それが、現実逃避だろうと、一時的な記憶の錯乱だろうと、
今のアトリに取って、サンジがサムであり、
ゾロがその父、つまり、アトリにとって 夫である リュウである事が
必要だった。

「今、彼女に真実を知らせたら、きっと死んでしまう。」
「だから、彼女の状態が安定するまでは、どうか、」

アトリの主治医は ゾロとサンジにそう言った。

サンジはすぐにそれを承諾した。

「元気になったら。」
家族でピクニックに行きましょう。
家族で海を見に行きましょう。

家族で。

その思いだけがアトリの命を繋いでいるのなら、
どんな事でもする。
サンジは、自分をサム、と呼ぶ アトリの側に サムとして
ずっと付き添っていた。

けれど、ゾロは納得できずにいた。

「俺は、嘘をつくのは嫌だ。」

サンジは、サムの振りをしてアトリの前で無理に笑う。
その笑顔が痛々しくて、ゾロは直視できなかった。

ただ、嘘をつく、と言う単純な罪の意識から言っているのではなく、
サンジがサムになりきればなりきるほど、

アトリがいかに、母親として サムを愛していたかを
サンジは ますます深く知る事になる。
それは サンジの呵責をさらに強め、苦悩を深くしているようにしか
見えないからだ。

「彼女の体が治ったら真実を言うよ。」
「でも、今は 俺の為にも彼女に嘘をつく事を許してくれ。」

思い掛けないほど、サンジの言葉は サンジらしくないものだった。
いつも、どんな時でも 強気で、我侭で、傲慢で、
高飛車なサンジが ゾロに向かってこんな弱気な言葉を口にした事に
ゾロは胸が抉られるような痛みを覚える。

思わず、名前を呟くように呼んで 抱き締めた。

何故、こんな苦しみをこいつは背負わなければならない。
一緒に背負っているつもりだけれど、
優し過ぎるサンジはきっと、ゾロ以上に 苦しい筈だ。

「俺は嘘をつきたくねえ、けど。」
「それで、お前が少しでも楽になるなら。」

二人でアトリを騙す事になるけれど、彼女には生きていて欲しい。
花を愛し、人を愛し、なんの穢れも罪もない彼女が
悲嘆にくれたまま、命を終えていい筈がない。


そして、1ヶ月が過ぎた。


海軍では、ライの行方を探している。
けれど、いまだに見つからない。

ジュニアはようやく、退院する事が出来た。

「母さん、荷物俺が持つよ。」
「ありがとう、サム。」

彼女の錯乱した頭は 体が治っても まだ サムの幻影を
サンジに見続けていた。

つじつまの合わない事はたくさんある。
けれど、アトリの錯乱した頭では そんな事は矛盾がある事さえ
認識出来ないで、

目の前にサムがいる。
サムが笑っている。
サムが母さん、と言って笑っている、その隣で、無口だけれど優しいリュウがいる。

彼女の世界は今、それだけで満たされていた。

その世界で彼女は生きていた。

誰もその世界を侵す事は出来ずにいた。

「体が完治したら、真実を言う。」
ずっと、ゾロはそう思い続けていた。

アトリの前でサンジが笑う裏で、その苦悩の深さを感じていて、
それを一時でも早く取り去って

嵐のような悲しさに、
アトリもサンジも向き合わなければならないだろうけれど、
今のままでいい筈がない。

もしも、自分が先に死んで、サンジがアトリのように、
誰かに自分の幻影を見るようになったら、

「もし、俺が先に死んで俺の幻影を 俺以外の誰かに見て、」
「お前がそいつを俺の変わりにしていたら俺は 辛い。」
「死んだって死にきれねえ。」
「サムも同じじゃねえか。」

オールブルーのアトリの家に帰って来て、アトリのいないところで
ゾロはサンジにそう言った。
「もう、大丈夫だろう。ここまで三日の航海に耐えられたんだ。」
「お前が言えないなら、俺が言う。」

ゾロの言葉をサンジは 決断できない迷いからか、
視線をさ迷わせながら 黙って聞いている。

「いいな。」否は言わせない。
どんな理屈を捏ねても、虚偽の人生を歩み続ける為の正当性など
ゾロは認められない。

本当の悲しみに向き合い、サムの死を嘆き、その悲しみから立ち直らなければ、
真実の人生を生きているとは言えない。

ゾロは、アトリの事も大事に思うからこそ、真実の人生を生きて欲しい、と
願う。

「ゾロ。」
小さな悲鳴にも聞こえるような声でサンジは口を開いた。

「ダメだ。」
体が治ったから、と言うのは一つの目安にしかならない。
ずっと、サム、とアトリに呼ばれてその愛情の深さと細やかさに触れて、
アトリがいかに家族を必要とし、愛しているかを目の当たりにしてきた。

