「答えて、アトリさん。」
「サムの髪の色、目の色を答えてください。」
「俺をしっかり見て。」

「あなたが、サムよ。」
アトリの眼は、明らかに正気ではなかった。

サンジの背中の良く晴れた空を。
その上の雲の、さらにもっと、もっと、遠く、高く、
目に見えない物を探す眼をしていた。

「本当に俺がサムに見えますか。」

すぐ側にゾロがいなかったら、サンジはきっと、挫けていた。
アトリにサムの死の真実を告げる事をまた、先延ばしにしていただろう。

自分が楽になる為ではなく、アトリと言う女性の為に。

「もし、俺が先に死んで俺の幻影を 俺以外の誰かに見て、」
「お前がそいつを俺の変わりにしていたら俺は 辛い。」
「死んだって死にきれねえ。」

そう言った、ゾロの言葉を勇気にしてサンジは、アトリの真っ黒な、
黒い真珠のような瞳に想いを注ぎ込む。

「俺は、サンジ。サムの師匠のサンジです。」


何度もそうアトリに語りかけるサムではないその声が
アトリに最期のサムの記憶、サムの姿を思い出させた。

水色の髪と、黒い瞳は、母親譲り。
浅黒い肌は父親譲りのとても優しい息子。

「お母さん」と安心したように
にっこり笑った最期の笑顔は 血まみれだった。

「サムはどこですか。」
「どこにいるんですか。」

サンジに憧れて、このオールブルーに親子でやって来た。
目の前には、憔悴し切って、眼を真っ赤に泣きはらしたサンジと、
その恋人のゾロが青い空を背にして立っていた。

「サムは」死んだ、と言う言葉をサンジは言い澱む。

「サンジさん、サムは」
浮ついた眼差しではなく、夜に見た夢を語るような曖昧な口調ではなく、
アトリの眼差しも声も、完全に正気な人間のものだった。

真実を言う、と心に決めている。
アトリに全てを伝えなければ。
そう思うけれど、どんな言葉を使えば、アトリの受けるダメージが
最も少ないかをサンジは必死で考える。

けれど、急く、アトリの様子にサンジの思考は麻痺して、
ただ、もう、サムの死を予測し始めたアトリの悲痛な想いが
心に濁流のように流れこんで、何も言葉を紡ぐ事が出来ない。

「サムは死んだ。お前を庇って」

ウソです。
何故です。
誰が。

どうして。

激しい感情が一気に溢れだし、精神がそれを受け止めきれずに
アトリはそう叫んだ途端、サンジの腕の中で唐突に意識を失った。

ただ、伏せた瞼からは涙が滲み出し、頬を濡らす。

ゾロは、アトリを抱き締めるサンジの背中をそっと庇うように抱いた。

必死で堪えていても、サンジの食いしばった口から
嗚咽が漏れて、肩が震えていた。


その日から、サンジは店にいる時以外は、ずっと、アトリの側にいた。

サムの死の真実、最期の様子をつぶさに教えた。
二人で毎日、サムの墓碑に花を捧げた。

肌の色もくすみ、日々、アトリはやつれていく。
食も進まず、眠らず、殆ど喋らなくなった。

死んでしまいたい、とアトリは何度も言う。
「この先、ずっとこんな悲しみを抱えたまま、一人で生きて行くのは辛い、」

その言葉がサンジを傷つけている事さえ、今のアトリには判らない。

サンジが店にいる間は、ゾロがそれとなく、アトリの様子を見ていた。
「あいつを責めないでくれ。」

立った、一言、ゾロはアトリにそう言った。
「判っています。」無表情にアトリはそう言って頷く。

いつも、明るくて、陽気で、
側にいるだけで
春の陽だまりにいるような気分になる様な親子だった。

レストランの誰もが、アトリを心から心配してサンジの眼が届かない時間は、
必ず、交替でアトリの側にいて、眼を離さない。

特に、まだ、足が充分に動かないジュニアは殆どの時間をアトリと過ごしている。

それがアトリに取って、少しでも、
悲しみが癒される時間になればいい、とサンジも特に
何も言わなかった。

眠れず、食も進まないのはサンジも同じだ。
それでも、仕事の手は一切抜かず、店ではいつもとまったく変わらない
態度を貫いている。

「オーナー、無理しないで下さい。」と言いたい言葉を誰もが飲みこむ。
忙しく働いている間は、サンジの苦しみが薄れているのなら、
黙って見守るしか出来ない。

サンジは、アトリの事もそうだが、ライの事も気掛かりだった。

言葉を使えず、夢を手放すようにジュニアに首飾りを託して
姿を消した。
きっと、自分の傷ついた姿をサンジに見られること、
見られた時、それがサンジを傷つける事を恐れてのことだろう。

