昼食を一緒に食べた後、ジュニアは片脇に松葉杖をつきながら、
自分とサンジの暮らす建物の方へ歩いて行った。

すぐに戻ってくると思っていたけれど、戻って来ない。

今しかない、と思った。

「ごめんね、ジュニア君」

一瞬でも、サムではなく、ジュニアだったら良かったのに、
この美しい島の土の下の骸が、自分の息子でなく、
もしも、ジュニアだったなら。

そんな事を考えた自分があまりに情けなく、憐れだった。

(なんて、嫌な)人間になり下がったのだろう、とアトリは
サムの二人で暮らした小さな家にたった一人、残って 泣いた。

あんなに優しい子に(なんて 酷いことを)思ったのだろう。

ここにサムがいない。
気丈に振舞ってきたけれど、船乗りの夫もきっともう、生きてはいないだろう。

誰も、助けてはくれない。
何より愛した、家族はもう、アトリが腕をどれだけ伸ばしても、
決して届かない場所にいる。

サムも、夫のリュウも、きっと、花が咲き乱れる、永遠に春のような
場所にいる。

(このまま、生きていれば、私は。)
悲しみ、恨み、悲憤に押し潰され、憎むべき人ではない人を憎み、
恨むべき人ではない人に呪いをかけてしまうだろう。

何故、自分だけがこんな悲しい目に逢わねばならないのか。
なんの罪も犯してはいないのに。
幸せになる権利は、充分にある筈なのに。

(嫌だ、嫌)