「彼女が壊れてしまう。」
「俺が、サムのままでいないと彼女は。」

アトリの世界が崩壊する。
その有様を見なければいけない辛さに
サンジの方が耐えられない。

けれど、それを口に出せば、ゾロまでもを苦しめるとサンジは
知っていた。
嘘をつくことを何よりも 厭うゾロが自分の為に
ずっと、アトリの前ではリュウでいてくれた事で、
ゾロも 自分の苦しみを一緒に背負ってくれているのだ、と判った。

それで心が休まると言うことでもなかったけれど、
もう、これ以上、ゾロだけでも苦しめたくなかった。

「お前がアトリさんに真実を言うつもりなら、」
「ここから出て行けよ。」
「もう、俺一人で大丈夫だから。」

どうして、こんな言い方しか出来ないのだろう、と自分の
へそ曲がりな唇をサンジは噛んだ。

思いのままを単純に口にすれば良かった。
一度、放った言葉の矢はどうしようもなく、ゾロの心を傷つけると言うのに。

けれど、例え サンジの唇から出る言葉がどれだけ辛辣でも、
ゾロにはサンジの心が透けるように見える。

サンジ自身がどれだけ隠したり、誤魔化したりしようとしても、
ゾロが長い年月積み重ねてきた想いがそれを払拭し、
ガラスごしに見えるほどに、ゾロは、サンジの心に触れられる。

「俺は俺の好きな時にここを出ていく。」
「誰も俺を追い出す権利はねえよ。」

ここまで 共に苦しんだんだ。
これから待っている苦しさの方がずっと辛い筈、
それを一緒に感じて、一緒に乗り越える為に俺はここにいる。

出す言葉はいつも へそ曲がりでも、
ゾロの本当の想いを込めた唇からの囁きを
サンジの唇は素直に受取る。

口付けは、素直な言葉を交わせない二人が、想いを伝え合う為の
手段だった。
言葉なら、耳を塞げばいい。
眼差しなら、目を閉じればいい。
けれど、口付けは心を閉ざさない限り、
相手の想いが激しければ激しいほど、
流れこむ感情と、自分の感情がぶつかり合う時の
苦しさを強く感じても、決して拒絶出来ない。

これ以上、苦しめたくないから ここにはもういて欲しくない。
サンジの感情がゾロの心に沁み込んで行く。

苦しむのが判っていて、ここから去れる訳もない。
ゾロの想いがサンジの感情を包む。

「俺、ライさんを探しに行きたい。」

ジュニアを心配してやって来たウソップに
ジュニアはそう言った。

「父さん、俺を連れて行って下さい。」
「でも、お前。」

ジュニアはまだ、13歳だ。
一人でグランドラインをどこにいるかわからないライを探して航海出来る
筈がない。
だからといって、ウソップと二人で航海するのも同じくらい、無謀で危険な事だ。

「第一、 サンジが許す訳ないだろう。」
「俺は父さんに聞いてるんだよ。」

ジュニアの言葉にウソップは胸に楔を打ちこまれたような気がした。

確かに実の父親は間違いなく自分だけれど、ジュニア自身も、
周りの人間も、ジュニアの父親以上に父親なのは
サンジだ、と思っている。それは当然だ。

(不甲斐ねエ)、とは思うけれど、この息子をこんなに立派に育てたのは、
サンジだ、というのは間違いのない事実だ。

そんな引け目をジュニアの言葉はズバリとついた。

初めてジュニアに父親として期待されている。
それにどう応えるべきか。

瞬時に考えた。

そして。
「ダメだ。」とウソップは答える。

「お前は今、サンジの側にいるべきだ。」
「お前がライを探してここを出て行く事をあいつは望んでると思うか?。」

そう言われて、ジュニアは言葉を返せなかった。
胸にぶら下がっている、イルカの首飾りをギュっと握り締める。

「サンジにはゾロがいるじゃないか。」と小さく呟いた。
自分の実の父親が一度決断した言葉を翻すとは思えないけれど、
自分だって 必死の決心で頼んだ事をこんな短い会話で
引っ込めてしまうのは悔しい。