どんな姿でも構わないのに。
ただ、生きていて、側にいれば、どんな事でもしてやれるのに。

そんな事を考え始めると眠れなくなり、いつしか
朝が来て、また 忙しい一日が始まってしまうのだ。

「お前、顔色悪すぎるぞ。」

ジュニアが作った朝食さえ、サンジは殆ど手をつけずに
コックコートに着替え始めたのをゾロは見咎めた。

「生まれ付き、こんな色だ。」

サンジはそう言って取り合わない。
だが、その朝のサンジの顔色は血が通っていないように見えるほど、
あまりに悪く、病人のようだった。

「今日一日くらい、休んでよ。休まないなら、せめて、ご飯くらい食べてよ。」
「昼飯に食うから置いとけ。」
心配そうにジュニアがそう言っても、
サンジは店の開店準備に出掛けて行ってしまった。

「サンジ、」待って、と足を引き摺りながら追い駆けたジュニアの目の前で
ドアが閉まる。

「ジュニア?」

ドアの前でゾロに背を向けたまま、突っ立っているジュニアを
訝しく思ってゾロは声を掛けながら近づく。

「お前。」そして、言葉を失った。
ゾロを見上げた、ジュニアの双眸からボロボロと涙が頬を伝って流れていた。

「俺達、なんにも悪い事してないのに、なんでこんなに辛い目に
あわなきゃならないんだ、ゾロ。」
静かで、感情を押さえながら話している口調が徐々に
激しいものに変わって行く。

「皆、笑って暮らしてたじゃないか。毎日、毎日、楽しかったのに。」
「いつになったら、また、あんな風に暮らせるんだよ。」
「俺、もう、嫌だ。」

サンジを、アトリを慰めよう、とジュニアはずっと気を張詰めていたのだろう、
二人が少しでも食欲を持つように、ジュニアは色々と心を砕いて
料理を作っていたのも、

アトリの畑の花の手入れを見様見真似でやっていたのも、ゾロは知っている。

ゾロの胸に縋って、ジュニアは泣きじゃくった。
「俺、皆が笑ってる顔見たいよ。」
「もう、嫌だ。」

小さな頃からジュニアは本当に手の掛らない子供だった。
優しくて、しっかりしていて、歳の割りに大人びたところもあった。
だから、忘れていた。
まだ、ジュニアが大人ではなく、まだ、繊細で脆い感情を持った少年だと言うこと。

「俺も嫌だ、」ゾロは着ているシャツが涙で濡れるほどジュニアの顔を
しっかりと胸に引き寄せてやる。

「俺の前ではいくらでも泣いていい。」
「お前までが笑わなくなったら 救いようがねえからな。」
「その代わり、俺もお前の前で泣くかもしれねえ。」

「ごめんね、ジュニア君。」

アトリは、今日もほんの少しだけ、ジュニアの作った食事を口にしただけだった。

「ううん、少しでも食べてくれたらいいんだ。」とジュニアは
ニッコリとアトリを労わるように笑う。

「お店はいいの?」
「うん。」

ジュニアを見る度に、ここにサムがいてくれたら、と
アトリの寂しさと悲しさはますます募る。
ふいにドアを開けて、コックスーツで汗まみれになったサムが
「ただいま、疲れたよ〜。」と帰ってくるような
気がしてならない。

そんな事はもう、決して有り得ないのに。

「ゴメンね、」
ジュニアを見ると、アトリは泣けて仕方が無かった。

泣き顔ばかりを幼い少年に見せている自分が情けない。
目の前で泣かれたらジュニアも困るだろうけれど、それでも、
サムとジュニアが重なって、なにかにつけて 涙が零れる。

もう、毎日が春のようだった、幸せな日々は戻って来ない。
この先の人生に一条の光さえ見出せない、とアトリは
暗澹たる気持ちに どんどん飲み込まれて行く一方だった。


店はあいからず、忙しい。
昼の営業の真っ最中の出来事だった。

「おい、メインの皿があったまってねえぞ、バカ!」
「さっさと温めて持って・・・。」


来い、と言い掛けたサンジの視界が歪んだ。
歪んだまま、回った。

まるで、嵐の日の海の船底で揺られているように足元が揺れる。

「オーナー!」と言う大声が耳触りだった。
掌には床の冷たい感触がして、そこに吸い寄せられるようにサンジの
体は傾いた。
倒れまい、と縋った調理台の上の食材が床に散らばる。


