だって受けさせられるのに、
何故、姿を消す必要があったのか、ヒナには理解出来ないでいた。

ライが同性愛者ではないけれども、オールブルーのサンジに対して、
強烈な憧れを、抱いていると判っていても、

ライがサンジの苦しみを少しでも軽くする為に、
傷ついた自分をサンジの目に晒す事のないように、とそこまでの深い想いの上、
失踪したなどと、とてもヒナには思い及ばない事だった。

「何か、言い残してない?」
「やっぱり、ライさん、まだ見つからないんですか。」

ヒナとジュニアの声が重なった。

「ええ。まだ、見つからないの。手を尽くして探してるんだけどね。」
ジュニアの問いにヒナは穏やかに、そして、悲しそうに応えた。

「あの子が側にいないと、ヒナ、心細くて堪らないのよ。」
「何か連絡があったら、きっと、教えてね。」

15歳の時から、転属する事もなく、ずっとライはヒナの側にいた。
頼った事など一度もない、
と側にいる時は常にライの前を歩いてきたつもりだったけれど、
いなくなって、姿を追い求めるようになって初めて、
無愛想だけれど、メリハリのある口調や、ほんの時折見せる 照れたような、
微妙な笑顔に いつの間にか それこそ、知らない間に
自分にとってなくてはならないものになっていた、と気がつかされた。

ジュニアの首にぶら下がったイルカは、
どんな時でも、ライの首にぶら下がっていた物だ。

危険な戦地の前線でも、穏やかな海の上でも、訓練中でも、
休暇中でも、ライが肌身離さずに身に着けていた物だと思うと、
物言わぬこのイルカにさえ、ヒナはライの行方を尋ねたい思いに駆られる。

そんなヒナの、
上っ面しか知らないヒナの様子とは全く違った様子に、サンジとゾロは
海軍の将校としてでなく、一人の人間としてヒナを認識した。

自分達とライを繋いでいる絆とは違う、けれど、ヒナとライにも
確かに存在する血の通った想いを知る。

「今日、あなたは海兵としてここへ来たんですか。」
サンジの口調がさっきより少しは柔らかくなっていた。

「個人的に来たつもりよ。」
「伝令を寄越したのは、いきなり訪ねて、
そちらの予定を狂わせたくなかったからです。」とライの首飾りをじっと
眺めたまま、サンジに背を向けて淡々と応える。

ゾロとサンジは顔を見合わせた。
昨日の今日だけれど、アトリを刺激するような事は、
今のヒナは言わないだろう、女性同士なら、何か 励まし合えるような
細やかな言葉のやり取りを期待出来るかもしれない、と

お互いが同じ事を考えているのだ、とその表情だけで伝え合って、
頷いた。

「ジュニア、ヒナさんをアトリさんのところへ案内しろ。」


「こんなやつれた姿で、人に会いたくありません。」とまだ、
憔悴したままのアトリはヒナの見舞いを断った。

けれど、ヒナはお構いなく、と勝手にアトリの部屋に足を踏み入れた。

「息子さんは、お気の毒な事を。」とありきたりな見舞いをまず、
ヒナは述べる。

「私も、大勢部下を亡くしましたから、辛いお気持ち、お察しできます。」
「部下と肉親は違いますわ。」

ヒナの言葉にアトリが突っかかった。

サンジと同様に、軍人特有の、固く、慇懃で、冷たい口調がやはり、
気に障ったのだ。

海軍がもっと、強固な軍備を整えていたら、とアトリのやり場のない
悲しみの矛先がこの時、ヒナを介して、海軍へと向いたのだ。

それでもそのやるせない怒りが生命力の薄れたアトリの体に
生きる事に必要な魂の温度を暖める。

「このお腹を痛めて、産んだ大切な息子と、」
「自分の鉄砲の弾と同じくらいにしか思っていない部下を一緒になさらないで。」

アトリの噛み付くような言葉にヒナの眉が怒りに曇った。
けれど、相手は半病人だ、と必死で怒鳴り返したい感情を噛み殺す。

「それは失礼をしました。」と一応謝ったけれど、
部下を鉄砲の弾と同じ価値の扱いをする軍人だと言われた事に関しては、
どうしても、我慢できない。

「わたくし、一度も部下を鉄砲の弾などと思ったことはありません。」

「なら、なぜ、そんなに平然としてられるんですか。」
「部下の方々が死んでも、あなたのような強い将校様なら、」
「泣き崩れることなどないんでしょうけど。」

何故、この初対面の女軍人にこんなに辛辣な言葉を吐けるのか、
アトリは自分の感情を持て余しつつ、

あの戦いの総責任者であると言うヒナに向けて、八つ当たりのような
理不尽な怒りが後から後から沸き上がって来るのを止められずにいた。

アトリが感じている心の痛みを、鏡のように映し、共に苦しんでくれるサンジや
ジュニアには こんな醜い感情を見せられなかった、その反動かも知れない。

「ええ、泣けません。」

アトリがどんなに激しい感情をぶつけても、ヒナは動じない。
抑揚のない声で答えた。

「わたくしには、まだ守るべき部下があり、」
「その部下達にはそれぞれ家族がありますから。」
「泣いて、立ち止まっていられないんです。」

「そして、失った部下達の死を無駄にしないように、必死で生きているんです。」

繋がりが深ければ深いほど、却って言えない言葉もある。

どんな励ましの言葉も無駄で、無意味で、逆に傷ついたアトリを追い詰めてしまう、
と、近くにい過ぎる事でその言葉を口にする前に 臆してしまって言えない言葉が、
たくさんあった。

殆どなんの繋がりもない、けれど、同じようにやり場のない
悲しみと寂しさだけの爪痕が塞がらないままの心を持つヒナだから
許される言葉が、アトリの強張った感情に揺さぶりをかけた。

「今のあなたを見て、息子さんはどう思ってらっしゃるかしら。」
「悲しみだけを残す為にあなたを庇ったのではないでしょうから。」
「きっと、あなた以上に悲しんでらっしゃるかもしれませんね。」

アトリを気遣って、側にいた誰も、そんな事を口にする者はいなかった。

息子の命と引き換えに生き延びてしまった、それがアトリの一番の悲しみだと
誰もが判っていたからだ。

けれど、誰にも言われなかったその言葉は出口のない洞穴に放りこまれたような
アトリの心の闇に鮮烈な光りを投げ掛けた。

「早く、お元気になられる事をお祈りしています。」とヒナは
呆然としたままのアトリに一方的に声をかけて退室する。

アトリと言うサンジの家政婦の見舞いなど、ヒナにとっては
傷を舐めあう様な、ひ弱で、卑屈な行為だった。

そんな行為だと思っていても、せずにはいられなかったのは、
もしもライが何事もなく無事でいたならば、アトリをも気遣うだろう、と思ったからだ。

(あなたの替わりをしたまでよ。)と目に焼きつけた、ライの首飾りを
瞼の裏に思い浮かべて、ヒナはどこかにいるライに語り掛ける。


ヒナが出ていった後、アトリはまた、自分の愛する家族の写真を眺めていた。
「悲しみだけを残す為にあなたを庇ったのではないでしょう。」と言う
ヒナの言葉が頭の中に木霊する。

「じゃあ、お母さんに何を残してくれたの?」と写真に尋ねても、
まだ、アトリには何も答えが見つからなかった。

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