「ゾロはゾロ、お前はお前だ。」
「人にはそれぞれ、役割分担ってのがある。」
「お前は、やれる事を精一杯やるんだ。」
「それだけでいい。」

ウソップは、そう言って力強く笑い、ジュニアの頭を乱暴に撫でた。

「何かあったら、皆ですぐに駈け付けるからな。」

ゾロとサンジの間に起こった出来事に 今だ、夢を追いつづける
ゴーイングメリー号の仲間達を巻き込まない様にと
一連の事件をルフィ達には知らせなかった。

ただ、ジュニアの事だけは、父親としての勘が働いたのか、
偶然にも、ウソップだけがフラリと オールブルーに訪れて来て、
この状況を知る事になったのだ。

「判った、ありがとう、父さん。」
「俺は、俺の出来る事をやるよ。」

イルカを握って、心で話し掛ければ、ライに届くような気がして、
ジュニアは祈る。

俺、きっと、サンジの支えになるよ。
だから、ライさんも、元気で帰って来てくれますように。


サムは仕事に行く。
コックコートを着て。

リュウは船乗りだから一日、体を鍛えている。

アトリの作った食事を三人で食べる。
「美味しい?サム?」と聞くと、にっこりと笑って
「美味しいよ、母さん。」と答える。

枯れていた花に蕾がついた。
サムの友達のジュニアがそれを教えてくれる。

空は高く晴れていた。

「アトリ、散歩に行こう。」とリュウが言う。
コックコートのままのサムがその後にいる。

「サム、お仕事は?」
「いいから、行こう、」

サムがアトリの手を引いて、歩き出す。

「行きたいくないわ、私。」

サムとリュウの表情が固い。

まるで、身内のお葬式にでも行くような顔つきをしているじゃないの。

「離して、サム。お母さん、散歩なんか行きたくないの。」
「行くんだ、アトリ。」

厳しく叱責するような声で、悲しそうな眼差しのリュウは
じっとアトリを見た。

「イヤよ。」

私は、ここにいたいの。
あなたと、サムとここにいたいの。

アトリはサムの手を振りほどいた。

なんて、悲しそうな顔をしているの、サム?

「どうして泣くの、サム?」
「どこか、痛いの?」
「お母さんが嫌い?」
「お父さんに叱られた?」
「お友達に虐められたの?」
「お腹空いたの?」

目の前のサムがどんどん幼くなる。
小さな少年になり、やがて、幼い子供になり、
アトリの腕の中で むずがる赤ん坊になる。

「泣かないでね、サム、いい子だから。」
「お父さんが怒ってる声がうるさいわね、でもいい子で、」
「ねんねしましょうね。」

アトリ

と、狂ったように名前が呼ばれているけれど、
今は、サムを穏やかに眠らせることが先決だった。

リュウの掌がアトリの頬を打った。

突然、腕の中の赤ん坊が消える。

腕を乱暴にリュウに引っ張られて、どんどん行きたくない場所へ
連れて行かれる。

「イヤ、痛いわ、サム、助けて!」

「ゾロ、止めよう、止めてくれ!」

空は高く晴れて、心地良い日だった。
だから決めた、というのではないが、もう、アトリを騙し続ける事に
なんの意味も見出せない、と二人はついに決心して、

訝しげな表情のアトリを サムの墓地へ連れて行こうとした。

錯乱が酷くなったアトリをゾロは引き摺るようにして連れていく。
サンジはゾロの腕にしがみ付いて必死でそれを止めた。

ゾロはサンジの顔を見ない。
きっと、蒼い瞳からは溢れるように涙が零れている筈だ。
それを見たら、決心が鈍る。

サンジとアトリの悲鳴のような声に唇を噛み締めて耐え、
ゾロはついに サムの墓碑の前に辿りついた。

「アトリ、お前のロケットの中を開いて見ろ。」

ゾロの言葉にアトリは狂ったように首を横に振った。

「サム、この人は誰なの。」
「リュウじゃないわ、リュウはこんな酷い事私にしないもの。」

アトリは敵意剥き出しの目をして、ゾロを見ながら サンジの方へと
後ずさった。

「アトリ、お前の髪は何色だ。」
「お前の息子の髪は何色だった。」
「お前と同じ色だったんじゃないか。」

「ゾロ、」止めろ、と言うサンジの声をゾロは自分の声でかき消した。

「そいつの髪は 空色をしてるか。」
「サムの目は、そんな色だったか。」

リュウの姿はどこにもなく、目の前には緑色の髪の男が
目に涙を一杯貯めて 自分に向かって怒鳴っていた。

ただ、アトリは怖かった。
膝が震え、立っていられなくなる。

何に怯えているのかわからない。
この緑の髪の男が誰なのかわからないけれど、
何故、(この人は泣いているの?)と思いながら、怯えて震える。

自分を支えるように抱き締めていたサムの体がとても熱い。

「この人は何を言ってるの、サム?」
「この人は誰なの?何故、泣いてるの?」

そう尋ねたアトリにサムは 思い掛けない言葉を呟いた。

「答えて、アトリさん。」
「サムの髪の色、目の色を答えてください。」
「俺をしっかり見て。」

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