そこから、記憶がなくなった。


「ロロノアさん、大変です!」

今、サンジの右腕として最も厨房で頼りにされているビルが
血相を変えて桟橋を駈け渡ってきた。

まだ、昼の営業は終っていない筈だ。

「なんだ、」
ゾロはその時、
電伝虫で、海軍からライの情報を問い合わせていた最中だったが、
唐突にビルが飛び込んできたので、その作業を中断する。

「オーナーが店でぶっ倒れました。」

「あのバカ」
ゾロは吐き捨てるようにそう、呟く。

朝の顔色を見る限りでは倒れても少しもおかしくないような状態だった。
予測できた事だが、人の意見を聞くような男ではないのは
知りすぎるほど知っているが、ゾロは思わず、舌打ちをする。

そこへ、ジュニアが帰って来る。
「どうしたの?」
慌てて桟橋の方へ向かうビルとゾロにジュニアは怪訝な顔をした。

「オーナーが倒れたんだ。」
ビルは なんの考えもなしに即答する。

ジュニアとビル、ゾロは桟橋を渡って店に向かった。


客の中にたまたま医者がいて、すぐにサンジは診察を受ける事が出来た。
「過労と栄養失調と、脱水症状ですね。」
「栄養を取って、ゆっくり休めば治りますが。」

その医者も、今のレストランの状態を新聞などの情報で知っていたらしく、
「今は、とてもそんな精神状態じゃないでしょうから、」
「薬を飲む事をお薦めしますよ。」

たまたま、客として来ただけで医療道具など持っていない、と
その初老の医者は申し訳無さそうに言ってから、
「出来るだけ早く、海軍の軍医にでも診てもらって
睡眠剤や、栄養剤を処方してもらった方がいいでしょう。」と言う診断を下した。

コック達の休憩所にあるソファに横たえられ、サンジは
死んだように眠っている。

眉間に影を作り、額に脂汗を浮かべた、苦しそうな寝顔だった。

(どうしたら、こいつを楽にしてやれるんだ)

ゾロにはその答えが見出せない。
恨むべき相手が生きているなら、そいつを恨めばそれでいい。
けれど、誰も何も悪くない状況で苦しむサンジにとって、
一体何が救いになるのか、ゾロには判らなくなっていた。

いっそ、このオールブルーの事をサンジが全て忘れてくれたら、
どこかへ連れ去って
静かに二人で暮したい、とそんな馬鹿げた妄想までが浮かぶ。

「父さんは、俺に出来る事をやればいいって言ったんだ。」
ポツリとサンジの額の汗をそっと拭いながらジュニアが呟いた。

「俺に出来る事って一体なんだろう。ゾロ。」
サンジの前では決して泣かない、とジュニアはゾロに"約束"をした。
例え、眠っていても、その約束は守っている。

「なんだろうな。俺にも俺が出来る事がわからねえんだ。
「お互い、困っちまうよな。」

ゾロはわざと茶化したような口調で答えながら、ジュニアの
頭をごしごしと撫でた。

無理ばかりさせている、と大泣きさせてしまった後にゾロはやっと
気がついた。
ジュニアにも安息が必要な時期に来ている。

「お前、ウソップについていけ。暫く、帰ってこなくていい。」

眠っている、と思っていたサンジが眼を閉じたまま
静かに口を開いた。

「俺は海賊じゃない、この店のコックだから父さんとは行かない、ここにいる。」と
ジュニアは驚愕もせずに淡々と言い返す。

「アトリさんの側には誰がついてるんだ、今。」

サンジは急に起き上がってゾロに食って掛るようにそう聞いた。
いきなり起き上がった所為で眩暈がしたのだろう、
目を細めてすぐに俯く。まだ、酷い顔色だった。

「誰って。」

サンジが倒れた、と騒然となったコック達も、ゾロもジュニアも、
すっかりアトリの事を忘れてしまっていた。


「アトリさん」
「アトリさん」

桟橋を渡った、サンジ達のプライベートな陸の上の家には
アトリの姿はない。

サンジもジュニアも、コック達も皆、島中を名前を呼びながら
必死で探す。

「オーナー、こんなものが!」コックの一人がサンジの家の
リビングのテーブルの上に手紙を見つけて
大慌てでサンジに届けて来た。

サンジはそれを引っ手繰るように受けとって、唇を噛む。

水色の封筒に、「サンジさん、ジュニア君へ」とアトリの文字で書いてあった。

「ごめんなさい。」とだけ、書かれた手紙が中に入っていた。


もう、夜の営業が始まる時間に差しかかっている。
けれど、サンジは店に戻らずに、海へ走った。

海に生きる男を誰よりも愛していたアトリなら、
きっと、海を選ぶ。

血相を変えて走るサンジを追って、ゾロもその後に続く。

サンジがゼフの幻を見たあの時と同じ色に空も海も染まっていた。

点々と歩幅が短く、華奢で小さな足跡がサンジを海に呼び寄せる。
お母さんを頼みます、と言うサムの最期の言葉が何度も何度もサンジの頭の中で木霊した。


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