アトリは、何時の間にか、床に跪き、しっかりと胸にサムとリュウ、
幸せな頃の家族の写真を胸に抱き締めていた。

そして、次々に浮かぶ、悲しく、辛く、その陰鬱過ぎる感情の流れが、
どす黒い不幸を呼び込む悪魔を引き寄せる。

本来は、
明るく、優しく、朗らかな彼女の心に 入りこんだ悪魔は
彼女の声で、彼女に囁く。

このまま、生きていたら、人を、
幸せに微笑む全ての人を呪うだろう。

そうなる前に。
そうなる前に。

綺麗な心でいられるうちに、サムとリュウの待つ場所に行ける心のままで。

死んだ方がいい、私が生きていれば
私が、生きているだけで誰も救われないのだから。


アトリはフラフラと何かに誘われるようにゆっくりと海に向かった。

誰の苦しみにもなりたくなかった。
サンジがどれだけ自分の為に苦しんでくれたか、今頃になって良く判る。

それなのに。
あの人は何も失っていないじゃないの、と恨み言を呟く自分の心も
否定出来ない。

そんな醜い自分とずっとこの先、向き合いながら、
悲しみが遠のくのを待つほど、
「私は強くないの。」と誰に言うともなく、アトリは呟きながら、

死へと誘う悪魔に引っ張られるように、海に足を進めて行った。


コックになって初めて、サムが得た給金で買ってくれた
服を身につけて、アトリは波に身を任せた。



波が自分を運んで、温かい場所に行けると本気で思っていた。


けれど、寒くて、息が苦しくて、目が覚める。

「アトリさん、」

ぼんやり聞こえたその声に
「サンジさん。」とアトリは返事を言い掛けるけれど、
喉が酷く痛くて声にはならなかった。

「良かった。」サンジが溜息のような安堵の吐息を漏らす。

良かった?アトリはその言葉に対して、自分が苛立つ事に気がつく。

「水に入ってすぐに気を失って、浮いてたんだろうな。」
「波が沖じゃなく、岸へお前を打ち上げたんだ。」

サンジの顔の横には ゾロがいて、心底、ほっとしたようにそう言った。

「何故、放っておいてくれないんですか。」

力を振り絞って、アトリは抱き起こそうとするサンジを恨めしげに
見上げた。

「何故、私を生かそうとするんですか。」

背中に手を回し、抱き起こそうとした途端、アトリは消え入りそうな声で
言葉を吐いた。

「アトリさん」
こんなに険しい顔のアトリを初めて見て、サンジは愕然とする。
そして、何も言えずに唇を噛み締めた。

「このまま、生きていても苦しいだけなんです。」
「どうか、死なせてください。」
「このまま、海に流して下さい。」

アトリは、渾身の力を振り絞って、サンジに取り縋った。
「お願いです。あの子に逢いたいの、あの子のいる場所に行きたいの。」

息が切れ、凍えた体で、唇も戦慄き、アトリは上手く喋れない。
大声で言っているつもりだろうけれど、
あまりに弱く、波の音にさえ、かき消されそうな声だった。

「俺に これ以上、まだ、苦しめっていうんですか。」
「あなたまで死なせたら、俺は。」

無意識に アトリの冷えて、華奢な体をサンジは抱き締めていた。
言葉が出た途端、瞳からも吹き出るように涙が溢れ、頬を伝い、流れ落ちて行く。

この苦しさから逃れる救いを 一体誰に、何に、求めればいいのか。

これ以上の罪の重さを更に背負い、永遠に明けない夜のような人生を
送らなければならないのか。

そんな言葉がサンジの心に沸き上がる。
けれど、それを口にする前に、アトリの言葉が鋭い矢のように、
サンジの心に深深と突き刺さった。

「自分が苦しまない為に私に生きろ、と言うんですね。」
「なんて、身勝手な人達。」

そこまで言うと、アトリの瞳は 力なく瞼に遮られる。

ちょうどそこへ、アトリを探していた別のコック達が毛布を抱えて
走って来た。

アトリを抱かかえてサンジは立ち上がろうとする。
「ジュニア、先に行って、部屋を暖めてろ。どっちの家のも、だ。」と
ゾロは傍らで 目に涙を一杯貯めながら、じっと堪えていたジュニアにそう言い、

「お前ら、アトリを家に運んでくれ。それから、海軍に連絡して、」
「医者をすぐに寄越せって要請しろ。」

アトリの激しい言葉に表情を強張らせたままのサンジから、
コックの一人がそっとアトリの体を受取った。

バタバタと皆、それぞれの役割を果たす為にその場から走り去る。

ジュニアだけが一度だけ、海岸に残ったままのサンジとゾロを振りかえった。
俯いたままのサンジを見つめ、ジュニアは拳で涙を拭って、
それから、

ほんの一時、穏やかで温かい眠りを アトリとサンジに用意出来るようにと
駆け出して行く。

「俺は、彼女に生きてて欲しいんだよ。」
「それだけなんだ。」
「ただ、それだけなんだ。」

自分の苦しみを軽くする為なんかじゃない、と砂の上に
膝を突いたまま、サンジは何度も砂に拳を叩きつける。

ゾロは、傍らに立ち竦み、悔しさにじっと耐えた。
側にいる事しか出来ない。
今は、どんな言葉も無意味だ。
そして、悲憤を分かち合う事さえ、サンジの背中が拒絶する。

「俺は、彼女に生きてて欲しいんだよ。」
「それだけなんだ。」
「ただ、それだけなんだ。」

自分の為なんかではなく、自分の命と引き換えに母親を庇ったサムとの
約束を果たす為に。

お前は、何も悪くないんだ。
もう、誰もお前を責める事なんて出来ないんだ。

ゾロも何時の間にか、サンジのすぐ側に膝をついていた。
自分の感情がサンジの慟哭に突き動かされている。

悲しくて、悔しくて、やるせなくて、もどかしくて、
切ない。

一つの心を共有するかのように、今、サンジの悲しみも、
その心を支配している全ての感情をゾロはつぶさに感じ取る。

蒼と緑の瞳のそれぞれから、搾り出すような雫が零れる。

ジュニアには、サンジの前で泣くな、と言ったのに、
ゾロの感情ではなく、ゾロの心に流れこむサンジの心から溢れてしまった
物をゾロの心が受けとめて、また、溢れてしまったその感情が
ゾロの瞳を潤ませた。

「あの人は、俺を憎まないうちに、」
「そんな心を持たないうちに、死のうとしたんだ。」

自分の醜さと向き合う事の辛さをサンジは、ずっと、ずっと
昔に経験した。

望まない場所で生きる事の辛さ、誇りも、優しさも失って
どんどん自虐的に、自分勝手に、醜い魂になり果てて行く過程が
どれほど 辛いかを知らないでいたなら、
アトリの行動の意味になど気がつかずにいられただろう。

ただ、寂しい、辛い、悲しい、というだけで死のうとするほど、
弱い人ではない。
生死が判らない夫を 笑顔で待ち続ける事が出来る強さも、
女子供だけで オールブルーまでやって来た勇気も、
アトリは持っている。

「憎まれても構わねえ。俺はあの人に生きて欲しいんだ。」

ゾロの心がサンジの言葉、一つ、一つに 痛みを感じ始めた。

同情と愛情。
憐れみと恋心。

その区別が、今のサンジにつけられるだろうか。

その痛みの正体は、ゾロがはじめて経験する とりとめのない不安だと
気がついたのは、

寒くなってきた海岸から、ジュニアが暖めてくれていたサンジの部屋へ
肩を抱き、体全体で包むようにしてサンジを連れて帰って来て

生気の失せたサンジの瞳を見ていた時だった。

サンジに軽薄な歓喜を与えた女性は数知れない。
見目麗しい、と言うだけで サンジは、その女との出会いを喜ぶから、
そんな女がほんの少し、サンジに微笑むだけで 
ゾロから見れば、大げさに見えるほど喜ぶ。

その程度の歓喜だけれど、今まで、喜怒哀楽の喜び以外をサンジに与えた
女性は、誰もいなかった。

あれだけ長い間、一緒に旅した、ナミやロビンも同じ事だ。
初恋のほろ苦さを感じただろうと思うけれども、ビビも大差ない。

だが、アトリは違う。
サンジにこれだけの複雑な感情を抱かせたのは、アトリだけだ。

その事がゾロを不安にさせた。
今は、そんな事を口に出す事さえとても出来ない状況だと 充分判っている。
だから、毛ほどもサンジには悟られないように、ゾロは自分の中の不安を
忘れる為に ただ、サンジの心を癒す事だけを考える。

「ジュニアはどうしてる。」

サンジは、ゾロの方を見ないまま、つぶやくようにそう言った。

「アトリの側についてるんだろ。」

すぐ、隣ではなく、ゾロは少し離れた場所に立ったまま、
ソファに沈みこんでいたサンジを見守りながら、すぐに答える。

「無理ばっかりさせてたな。」
「あいつだって、辛かっただろうに。」

思い掛けないサンジの言葉にゾロは 言葉を飲んだ。

アトリの事ばかり考えている、と思っていたけれど、

サンジが最も重い目の前の痛みから、
やっと 周りを気遣う余裕を取り戻したのか、と
ゾロは 鈍い心の痛みが僅かに 和らぐのを感じつつ、驚いたのだ。

「俺ア、自分の事で頭が一杯になっちまって」
「何も判らなくなってた。」
「今だって、何判っちゃいねえし、どうしたらいいのか、考えつかねえが。」

サンジがやっと、顔を上げる。
真っ直ぐにゾロを見た顔には 少しだけ強がりが混ざったような、
薄い笑みが浮かんでいた。

「俺の頭がメチャクチャになってても、お前がいる。」
「俺の大事な物を俺の目が届かない場所で」
「きっちり、お前が守ってくれる。」
サンジは、口に咥えていただけの煙草を灰皿に押しつける。

「こんな事、ホントは口が裂けても言いたくねえが。」

多分、サンジは何時もの様に、心と言葉を裏腹に操ったり、
意地やプライドで 素直に言えない言葉をひねくれた皮肉に変換したりする
事さえ、出来なくなっているのだろう。

素直なのではなく、感情も、言葉も、剥き出し過ぎて、
生爪を剥いだ指先のように、痛々しい有様にゾロには見える。

「今は、俺の側にいてくれ。どこにも行かないで、ここに。」

それでも、サンジに僅かに残っていた弱さを見せたくない、と言う
意地が言葉を一旦、遮った。

けれど、溢れた感情を堰止めるまでには至らずに、
サンジの唇から言葉となって零れ落ちる。

「ここにいてくれ。」

なんて、俺は愚かなんだ、とゾロは駆寄る様にサンジに近づき、
無言のまま、しっかりと背中に腕を回して抱き締めた。

「すまん。」

サンジがアトリを特別な女性だと。
もしかしたら、愛してる、と今にも言い出すのではないか、と考えた
自分の愚を、ゾロは自分で激しく恥じ、そして、サンジに詫びた。

「何を」謝っているのか、サンジには判らない。
尋ねるその唇をゾロは 塞いだ。

まるで、長い航海の後、激しく抱き合う前の接吻のように、
ゾロは強く、サンジを抱き締めながら口付ける。

このまま、腕に抱いたまま、
ここではない、どこか優しく、穏やかにいられる場所に
連れていってやりたい。

もう、昔の若かったサンジとは違う。
判り切っていた事を改めて、ゾロは強く悟った。

不器用なのは何も変わっていないけれど、
求めるべき時に、本当に求める者を間違い無く求めて、

尚且つ、

ゾロの心の不安までもを 消し去った。

どうか、このままこれから先、何があっても、
今の気持ちを忘れないで欲しいと願い、

何よりも、今、この時にサンジに必要とされている事が
胸が痛むほど ゾロは嬉しかった。

深く口付け、触れ合って行くうちに、自然に 肌を晒して
今よりももっと、もっと、お互いを求める気持ちを行動で示すかのように、
二人は、何かに追い立てられるような激しさで抱き締めあった。

疲れきっていた、サンジの体はいつもよりもずっと過敏で、
ゾロの腕に抱かれて、意識を失うように眠りに落ちて行った。

どこにも、連れていけないのなら、
せめて、穏やかな眠りと 心の休まる夢を見られるように、
ゾロが出来る事は 温もりでサンジを包む事だけだった。

「お前が望むなら、俺はどこにも行かずに
「いつでも お前の側にいるんだ。」
そう囁く声が サンジの心に響く事を もう、決して疑ったりはしない。

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